STARDUST

 私の記憶は昭和30年代を彷徨っていて、なかなか前に進まない。

書きながら、そう言えばあんな事もあったこんな事もあったと様々な事を思い出してしまう。

一家団欒という言葉が活きていた時代に幼少期を送ったせいだろうか。

家族の暖かい眼差しに守られながら少しづつ世界を広げる事が出来た幸せな小学生だったからだろうし、少し口幅ったい言い方になるが、何より私が『幸福を自覚する子供』だったからだと思っている。

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『半分は江戸のものなり不尽(ふじ)の雪』(富士を不尽と書くとは知りませんでした。)

国立には駅から放射状に、東南は『旭通り』、真南は『大学通り』、南西は『富士見通り』と道路が伸びている。

朝起きるとお鍋を持って『豆腐屋』まで豆腐を買いに行かされていた。豆腐屋は富士見通りにあって、冬になると大きな富士山が通りの正面に優美な姿を見せている。

真っ白な富士山は大好きだったが、早朝北風に吹かれながらのお手伝いは子供には試練だった。不平を言おうものなら『男の子のくせに小さな事でぐずぐずしない。』『どうせやるなら喜んでやりなさい。不平不満の一言で陰徳は消えていってしまいます。』と無理筋のお説教が待っていた。

だから、富士を眺めながら気を紛らわせたものだ。『半分は江戸のものなり不尽の雪』と江戸時代の人達も同じようにあの富士を見ながら仕事に励んでいたのかと想像したりしていた。

ところが、駅前に『西友』が出店してスーパーマーケットが登場したことで、私の生活にも大きな変化が起きた。

当時は、豆腐は豆腐屋に行かなければ買えなかった。夕方になると豆腐屋は自転車に乗って『豆腐、とうふ~』とラッパを吹きながら売りに来たが、朝は豆腐を仕込むのでお客が買いに行くしかなかった。

ところがスーパーマーケットが出来ると四六時中いつでも豆腐が買えるようになってしまった。冷蔵庫も普及していて、パックに入った豆腐をあらかじめ買っておけば、朝買う手間が省ける。

出来立ての『西友』は超満員。買い物かごは不要になり、白いビニール袋に買った物を詰め込んで主婦が帰って来る。面白いのは近所の八百屋や魚屋の前を避けるように通っていたことだった。顔見知りの商店に対する遠慮がそうさせたのだ。

豆腐屋はいつの間にか廃業してしまった。私も早朝のお手伝いから解放された。

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我が家の風呂は薪で焚いていた。小さな倉庫があって、薪や炭俵や練炭や豆炭そして一斗樽に石の重しを乗せた白菜の漬け物が入っていた。私は、夕方になると倉庫から薪を出してナタで細かく割る。風呂釜に新聞紙を入れマッチで火を着け燃えた中に細かく割った薪をくべて種火にして徐々に太い薪をくべていく。風呂が沸いたらそれで良いというものでは無くて、風呂が冷めてきたら追い炊きもしなければならない。

ところが我が家にガスが引かれると全てがマッチ一本だけで済み、私のお手伝いも御用済みとなってしまった。それどころか台所に『瞬間ガス湯沸かし器』が設置されて、いつでもお湯が出てくるようになった。

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暖房は炬燵と火鉢。

朝、玄関に続く廊下の床下から消壺を取り出す。消壺には昨日使った使いかけの炭(消し炭)が入っている。夜寝る前に使っていた炭を消壺に入れると酸素が無くなって火が消えるので、火の用心と炭の無駄使いをしない為の知恵だった。

火鉢に新聞紙と割り箸のような細い木を入れマッチで火を着ける。そこへ消し炭を乗せて火が着いたら新しい炭を加える。こうして火鉢に炭を熾(おこ)したら、一部を格子状の櫓(やぐら)の中に移し、炬燵(こたつ)の中に入れる。我が家は掘炬燵(ほりごたつ)では無かったので窮屈だった。

さらに玄関先に出て、七輪に新聞紙と種火用の細い薪に火を着けて練炭を燃やす。練炭は石炭を円筒形に整形したものだから火力が強く煮炊きに使っていたし、我が家では練炭火鉢に七輪ごと入れて座敷に置いて暖房にも使っていた。

当時の冬は寒かった。密閉性が悪かったせいもあるが暖房が貧弱だったからだ。炬燵の中に首まで入ってよく𠮟られた。火鉢が温めてくれるのは指先ぐらいのもので、部屋の空気が冷たくなっていた。

そんな時に石油ストーブが来た。

生まれてからこのかた経験したことの無い暖かさだった。人一倍寒がりの私は狂喜乱舞。綿入れの『ちゃんちゃんこ』ともおさらば。そして炭や練炭の煩わしい手間からも解放された。

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『裸電球』

照明が裸電球だった頃は、部屋の隅が薄暗かった。夜の闇が家の中まで入り込んでいたのだ。

夕食を食べる段になって『お新香を取って来て』と言いつかる。本当は嫌なのだが、仕方なく物置(倉庫)まで取りに行く。物置には電気が無く、中は真っ暗だ。玄関の明かりが射し込んで、かろうじて白菜の漬物樽の場所を教えてくれる。樽の上には大きな漬物石が置いてある。私は重い漬物石を抱えて樽の横に置き、落し蓋を外して白菜を一束取ってお皿に載せる。玄関の明かりは私の影になって目の前は真っ暗だ。漬物石を戻すまでの僅かな時間、周りの闇からそっと手が伸びて首筋を触るような恐怖に慄きながら私は必死で作業する。

