LASSIE

我が家にテレビが来て、私は見事に『テレビっ子』になったが、それでもテレビよりも好きな遊びは沢山あった。

学校から帰りランドセルを置くとすぐに家を飛び出して友達に会いに行く。仲良しの友達は駅近くに住んでいた。

国立駅の北側は雑木林を切り開いて駅前広場が出来ていたが、周りには雑木林がそのまま残っていた。

中央線は国分寺から切通しの中を進み国立駅の東側で国分寺崖線を抜けるのだが、切通しを抜けた電車は駅の二階にあるホームに入って来る。

駅の南北をトンネル通路でつなぎ、通路中央の横壁に階段の切口があって登るとホームに出る構造だった。駅の北側は未開発だったので、買い物には南口に出る必要があった。駅の東側にはガード下を抜ける細い道があったのだが、車も通るため危険でもあり、住民は改札の駅員に挨拶して通してもらっていた。のどかな時代だった。

当然、私達子供は駅員とお友達だった。(と勝手に思っていた。)

改札を顔パスで通り、トンネルのような通路を走って階段を駆け上るとホーム脇に南口の改札脇に降りる螺旋状の滑り台があった。これは列車が運んでくる荷物を降ろすためのものだが、金属製の滑り台で毎日荷物を降ろすせいかピカピカでよく滑る。

当然、人が入らないように滑り台の前に鎖が渡してあるのだが、私達はその鎖につかまって滑り台に万歳するような姿勢で入り込み下まで滑り降りる。そしてまた改札を抜けてホームまで駆け上がり滑り降りることを繰り返した。小さな駅の構内を数人の子供が走り回って遊んでいるのだから、さぞかし騒がしい事だったと思う。それでも駅員に咎められた記憶が無いので当時は大目に見てくれたのだろう。駅前の雑木林には大きな松の倒木があって乗ったり飛び降りたり子供の遊びは尽きない。

それでもひと遊びすると菊池君の家にみんなで行く。菊池君の家の玄関にはペンギンのはく製があった。菊池君のお父さんは南極観測に参加していたのだ。「ペンギンは人間を知らないので怖がらないんだよ」と菊池君が教えてくれる。菊池君の家は当時としては珍しい洋風な造りで、板張りの洋間(居間)に続くテラスがあり、庭には芝生が敷き詰められていた。

居間には鎖のさがった鳩時計が掛かっていて、皆で3時に鳩が出てくるのを待っていると菊池君のお母さんが「おやつ」を出してくれる。私の家では「おやつ」などという習慣はなかったので「おやつ」欲しさで菊池君の家に遊びに行ったようなものだ。

何より菊池君のお母さんは良い匂いがした。顔などとっくの昔に忘れてしまったが、とても綺麗な人だと思っていた。私の母親は普段は化粧などしないで割烹着を羽織っているのに、菊池君のお母さんは巻きスカートだ。

日本のご婦人が日常的に化粧をするようになったのは東京オリンピックの後だろうと思う。シャンプーなども昭和40年代ではなかったか。国民所得が向上したことや女性の社会進出に比例して日本女性は美しくなってきたのだろう。

当時は4人兄弟が当たり前の子供の多い時代だったから、子供にお金をかける余裕が無かったのか、お菓子を口にすることなどめったに無い日常だったが、菊池君の家は別だった。

私は、ドーナツやホットケーキを菊池君の家で生まれて初めて口にした。そして夏には冷蔵庫からコーラを凍らせた氷を出してくれた。私にとっての初めてのコーラは氷だった。口に含むとパチパチと舌の上で跳ねる薬のようなコーラの氷を不思議な感覚で食べていた。第一、我が家の冷蔵庫は一貫目の氷を上の段に入れ、下の段に食品を入れるただの箱だったが、菊池君の家には電気冷蔵庫があって氷が作れるという驚きがあった。アメリカ人はこんな生活をしているのかなと思っていた。

