World Is Waiting For The Sunrise(Les Paul & Mary Ford)

米軍の立川基地の入口は、駅から続く北口大通りが立川通りと砂川通りに枝分かれする曙町二丁目交差点にあった。基地の入口は別名『フィンカム・ゲート』で、今の立川通りは『フィンカム通り』と呼ばれていた。
立川に縁のない人には訳の分からない話だが、私にとって『フィンカム通り』という名前とともにそこで見聞きした初めての異国情緒が私にとってのアメリカだった。
「フィンカムって何?」と聞いても「立川基地はキャンプ・フィンカムだから」としか答えてもらえなかった。だから未だにフィンカムの意味が分からない。
曙町二丁目の交差点から緑川の東橋までのおよそ100mの間は通りの両側に英語のイルミネーションで飾ったキャバレー等が軒を並べていた。
その一角を曲がった路地の奥に母親の幼馴染の家があって連れて行かれることがあった。
あの時、確かに聴こえていた音楽。弾むようなリズムをエレキギターが刻み女性が唄っている。英語の歌詞は分からないけれど「・・・・サンライズ・・・」という部分だけはハッキリと覚えている。
その曲をYouTubeで見つけたのは数年前のことで、それまで耳の奥で微かに鳴っていた音がハッキリと聞こえた時、「これだ、これだ。」と胸のつかえが降りてスッキリした。
レス・ポールとマリー・フォードで「世界は日の出を待っている。」
希望に溢れるアメリカがそこにはある。

私は幼子だったので、あの頃軍用機がプロペラからジェットエンジンに変わろうとしていた事など知る由もなかったが、冬の朝に乾燥した寒気をついて爆音が聞こえることがあった。飛行機の発着時の騒音は国立までは聞こえてこなかったので、5分も10分も続いた『キーン』という爆音は不気味だった。私は「きっとB29に違いない」と勝手に思っていた。
旧陸軍の飛行場を接収した立川基地は滑走路が短くジェット化に対応するため北側に拡張する計画だったが「砂川闘争」と呼ばれる反対運動で頓挫する。
替わりに立川の付属基地だった多摩川飛行場を拡張整備して立川の機能を順次移転した。これが現在の横田基地だ。冬の朝のあの爆音もいつの間にか聞こえなくなっていた。
横田では何故反対運動が起きなかったのだろう。
お陰様と言ったら不謹慎だが、結果として立川基地は返還された。そうでなければ立川が極東最大の軍事基地になるはずだった。
良い思い出もそうでない思い出も含め、敗戦や占領に繋がる記憶を戦後生まれの私に残してくれた軍都立川は、もう既に遠い記憶の中にしか存在しない。

昭和34年、私は小学生になった。
あの年、我が家にテレビが運び込まれたのは、皇太子のご成婚直前だった。
4月10日は入学したばかりの学校がお休みになり、ご成婚パレードをご近所の人達と一緒に見た。美智子妃殿下は皇太子の求婚を固辞されたという話を大人達がしている。『御国の為にと説得されて嫌々でも嫁がなくてはならなかった。』と見て来たような話を虚実をないまぜにして話している。
私は美智子妃殿下が可哀想でならなかった。
子供の頃の記憶は恐ろしい。
私はその後も何かにつけて美智子様をお気の毒に思ってしまう。

ご成婚に始まって東京オリムピックまで、日本の高度成長期と私の小学6年間は見事に重なっている。次回からはその頃に話を進めたい。

その前に、書いておかなくてはならないことがある。
幼い男の子には、隣のおばさんや近所のおばあさんまで何人かのお友達がいた。顔を合わせるたびに声をかけてくれる。そして他愛のない受け答えをしてくれる有難い存在だった。
当時は近所付き合いが今より濃厚だったせいもあるだろう。
それでも他人が抱きしめてくれたり頭を撫でてくれた嬉しさは忘れることが出来ない。