小学校低学年の頃、夜トイレに行き、排便を済ませて戸を開けようとすると開かない。戸には小さな横木のかんぬきが付いていて枠のほぞ穴に差し込まれている。私は必死で横木を動かしてほぞ穴から抜くのだが戸は頑として開かない。トイレは汲み取り式で、小さな30ワットの電球の照明で薄暗い。振り返ると便器に開いた穴の下には真っ暗な闇が広がっている。私が恐怖のあまり大声で泣いたのは言うまでもない。家族が全員トイレの前に集まり大騒ぎになった。何のことは無い、横木は二つあって、上の横木は内からも外からも動かせるが下の横木は内側でしか動かせなかっただけのの話だった。下の横木が締まっているのに上の横木を開けても戸は開かない。『下の横木を開けなさい』と何度言われてもパニックになった私は大声で泣いていた。偶然、下の横木を動かして戸が開いた時の安堵感は忘れられない。

座敷の中央にあった電球の明かりは部屋の隅をうすぼんやりと照らしているだけで、特に天上の隅の方に何かが居てこっちを見ているような気がすることがあった。それは、天井板の木目のせいでもあっただろうが、夜の闇を日常的に感じている子供を敏感にさせていた。

そんなある日、街の電気屋さんが蛍光灯を取付に来た。蛍光灯は昼間でも座敷を明るくした。夜になっても部屋の隅々まで明るく照らしてくれる。私の目の前から魔物が一つ消えた。

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子供の私には、世の中の怖いものが見えているという感覚があった。それは説明のつかないものだったが、大人達に見えなくても子供の私だから感じるのだと思い込んでいた。

そんな子供が一家団欒の中で安心して見ていたテレビ番組。日曜日の夕方、TBSの『てなもんや三度笠』から日本テレビの『シャボン玉ホリディ』と梯子する黄金の時間帯があった。

『シャボン玉ホリディ』は、クレイジーキャッツとザピーナッツが繰り広げるバラエティショー。

ザ・ピーナッツが『スターダスト』を唄っている真ん中にハナ肇が立って話し出す。
『今日のシャボン玉ホリディはいかがでしたか』と番組の話題を取り上げる途中で『狸』と言いかけるとザ・ピーナッツが肘打ちをくらわすというお約束のエンディング。
特にエンドロールが始まって聴こえるロスインディオス・タバハラスの演奏は心地良く、『お愉しみは来週までお預けだよ』と言っているように聞こえた。

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晩秋の夕刻、日が落ちて夕餉の支度で家々の台所に灯が燈る頃。
玄関に一人の少年が立った。
私には見覚えのある少年だった。
友達と町境の道路向うにある国分寺側の神社の境内で遊んでいた時、『よそ者だぞ』と地元の少年達に追いかけられて逃げ帰ったことがある。あのいじめっ子だ。
我が家の便所から汲み取りをさせてもらいに来たのだった。
彼は堆肥にするために肥桶をリヤカーに載せて、わざわざ遠い我が家の方まで来た。
さすがに顔の知れている近所は嫌だったのだろう。日の暮れるのを待って遠出をして来たのだ。
父親は、『ありがとうございます』と言って小銭を渡して来いと言う。
私は嫌がった。あんな奴に『ありがとうございます』なんて言えないし、町の業者が定期的にバキュームカーで汲み取りに来るのでそもそも我が家には必要ないことだ。

父親は自分でお金を少年に渡して来てから、厳しく私を叱責した。
『お前にあの子の真似が出来るか。』
『人の嫌がる事を黙って出来る人が立派な人なのだ。』
私は自分が恥ずかしいと思った。
自分なりに家のお手伝いも嫌がらずにやって来たつもりだったが、彼の真似は到底出来そうもない。

父の言う『昔はもっと大変だった。』『もっともっと働いていた。』『昔は貧しかった』という言葉は私の育つ環境の中では真実味を持っていた。
不平不満は贅沢の証だと言われて育ったような気がする。

厳しい親だったが、一家団欒の時には子供心にも『守られている』感覚があった。
幸せなひと時。懐かしい『シャボン玉ホリディ』

気の弱い、泣き虫の子供時代を白状してしまった。
『三つ子の魂百までも』という訳で、今も大して変わらぬ臆病者のままだ。
そんな私が訪ねて行くのが、理路庵先生のブログ。
『CEBU ものがたり』のアドレスはこちら
人生を豊かにしてくれます。












コメント

  1. 子供の頃、学校や家で用便を済ますときには、トイレと言うよりは便所、あるいは厠と呼んだほうがふさわしいのですが、扉の開け閉めの際には、10㎝強くらいの横木をほぞ穴に差し込む造りが一般的でした。
    外側の扉の横木をほぞ穴から抜くと扉が開く。中に入るとまた横木がある。それをほぞ穴に差し込むと、外からは開かないような仕組み。今思えば、なかなか風流な造作だったと思う。
    外の横木を開けたら中の横木で閉める。二段階の作業を行うことによって、さあ、これから用を足すぞ、という「心構え」ができる。

    年々、歳を経るにつれて、ある時、なんの脈絡もなく、子供時代の体験がパツと頭に入り込んでくることはありますが、ここまで順を追って整理された内容は、少なくとも私には書くことはできません。
    次回を楽しみにしています。

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  2. 理路庵先生コメントありがとうございます。
    どうでも良いような細かい事を覚えているくせに肝心な事は忘れてしまっていることがよくあります。
    それでも先生に褒めていただいてとても励みになります。
    ブログを書いてみてコメントを頂くことがこんなに嬉しいのだと実感しています。

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