アリベデルチ・ローマ

 小学校の図書室は小さかったが宝の山だった。低学年向けの絵本は綺麗な大和絵で『源義経と武蔵坊弁慶』や『渡辺綱の大江山鬼退治』などの昔話、少し学年が上がると『ファーブル昆虫記』そしてジュール・ベルヌの『地底旅行』『海底二万里』『十五少年漂流記』、コナンドイルの『失われた世界』などの冒険小説と『緋色の研究』などのホームズ物。フランス革命の頃が舞台のオークシーの『紅はこべ』、ディケンズの『二都物語』や『大いなる遺産』『オリバー・ツイスト』、ケストナーの『エミールと探偵たち』、ルナールの『にんじん』などの海外名作。偉人伝もあった三重苦の『ヘレン・ケラー』発明王『エジソン』『野口英世』そして『シュバイツアー』、シュバイツアーはまだ存命だったから早く大人になってアフリカまで会いに行きたいと思ったものだ。立川文庫もあった。黒い背表紙で『猿飛佐助』『大久保彦左衛門』『由井正雪』 などの読み物。漢字にルビが振られていて子供にもさらさらと読めるし、ところどころに挿絵があって飽きさせない。あの頃、児童図書といえども多読をしたことは素晴らしい経験だったと思う。

 文字を覚えた子供は文字を通じて楽しい物語を読むことに快感を覚える。漢字にルビが振ってあれば、数多く読むうちに習っていない漢字の読みが出来てしまうようになる。今の小学校には大和絵の絵本や立川文庫など置いてはいないだろう。もっと教育的効果を考えた『児童図書』が置かれているに違いない。しかし、無条件に楽しい読み物はあって、それが読書の入口にあったことを幸運だったと思っている。

 そして『児童図書』を卒業する時がきた。公民館に併設されていた図書室へ通い始めたからだ。

 国立の公民館は一橋大学の北門(といっても通用口ともいうべき小さな入口)の近くにあった。外壁が白い板張りの木造で西洋風の建物。入口を入ると廊下で、向かって左が図書室、右手が事務室、その先に二階のホールに通じる階段があった。コールタールが塗られた木の床は独特の臭いがして、歩くとギシギシと鳴った。後年、向田邦子のドラマ『阿修羅のごとく』が放送された時、三女のいしだあゆみが働いていた場所がこの図書室でとても懐かしい思いをしたことがある。

 公民館のホール(といっても教室ぐらいの広さ)では、週に一回『レコード鑑賞会』が行われていた。小学校の音楽の授業でも時々『レコード鑑賞』があって、ベートーヴェンの『運命』やロッシーニの『ウイリアムテル序曲』などを聴かせてくれたが、あの頃クラシック音楽を聴く機会は限られていて、公民館の『レコード鑑賞会』は貴重な時間だった。

 あの(1963〜64年)頃の小学生にとって、書籍もレコードも簡単に買えるものではなかった。読みたい聴きたいという欲求は常にあったが、与えられる場は限られていた。だからこそ、学校から帰ると一目散に公民館へ通ったものだった。

 一橋大学は遊び場だった。大学通りを挟んで東西両側に大学の敷地は別れている。西側の正門を入ると右手には兼松講堂、正面に時計棟、左手に本館があり、それら荘厳な石造りの建築物に囲まれた広場には噴水池があった。『ロマネスク様式と言うんだ』と菊池君が教えてくれた。建物の外壁や柱に施された装飾用の彫刻は、空想上の動物らしいがとても異様で恐ろしい表情をしていて怖いくらいだった。

 噴水池でオタマジャクシを捕ったり、プラモデルの戦艦大和や空母信濃を浮かべて遊んだ。と言っても大きな模型を持って来るのは菊池君で、私は小さなゼロ戦や隼を持って行くのがやっとだった。噴水池に飽きると武道場に行く、柔道や剣道そして弓道場を巡って見物する。それから陸上競技場に行き、誰もいないトラックで駆けっこをして遊んだ。

 菊池君は早熟な子で、公民館の図書室を見つけたのも菊池君だった。『大きな声を出しちゃ駄目だよ。』と菊池君は言って大人びた感じで一歩先に公民館に入って行く。カードを作ってもらった時、私は生まれて初めて一人で手続きが出来た歓びで飛び上がりたいくらい嬉しかった。公民館は大人の世界の入口だった。

 見覚えのある『王子と乞食』を手に取ってみると小学校の図書室にあった『王子と乞食』とは違って分厚く重たい本だった。挿絵はあるが精密なペン画で、文章も長い。児童向けに翻案された『児童図書』ではなくて『翻訳本』だった。

 一冊を読み通すのが大変だった。それでも『王子と乞食』はまだよかった。次に手に取った『ハックルベリーフィンの冒険』には手を焼いた。なにせ話が長い。描写が一々くどいのだ。どんな髪で目の色はどうだ服は何で人相はこうでどんな言葉使いでと子供には耐えられない文章。均質な日本社会と違って異質な人々が暮らすアメリカではこうした描写をしないと伝わらないのか。作品としては大事な伏線になっていることでも読み通すのが大変だった。マーク・トゥエインが嫌いになった。しかし、もう後戻りは出来ない。私は悲愴な覚悟で困難に立ち向かわなくてはならなかった。

