警察日記

 私は昭和27年の生まれなので、戦後の混乱期や占領下に起きた事を知らない。

それでも本当の貧しさに生きる人、赤貧洗うがごとしという境涯にあった人々がいたことを覚えている。

もの心ついた頃には、世間は落ち着いていたし生活困窮者は私の周りには居なかったが、街の中には悲惨な体験を乗り越えて着の身着のまま帰国した朝鮮半島からの引揚者住宅が残っていたし、風呂屋のポンプ室で暮らす貧しい兄弟もいた。そして夜逃げする人もいた。立川の繁華街にかかる橋には乞食がいたし、我が家にも時々『お貰いさん』が来た。

『お貰いさん』・・・玄関先に小さな女の子をつれた痩せた男性が立っている。私は『誰か来たよ』と奥に走って行く、親は少額のお金を紙に包んで『黙って渡しなさい』と言う。私が黙って紙包みを渡すと男性は頭をぺこりと下げて無言で去って行く。このような境涯にある人にあれこれ詮索しないのは暗黙の了解で、それこそ『惻隠の情』だった。

彼らはいつの間にか居なくなったが、あの頃を思い出させる映像がある。

映画『警察日記』(昭和30年・日活・森繁久彌主演)の一場面。

温泉町で別々に預けられた捨て子の姉弟が再会する場面。子役の二木てるみの泣き声にこの子たちが背負ってしまった厳しい現実が聞こえてくる。

親切な旅館の女将(沢村貞子)が引き取ったこの姉弟の母親は保護責任者遺棄罪に問われてしまうが、捨て子の原因が『赤貧』ゆえであることを知っている関係者は『子別れ』の場面を設定する。


この母親がどのような境涯にあったかは誰も知ろうとしない。その必要が無いほど『本当の貧しさ』がどこにでもある現実だった時代なのだ。

・・ちなみにジープを運転する警察官は宍戸錠。彼はこの作品がデビュー作で、頬を整形して膨らませる前の精悍な素顔を見せている。・・

『私は嘘を申しません』
60年安保で退陣した岸内閣に替わって池田内閣になった。岸内閣の記憶はないが池田総理の記憶はある。池田総理はテレビコマーシャルをしていたのだ。『所得倍増計画』を国民に浸透させるために彼はテレビカメラに向けて言った『私は嘘を申しません』。当時、流行語大賞があればこの言葉が選ばれただろう。私達子供も何かにつけて『私は嘘を申しません』と言っていた。残念ながらその時の映像はYouTubeにUPされていないが、ダブルの背広に蝶ネクタイで鼈甲眼鏡をかけた池田首相は自信満々に見えた。

その自信が世の中を動かしたのだろうか。
景気は『気』だという。
国民が『その気』にならなければ、どんな政策をもってしても景気を良くすることは難しい。
今の日本は『デフレマインド』から脱せないために国民消費が伸びない。GDPの56%を占める民間最終消費支出が伸びないことが経済成長の足かせになっている。

当時は、三種の神器に代表されるイノベーション(技術革新)が生活環境の変革を促し、消費意欲を喚起していた。人口は見事なピラミッド型で、戦後のベビーブーマー(団塊の世代)が生産年齢に達し始め中学を卒業した『金の卵』となって大量に都市に流入して来る。

思い出してみると、我が家では手回しローラーの付いた洗濯機が始めで、次に白黒テレビ、そして電気炊飯器が来て、待ちに待った電気冷蔵庫が最後だったが、ほんの数年で起きた生活の変化は凄かったと思う。
他にも櫓炬燵が炭火から電気に換わり、炭火の火鉢にあかぎれの手をかざしていたのが、石油ストーブで部屋全体を温めるようになったり、生活の質が劇的に変化していった。
家の前の泥道が舗装された時、都市ガスが引かれて風呂釜や台所のコンロをガスにした時、そして照明が電球から蛍光灯になった時、便利さや明るさがとても嬉しかった。
そう、電話が入ったのもあの頃だ。
すべて、東京オリンピックまでの数年間で起きた変化だ。

