青葉の笛

 『青葉の笛』は戦前の小学唱歌で戦後は教えなくなっていたので、私が初めてこの曲を聴いたのはテレビドラマの一場面だった。

 1964年の春頃にフジテレビで『無法松の一生』(主演:南原宏治)を放送していた。車引きの松五郎は、陸軍の吉岡中佐に懇意にしていただいて吉岡家に出入りするようになるが、中佐が急死して、残された夫人と遺児小太郎のために陰ながら手助けをするようになる。無法者の松五郎の献身と秘められた慕情がテーマの物語だ。劇中、小太郎が学芸会で唄ったのが『青葉の笛』だった。

 こんな美しい歌があったのかと驚いて父に尋ねると『昔は誰でも唄える歌だった』と教えてくれた。小学生だった私は、義経の『八艘飛び』や那須与一の『扇の的打ち』などの伝説を美しい大和絵の絵本で断片的に知っていたが、平敦盛と熊谷直実の話は知らなかった。『滅びゆく者』への哀惜、『もののあわれ』に初めて触れたのはこの時だったと思う。

 気難しい父が珍しく語ってくれた『青葉の笛』。父はこの歌に影響されて横笛を習ったという。日本の横笛はとても高い音を出す。居ずまいを正して笛を吹く父は、笛を吹きながら清清とした気分になっていただろう。常日頃は厳しい父が気が向くと見せる別の姿が好きだった。

  何度もリメークされた『無法松の一生』だが、それも昭和の頃までで平成になってからは作られていないだろう。そして、これから先も作られることが無いような気がしている。あの日本的情緒は既に失われてしまったような気がするからだ。

 YouTubeに三船敏郎の映画『無法松の一生』の予告編があった。よく出来た予告編で本編のテーマを余すところなく伝えているので堪能してほしい。

 同じ頃にテレビ放映された『柔』というテレビ番組。苦悩する姿三四郎が寺の池の中で杭にしがみついていると和尚が大声で一喝する言葉が気になっていた。美空ひばりが ♪勝つと思うな、思えば負けよ~♪ と『柔』を唄う中での和尚の一喝『鉄壁の不動心』。

 『鉄壁の不動心』とは何ですか。

 さすがの父も端的には答えられなかったのだろう。乃木将軍の母親の話をしてくれた。体が弱く泣き虫だった希典を心配した母親は厳しく育てたのだが、幼い希典には辛いことばかりであった。ある寒い夜、厠に行こうとすると庭で水をかける音がする、怖くなった希典は父親に報告すると『母上は、お前が強い子になるようにと毎晩井戸水を浴びて水垢離をしているのだ。』と教えられる。それ以来、母の深い思いを知った希典は泣かなくなったという。

 折に触れては『断じて行えば鬼神もこれを避く』とか『心頭滅却すれば火もまた涼し』などという精神論がお決まりの話だが、そんな話をするのは父の機嫌が良い時だった。

 戦前の教育を受けた父の話の出どころは今となれば『教育勅語』や『二十四孝』『論語』『碧眼録講話』あるいは『韓信の股くぐり』のような故事の切り売りとわかるが、そうした話をしてくれる父が好きだった。まじめにお聞きするのが子の務めと思って聞いていたが、一方でこれは親子の間だけに留めようと決めて誰にも言わなかった。子供心にも父の話は時代遅れで世間では通用しないのではないかと思っていたからだ。親不孝な息子だった。

 しかし、父が子に求めるものが確かにあって、それは私には痛いほど分かっていた。無垢なるものとして生まれた者が無垢なるが故に他責的であることを克服して自責的な人間になれという教えだった。

 人は泣いて生まれる。母の胎内で護られた子が産れ出たとき感じる不愉快極まりない現実は、生んでくれた母親のせいだから泣くのだ。そんな子供が立派な大人になるには、自分の今あるは自分の責任であると自覚する必要がある。『獅子は我が子を千尋の谷に落とす』は自立を教えるためだが、その前提は自責的であることに他ならない。

 論語の『曾子曰く、吾日に吾が身を三省す、人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか』も自責を促す教えで、里見八犬伝ではないが『仁義礼智忠信孝悌』の八徳は自立するために積むべき徳目なのだ。『人の嫌がることを率先してやりなさい。それが陰徳を積むということだ。』

 これには逆らいようが無い『全てはお前のためなのだ』と言っているからだ。海より深い親の恩。それでもこれは親にとって都合の良い話だということは、子供の私にも分かっていたのだが、いつの間にか『自責的な人間』になっていたので、父親の目的は達成されたのだろう。

 戦前の教育は、GHQによって徹底的に否定されたが、根幹にある『自責的』な人間を育てるという精神まで捨てさせたのは行き過ぎだろうと思っている。私は『自己実現』という言葉を民主的な教育現場で教えられて育った。そこには今を引き受ける『自責的』な生き方を否定する響きがあって、誰にも言えなかったが『納得できない』自分がいた。

 『青葉の笛』は、今を引き受ける『自責的』な人間を美しいと評価している。だからこそ戦後の教育現場では教えることが出来なくなったのだろう。それでも、この歌を聴いて癒される日本人は多いと思う。九百年の昔より脈々と伝わる感性は簡単には消えるまい。だがそれもいつまで続くのだろうか。

 こんな事をぼんやり考えている私は、理路庵先生のブログで癒されている。もし偶然にも私のブログを見つけた人は、是非訪ねて見て欲しい。

 理路庵先生のブログは『CEBU ものがたり』

 アドレスは

   https://ba3ja1c2.blogspot.com/

 

 






コメント

  1. 「青葉の笛」も「無法松の一生」もともに底流にあるのは日本人の美しい情緒です。「青葉の笛」はもう歌われることはないかもしれません。「無法松の一生」ももうリメークされることはないかもしれません。

    日本人の情緒は消滅してしまったのでしょうか。あるいは、厳として、今も生き続けているのでしょうか。
    「青葉の笛」にある「滅びゆく者たち」への哀惜の情は、はたして、日本人だけに響く情感でしょうか。

    もう40年くらいも前の話です。「無法松の一生」がドイツで上映されました。実に多くのドイツ人が感動して涙を流した。ある日本人のドイツ文学者がエッセイに記しています。
    時代が変わろうとも、人の真の情は必ず普遍性があると、私は過去も今もこれからも思っています。



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  2. 理路庵先生コメントありがとうございます。
    勢いに任せて書いたものの、失われつつあるものへの感傷かも知れないとため息をついておりました。
    私は日本しか知りません。だから日本的な感傷かも知れないと思いました。
    世界を知る先生が、そうとも言えないと留保して下さったので救われた思いがしました。

    東京は桜が満開になりました。
    次回からはもう少し明るい話題にしようと思っています。

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