 これなら大丈夫だと思って分厚い『ガリバー旅行記』を手にしたが、すぐに後悔した。何しろ長い。4編もあり、絵本で知っていた小人の国『リリパット』の話は第1編にあったが、表現は風刺と諧謔にに満ちていて小学5年生には読み辛い。第2編以降は知らない物語で『巨人の国』や空飛ぶ島『ラピュータ』そして日本とは思えないような日本が出てきて『馬が支配する国』には醜い人間らしい『ヤフー』がいるという長い長い物語だった。何を風刺しているのか知らずに読むのは辛い。『ヤフー』に代表されるカリカチュアも私には理解不能だった。読んだというより目を通したというべきだろう。しかし、読み切ることだけは出来た。

 菊池君に話すと『それでいいんだよ、読みきればいいんだ。読まなければ先に進めないからさ』と言ってくれた。菊池君は凄い。私は菊池君を頼りにしていたが、その菊池君が引っ越すことになってしまった。それも急な話だった。

 菊池君と二人で持てるだけのプラモデルを持って一橋大学の噴水池に行った。そして『2B弾』や『ダイナマイト』と呼んでいた導火線が3センチ程ついた強力な爆竹で戦艦大和や空母信濃を轟沈した。私もゼロ戦や隼に『2B弾』を付けて『特攻出撃』させた。

 あれは、二人のお別れの儀式だった。私は悲しくてしかたがなかったが『笑って別れよう』と握手をしてくれた菊池君は立派だった。翌日、引越ししている菊池君の家にお別れのご挨拶に行くと菊池君は出て来ない。そのかわりに菊池君のお母さんが『しょうちゃんと仲良くしてくれてありがとう。これ荷物に入れ忘れたから記念に持って行ってね』と一枚のレコードをくれた。

 『アリデベルチ・ローマ』

姉がパン屋さんから小さなポータブル蓄音機を借りてきてくれた。

 1ドル360円の時代。外貨準備が少しずつ出来て、一般人の外貨持ち出しが許可されたのは1964年(昭和39年)。翌年JALパック(団体旅行)が出来たがヨーロッパ旅行の値段が67万円、物価換算すると現在の670万円に相当するという。海外旅行は夢のまた夢でテレビ番組『兼高薫(かねたか かおる)の世界の旅』で海外旅行の夢を紡いでいた頃、異国情緒たっぷりの『アリベデルチローマ』は心に響いた。アリデベルチは英語でgood-bye、『さよなら』。単なる偶然かも知れない、それにしてもあの時菊池君はなんで出てこなかったのだろう。

 菊池君は私の一歩先を歩いていた。国立駅の荷物用の滑り台で遊んだ時から、彼の後ろ姿を必死で追いかけてきたのだ。先頭に立ってくれる友人を失って、全身で風を受けているような感覚に襲われた。しかし風に向かって立つ感覚は、背伸びをして本を読む行為とともに私を自立した大人にしてくれるだろうと信じていた。

 ここまでブログを書きながら、あの頃と少しも変わらない自分がここにいると思わされた。ということは、ただただ馬齢を重ねて来たのかも知れない。だが、素晴らしい友達と一緒にいた数年は人生の輝ける一ページであったことは間違いなく、その後も不思議と新しい菊池君が現れたことを思うと私は『菊池君』を潜在的に求めていて望み通りになってきたとも言える。

 この一年コロナ禍で会えないA氏とよもやま話をしながら昼飲みが出来るのはいつになるだろうと心待ちにしている私は、今も昔も変わらず『菊池君』を求めているのだろう。

 そんな私が楽しみにしているブログがある。

 理路庵先生の

 『CEBU ものがたり』

  https://ba3ja1c2.blogspot.com/

 既に100回を超えるUPで、シリーズが幾つもあるので堪能できること間違いなし。今は『人の暮らし』シリーズが始まったばかり、前回の『村の生活』も素晴らしい読み物なので是非とも検索して欲しい。


 

 








 

 

 

コメント

  1. 菊池くんとの「別れの儀式」と「別れのご挨拶」の場面は、胸に沁みる描写です。

    人との出遭いと別れは誰れしもが経験することです。できれば、若いうちに、それもいい人との出遭いと別れであってほしいものです。本についても同様です。
    いい人やいい本からたくさんのことを知得し、自分もああなりたい、こうなりたいと願いながら大人になって歳を重ねていくうちに、あるとき、ふと気づくことがあります。
    自分は自分のままであっていいのだ、今のこの姿こそが子供のころから思い描いていた自分なのだと。
    私はそう思うように、近頃はなってきました。
    異論、反論、Objection、人によっていろいろなご意見があることでしょう。

    返信削除
  2. 理路庵先生コメントありがとうございます。
    噴水池でプラモデルを爆破(少し大袈裟です)した時、菊池君は山本五十六連合艦隊司令長官、私は撃墜王坂井三郎でした。あの頃の子供は太平洋戦争に詳しかったですね。
    噴水池に沈んだ子供の思い出、今だったら大目玉を食らうでしょう。のんびりした時代だったのだと思います。
    子供らしい振る舞いを嫌う父親だったので、菊池君と一緒にいる時に私は本当の自分になれたのだと思います。
    先生の言われるように自分はこのままで良いと思えるようになりたい。そうした境地に辿り着きたいと思いました。

    返信削除

コメントを投稿