與話情浮名横櫛 (よはなさけ うきよのよこぐし)

昔の歌は息が長かったのだろう。

春日八郎の「お富さん」は昭和29年の曲だが昭和34年に小学生になった私も「粋な黒塀、見越しの松に~」と歌っていた。

意味も分からずに「死んだはずだよお富さん」と面白がっていた。それは見事な七五調の所為でもあるだろう。

それもそのはずで、歌舞伎の『與話情浮名横櫛 (よはなさけ うきよのよこぐし)』が元になっている。

音羽屋の映像がYouTubeにあるのだが長すぎるので、市村羽左衛門、尾上松助、尾上梅幸のレコードから音声だけでも聴いて欲しい。

歌舞伎で演じられるのはこの源冶店(げんやだな)の場面が多い。歌舞伎そのものが長い物語の中から見せ場になるところを切り取って見せる為、通し狂言よりも演目が昼に三つ夜に二つなどと並ぶ興行だからだ。
例えば今年の三月大歌舞伎では、
第一部
 一、猿若江戸の初櫓(さるわか えどのはつやぐら)・勘九郎
 二、戻駕色相肩(もどりかご いろにあいかた)・松緑
第二部
 一、熊谷陣屋(くまがいじんや)・仁左衛門
 二、雪暮夜入谷畦道(ゆきのゆうべ いりやのあぜみち)・菊五郎
第三部
 一、楼門五三桐(さんもんごさんのきり)・吉右衛門
 二、隅田川(すみだがわ)・玉三郎

となっていて一日で六つの演目が上演される。
仁左衛門の熊谷次郎直実、菊五郎の直侍、吉右衛門の石川五右衛門、能から写した隅田川の斑女の前を玉三郎が演じるという豪華版だが視点を変えればハチャメチャだ。それぞれの役者の見せ場のオンパレードとなっていて欲張りな興行だが、一貫した演劇とは趣を異にする。
つまりは客が筋立てを知っての上で、芸を見せるのが歌舞伎で、だからこそ大向こうから声がかかるのだ。

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ちなみに『與話情浮名横櫛』の元になった話は落語の『お富与三郎』で詳しく語られている。
ここで紹介する金原亭馬生は名人古今亭志ん生の長男だが、弟の志ん朝と違ってメリハリの無い話しぶりで私好みではない。しかし他に語る人もいないのでついでに紹介する。(本当に馬生にはお気の毒だが、落語家としては今一だと思う。)
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ところで『與話情浮名横櫛 』は音羽屋のお家芸で、同じくお家芸の『弁天娘女男白浪(べんてんむすめ めおのしらなみ)』という演目がある。
浜松屋見せ先の場で弁天小僧菊之助が『知らざぁ言って聞かせやしょう。』と有名な決め科白で始めるのもお家芸ならではという訳で、以下のセリフを読んでみて欲しい。
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知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の
種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き
以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵
百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の、枕捜しも度重なり
お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局
ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの
似ぬ声色でこゆすりたかり
名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ!
・・・・
鎌倉にある浜松屋で悪事が露見した弁天小僧が開き直っていうセリフだが、見事に鎌倉ゆかりの名所をちりばめての名セリフとなっている。何より七五調が心地よい。
歌舞伎ではこの後場面が一転して『白波五人男 稲瀬川勢揃いの場』となって、弁天小僧が改めて自己紹介のセリフ回しで客を唸らせる。
この動画では七代目菊五郎が音羽屋らしい華やかさを見せてくれる。
これは平成二十年團菊祭五月大歌舞伎の映像だと思われる。
弁天小僧・・・・尾上菊五郎
日本駄右衛門・・市川團十郎
南郷力丸・・・・市川左團次
忠信利平・・・・坂東三津五郎
赤星十三郎・・・中村時蔵

さて、七五調でトントントンと畳みかける口調があれば、中身なんぞどうでも良くなってくるのはどういう訳だろう。
それは平安朝の和歌以来、日本人のDNAに七五調が染みついてしまったからなのか。
それに何事によらず我々日本人は『説明口調』が嫌いだ。
特に私はそうだ。
心に響かないのである。
ところが七五調でトントントンと畳みかけられれば、心に響いて『おとわや』と掛け声が出てしまいそうになる。
つまり論理的ではないのだ。

有名な平家物語の冒頭部分でも
・・・・
祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。
・・・・
心地良い言葉の響きに納得させられてしまうが、少しも論理的ではない。
こいつはちと厄介な事で、私がいつまでもトッポジージョのままでいるのは、ここら辺に原因があるのかも知れないのだ。

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コメント

  1. 歌舞伎座に足を運ぶようになったのは50代からでした。日本の伝統芸能の歌舞伎に少しくらい接しておく必要があると思ったからです。たったの5,6回通って、やめました。どうしても興味がわきませんでした。

      〽 いきな くろべい みこしのまァつに
        あだな すがたのおとみさん

    歌いましたよ、私も、小学生のころに。小学生とお富さんの組み合わせは、どう考えても不釣り合いですよね。七五調の語呂のよさもあったのかも知れません。

    馬生の落語は2,3回しか聴いたことがありません。演目すら忘れてしまいました。素人目にも「華」がないと感じました。

    歌舞伎にしても落語にしても、「芸」を極めるのは、私たち凡人がうかがい知ることすらできない至難の業なんでしょうね。

    セブ島
    世生 理路


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  2. 理路庵先生コメントありがとうございます。
    先生も『馬生は華が無い』とお思いですか、だいたい噺家は世襲するものじゃないのにこの面汚しと私は腹が立ってしまうのです。
    しかし、馬生は生涯努力を続けたそうです。努力が実を結ばない典型ですね。
    私自身を見るようで余計腹が立つのかも知れません。
    人の悪口は自分に返ってくるんですね。
    先生の仰るように凡人には伺い知れぬ至難の業なら、こんなこと書くんじゃなかったと少し反省しています。

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