映画 Julia (リリアン・ヘルマン原作)

 私が観たのは、記憶が確かならば新宿の靖国通りにあった名画座だった。

アカデミー賞を受賞したので名画座でリバイバル上映されたのだ。

ロードショウ公開では無いので500円で鑑賞できたと思う。

私は友人のKと観に行ったのだが、Kは変わった人物で映画は一人で観るものだというので、映画が終わったら出口で待ち合わせすることにした。

小さな映画館は満席だった。

私は最後尾の座席の背後にある手すりにつかまって立ち見した。

映画が終わって客席がざわついてもタイトルエンドが終わるまでその場を動けなかった。
私の隣には白人の男性が立っていたが、身じろぎもせずタイトルエンドが終わるまで立ち尽くしていた。その人の頬には涙がつたわっていた。私も心が震えるような感動に包まれていた。

出口に行くとKが待っていた。
映画の余韻が醒めないように一緒に「トップス」でコーヒーを飲むことにした。
私は博識のKに”ペインティメント”とはどんな意味か尋ねたが、彼にも分からなかった。
映画のプロローグとエンディングは、年老いたリリアンが湖に小舟を浮かべて釣り糸を垂らすシルエットの映像になっている。
プロローグのリリアンの述懐の中で、字幕に”ペインティメント”と書かれていたのだ。
字幕は”せりふ”をそのまま翻訳するのではなく、短いセンテンスに凝縮した日本語に直して大意が伝わるようにする非常に困難な仕事だ。
翻訳者は”ペインティメント”と外来語のような扱いをしたが、そんな外来語は聞いたことが無かった。
英語の辞書で調べても[paint]はあっても[paintiment]は無かった。

イタリア語の[pentimento]だと知ったのは、それから何十年も経ってからだった。
「画家が描き直したあとに元の形が微かに見えること」
そう言えば、あのセリフは「ペンティメントゥ」と抑揚をつけて語尾を伸ばしていたような気がする。
翻訳したのは誰だったか分からないが、その人もこのセリフには頭を悩ましたのだろうと思うと何故か愉快な気分になる。

主人公の心の中にある上書きしても消せない記憶を引き出す言葉として「ペンティメント」というセリフがある。その重要な「ペンティメント」をどのような日本語にするかで考え抜いた結果、読み手に考えさせようとカタカナ表記にした翻訳者。
まんまとその手に乗って何十年も探し続けた私。
こんな愉快なことがあるだろうか。

Kと観に行った映画をもう一つ。
「愛と哀しみの果て」(Out of Africa)の一場面からモーツアルトのクラリネット協奏曲。
自由奔放でありながら教養ある人物として描かれるロバート・レッドフォード演じるデニスが良い。それは、しりとりゲームのように物語を語り紡いで一晩を明かしてしまうシーンによく表れていた。
「あんな事は日本では考えられないね」とKは言う。
ある共通の教養がベースになっている階層の人達。
それを貴族趣味といって批判する人々は、私にとって縁なき衆生だ。
・・・対極にあるのが「フーテンの寅さん」で、現実には存在しない直情軽薄な庶民を描く振りをした山田洋次は、その実庶民を小馬鹿にしているように思えて好きになれない。←これは私の個人的な趣味の問題です、失礼しました。・・・

拙い文章でうまく伝えられないが、「ジュリア」や「Out of Africa」に共通しているのは人間の生き方を規定してしまう教養の働きだ。人には品位が必要で、品位を支えるものこそ教養だと思う。だからこそ、教養ある人の言葉に触れる時、人生が豊かになっていく歓びを感じるのだ。

そんな私が愛読するのがブログ『CEBU ものがたり』。
アドレスは
ここに人あり。
世生理路(せぶまさみち)氏から目を離せない。

コメント

  1. いい本との出会い、いい音楽との出会い、いい映画との出会い、そして、いい人との出会い。

    人には誰しも、その時々に、たくさんの「いい出会い」とふれあう機会が用意されています。
    ところが、この「いい出会い」というのがなかなか曲者で、自分が望んでも「いい出会い」の方が逃げてしまうことがある。自分が望まない時に「いい出会い」が訪れてくることもある。

    「いい出会い」は出会うべくして出会ってこそ、その真価を汲みとることができるのです。
    「いい出会い」といい時にめぐりあうことができた稀有な人が、ここにいます。トッポジージョの心を失うことなく、そのまま持ちつづけて生を重ねてきたブロガー、トッポジージョさんの息づかいが聞こえてきます。

    セブ島
    世生 理路

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    1. 理路庵先生コメントありがとうございます。
      上田秋成の『雨月物語』の「菊花の約」には「交わりは軽薄の人と結ぶことなかれ」とありますが、自己の軽薄さは自覚しにくく、こうしてブログで自分をさらけ出してしまうといつか理路庵先生に「愚か者」とご叱責を受けるのではないかと怖れを抱いておりますが、一方でその時は容赦ないご叱責を賜わりたいと願ってもおります。

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