子供が遊びに行って、親も知らない体験をしている事など両親は露も思わなかっただろう。夕食後の一家団欒、うやうやしくテレビに掛かった幕(舞台の緞帳のような幕がかけてあった)を父親がまくって重々しくスイッチをいれる。当時は父親が絶対的権限でテレビジョンを管理していた。(これは始めの内だけで、チャンネル権はすぐに子供のものになってしまう)

当時はアメリカのテレビ映画が大量に入って来ていたが、その中でも同級生全員が見ていたのが大きなコリー犬が主人公のドラマ『名犬ラッシー』だ。


この動画には映っていないが、柵を飛び越えたラッシーは家の窓を乗り越えて窓際で寝ている少年のベッドで少年の顔を舐め、起こされた少年はラッシーを抱きしめるというシーンが続いていた。
日本では犬を家の中で飼う習慣は無かった。まして放し飼いそのものが無かった。犬は外で鎖に繋がれていた。せいぜい玄関の土間に入れてもらうのが精一杯という扱いだった。
この頃、野犬狩りをする保健所の職員を私たちは『犬殺し』と言って怖れていた。棒の先の輪になったワイヤーで犬の首を絞めて捕まえる時に犬が悲鳴をあげる。それは怖く恐ろしい情景だった。
そんな時代に犬と家族が同じ屋根の下で暮らす物語、犬が家族として扱われている物語は子供の憧れだった。

当時は日米安保闘争の最中だったと思うが、小さかった私には記憶が無い。
私の記憶に残っているニュース映像は「浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件」からだ。
(この映像は年齢制限がかかっています、YouTubeで見るをクリックして下さい)
この映像はニュースとして何度も流された。
大変不謹慎な話だが、小学生の間で流行ったのは教壇にいる友達を横から走って来て刺す真似をすることだった。刺された側は『うぁ~』と声をあげて倒れるのだ。友達と交代で何度もやっていた。何が起こったのか理解していなかったこともあるだろうが、テレビというメディアの情報はあの『犬殺し』に感じた悲惨さの万分の一も伝えられなかったからだと思う。

私の世界は、國本のおばあちゃんや隣のおばさんといった身近な暖かい人々のいるご近所から一気に半径2Kmにまで広がった。そればかりではなくテレビを通じて見知らぬ世界とも繋がっていた。そして毎日経験する事柄は好悪で直観的に判断する他に無かった。

誰かが『そんな事をしてはいけません』と言ってくれなければ、実際に起きた殺人事件の真似事だって遊びにしてしまう。
しかし、どんなに幼くても『犬殺し』のように目の前で悲惨なことが起きれば、理屈抜きに身体的反応としてそうした事を忌避しようとするし、その怖ろしさを身に染みて知るものだ。

テレビを通じて受け取る疑似体験は、本当の体験とは違う。そうした情報の持つ危うさに気付いたのは大人になってからだ。今でも僅かの情報を得て『解った気になる』ことへの不安が常に付きまとう。

それは若い頃に交流のあったKという友人から『君は解った気になっているだけだ』と云われた言葉が棘のように疼くからだ。

そんな時、私は理路庵先生のブログを訪ねることにしている。

先生のブログ『CEBU ものがたり』は

https://ba3ja1c2.blogspot.com/

先生のように深く物事を知りたいと思う。


コメント

  1. トッポジージョさん、ごきげんよう。

    ほぼ二週間ぶりくらいに、トッポジージョさんのブログを読むことができました。

    「名犬ラッシー」
    なつかしいですね。毎週観ていました。古き良き時代の典型的なアメリカの家庭風景が、まるで別世界のように子供だった私の目には写りました。
    当時の日本のテレビ界は、アメリカのテレビ番組全盛の時代でしたね。
    「拳銃無宿」(スティーブ・マックイーン)、「ララミー」(ロバート・フラー)などなど。
    前にも書いたかもしれませんが、トッポジージョさんのブログに接するたびに、子供の頃に引きもどされて、しばし時を忘れることがよくあります。

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  2. 理路庵先生コメントありがとうございます。
    ララミー牧場、見てました。淀川長治さんが解説してましたね。
    拳銃無宿、ライフルマン、ローンレンジャーそしてスーパーマンも夢中になって見てました。
    懐かしいですね。

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