思えば、菊池君の家はそうした変化の先頭に立っていたのだ。
そして数年で皆がその生活を手に入れた。
これは私より年上の人達には共通した体験だろう。

だが、私より年下の人達には想像も出来ないことに相違ない。
炭火に頼る暖房の寒さ、部屋の四隅が暗い電球の照明、薪割が日課だった風呂焚き、泥跳ねで汚れる未舗装の道路脇の家や生垣、卵が貴重品だった食生活などを体験していなければ革命ともいえる劇的変化を理解出来ようはずもない。

よく父親に聞かされのは『昔の人はもっと働いていた』ということだった。
そして『いまよりずっと貧しかった』ということだった。
小学生の私でさえ数年前より豊かさを実感しているのだから、昔は貧しかっただろうとは想像できたが、いまより働いていたと聞いて不思議な感じがした。
『豊かになる』のは『勤勉』とイコールでは無いという事ではないか。

・・・
東京の小学生は鎌倉へ遠足に行く。
行く前に鎌倉について学んで、実地見分に備える。
記憶に残っているのは『銭拾い伝説』だ。
五代執権北条時頼に仕えていた青砥藤綱が、ある夜幕府に出向く途中東勝寺橋の上で袋に入れておいた十文の銭を滑川に落としてしまった。藤綱は家来に五十文で松明を買ってこさせ沢床を照らして探しだした。
この話を聞いた人が
「十文探すのに五十文を使って損をしている」と笑った。
すると
「銭が川に沈んだままでは、永久に使われることはなく国の損失となってしまうが、五十文で松明を買えば、それを造っている町民や、商っている商家も利益を得られる。それだけ国が豊かになるのだ。」と、笑った人々を諭したという話。

私は『これだ』と思った。
池田隼人は嘘をつかなかった。
日本は確実に豊かになっている。
池田隼人は青砥藤綱なのだろうと思った。

担任の先生は日教組で池田隼人が大嫌い
『池田総理は〝貧乏人は麦を食え”と言った。国民の事を考えていればそんな事は言えない』と批判していた。
だから私は池田隼人の話を誰にもしなかった。
それでも偉い人だと思っていた。
それは、あの『警察日記』に出てくるような貧乏を日本から無くそうと尽力した人だと信じたからだ。

『貧乏人は麦を食え』とは新聞の見出し、昭和25年は猛烈なインフレで政府はGHQ(連合国軍総司令部)の指示により強烈な引き締め政策を実施させられた(ドッジライン)ため、倒産が相次ぎ厳しい経済状況だった。
米は統制価格だったが、蔵相の池田隼人は米価について質問を受けて本来の自由価格に移行するのが望ましいという趣旨で、
『所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に則った方向にしたい』
と答弁したことを切り取ったものだ。
本人は嚙み砕いて言ったつもりが曲解されてしまったものだが、経済弱者に対する配慮が足りないと言えなくは無い。
しかし構えて趣旨を曲解し、本来の議論すべき外側で問題を広げる傾向は当時も今も変わらない。

池田隼人は東京五輪の40日後に病没した。私は子供だったが、惜しい人が亡くなったと心の中で思っていた。そして、その事を誰にも言わなかった。人に否定されるのが怖かったからだと思う。

世の中、本当はこうだったのじゃあるまいかと思いながら言葉を呑むことが屡々あるものだ。匿名のブログでしか語れない事もある。

そんな小市民の私は理路庵先生のブログを訪ねて精神的安定を得ている。

理路庵先生の『CEBU ものがたり』のアドレスは

https://ba3ja1c2.blogspot.com/

是非一度訪問して欲しい。







コメント

  1. う~ん。
    トッポジージョさんの生きてこられた歩みを、子供の頃からさかのぼって今日まで、文章と映像で描いていく作業は、なかなか手間暇がかかって大変だと思います。
    当時のことをよくここまで思い描くことができますね。
    是非とも続けてください。
    気持ちが、読むたびに、動きますよ。

    戦後、驚異的な復興を遂げて今の日本があるわけですが、時代の波が激しい時には、それ相応の政治家が現れますね。好き嫌いは別にして。
    時代がある程度、落ち着いてくると、政治家も「並みの政治家」しか登場しなくなりますね。

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  2. 理路庵先生 コメントありがとうございます。
    こんな事まで書いて良いのかなとハラハラドキドキしながら書いているので、先生のお言葉が何よりの励みです。

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