近所に國本という家があった。姥目樫(ウバメガシ)の生垣に囲まれていて、百日紅や梅、棕櫚の木などの庭木がある瀟洒な日本家屋だった。國本さんのおばあさんは、いつも生垣の周りを綺麗に竹箒で掃いている。私は生垣越しに延びている柘榴の枝についた実が気になって仕方が無い。
國本のおばあさんに「この実を頂戴」とお願いすると「まだ実が熟れていないから、もう少し我慢しようね」と返事が返ってくる。毎日挨拶のように同じ会話を繰り返し柘榴をじっと見つめながらおばあさんに背後から抱かれて頭をな撫でてもらう。子供ながらに幸福感に包まれていた。
ある日、柘榴の実が割れた。
おばあさんに実を取ってもらい、その場で種のような赤い実を口に入れると酸っぱくて食べられない。散々期待して裏切られた私は声を出して泣いた。
するとおばあさんは、庭の木戸を開けて私を縁側まで連れて行き、甘納豆を食べさせてくれた。その為か今でも甘納豆は大好物だ。
何気ない日常が幸福に包まれているのは、こうした愛情の交感があるからだ。
スキンシップの少ない日本人も幼い頃には沢山触られていた。
哺乳類が触覚による快感を感じるのには理由があると私は思っている。
その点では、人間も犬や猫と同じ原初的な欲求を抱えているのだ。
(ちょっと偉そうになってしまいました。)

そこで「世界は日の出を待っている」の歌詞について
Dear one, the world is waiting for the sunrise.
Every little rose bud is covered with dew
And my heart is calling you
The thrush on high,
his sleepy mate is calling
And my heart is calling you.

Dear one  愛する人
rose bud   薔薇の蕾
dew     朝露
thrush    鶫(つぐみ)
sleepy mate   眠そうな仲間

愛する人よ、世界は日の出を待っている
朝露をあびた小さな薔薇の蕾たち
そして私の心も貴方を呼んでいる
上空の鶫、その眠たそうそうな仲間たちが鳴いている
そして私の心も貴方を呼んでいる
(下手な訳詞で申し訳ありません)

つまり、朝露を浴びた薔薇の蕾は開花する準備が出来ているし、
普段は鳴かない鳥(特に冬)のつぐみが、眠たくても夜明けを催促するように鳴いている。
そんな日の出と同じくらい私は待ちわびているということらしい。
you are my sunshineのように貴方は私の太陽ということか。

こうした浮き浮きした感じは自分の一方的な感情では成り立たない。
相手も同じように感じているという確信があるからこそなのだ。
希望に溢れるアメリカと書いた理由もそこにある。
陽気で能天気なアメリカ。
そして非情なアメリカ。
幼い記憶の向こう側にそんなアメリカが存在していた事を今になって思う。

戦後日本がアメリカの影響を受けてどのように変容してきたのかを考える事がよくある。
何気なく見過ごして来た事の向こうに大切な物事がありはしなかったか。
老齢の身になっても未だ見えない真実を前に立ち尽くすばかりだ。

そんな私の心の拠り所は理路庵先生のブログ『CEBU ものがたり』
アドレスは
https://ba3ja1c2.blogspot.com/
とても考えさせられるブログです。

コメント

  1. 小学生の低学年のころ、父ちゃんに連れられて立川へ行ったことがあります。
    川崎駅から南武線に乗って終点の立川まで1時間強だったか。牛馬家畜を運ぶようなおんぼろの電車が今も頭にあります。
    立川というよりも「タチカワ」という趣がある街でした。

    「フィンカム」というのは固有名詞でしょう。アメリカ人は人名をやたら目ったら公共物につけるのが好きですから。立川基地の初代司令官の名前かもしれません。

    「THE WORLD IS WAITING FOR THE SUNRISE」
    若かりしころ、友人の結婚式でこの歌を歌ったことがあります。アメリカ人の男と結婚することになった日本人の女の友だちに呼ばれて、のこのこと出かけていって、結果は大恥をかいてしまったのですが。
    歌詞を忘れてしまって、新郎のアメリカ人に助けてもらいながら、なんとかごまかしながら場を取りつくろった思い出があります。まあ、今思えば、ご愛敬ですよ。

    セブ島
    世生 理路

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  2. 理路庵先生
    コメントありがとうございます。
    『フィンカム』は固有名詞だったのですね。長年の胸のつかえが取れてスッキリしました。
    歌詞を忘れて赤面される先生を想像してしまいました。心温まるエピソードありがとうございました。

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