The End Of The World ( Skeeter Davis)

すべてが東京オリンピックに向かって疾走するかのように変化していたように思う。

1963年(昭和38年)11月23日、5年生になっていた私はテレビを見るために朝5時に起きて番組の始まりを待っていた。
東京オリンピックを翌年に控えて、アメリカとの間で衛星中継の実験が行われ、ケネディ大統領が祝福のメッセージを送ってくれる運びとなっていたからだ。
ところが、予定時刻になって送られてきたのは砂漠の映像。
しばらく砂漠の映像が流れた後に飛び込んで来たのは、以下のアナウンスだった。
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この電波にのせて誠に悲しむべきニュースをお送りしなければなりません。
既にニュースでご存じとは思いますが、
アメリカ合衆国ケネディ大統領は、
11月22日、日本時間23日午前4時、
テキサス州ダラス市において銃弾に打たれ死亡しました。
今日の電波にこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのは、誠に残念に思います。
・・・・・・

実際の映像はネット上にあるが著作権の関係でここには載せられない。興味のある方は『NHKアーカイブス・初の日米宇宙中継 大統領暗殺の悲報』を検索して欲しい。

この年、坂本九の『上を向いて歩こう』がアメリカのヒットチャートで三週連続第一位を記録した。たまたま日本からレコードを持ち帰った人が地方のラジオでかけたのが発端となって全米にリクエストが広がったエピソードが教えてくれるのは、日米間には空間的にも時間的にも大きな壁があるということだった。

衛星中継(当時は宇宙中継と言った)の実験は、その壁を突き破る快挙だったのだが、偶然にも大統領暗殺というビッグニュースを伝え、この技術が新しい時代の到来を世界中に知らせることにもなった。

そしてJFKが暗殺された時に世界的に大ヒットしていたのが、『The End Of The World・この世の果てまで』という曲だった。

偶然とはいえ、現実に起きた事と『The End of The World』という言葉の共鳴が子供の頭の中まで響いていた。

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私のお弁当には玉子焼きとタコ型に切ったウインナーソーセージが入るようになっていた。

物が豊かになることの有難みは食べ物に極端に現れる。

少し前までは、第一パンとか敷島パンという工場で作られた食パンをお菓子屋で売っていた。お店で『6枚切りを一斤』などと注文してその場で切ってもらう。ジャムやマーガリンは量り売りで、経木(きょうぎ)という極薄い板を量りに載せて、一斗缶に入ったジャムを経木に載せて量る。それを三角に折りたたんで包装紙に包んでくれるのだ。食パンは、火鉢に五徳を置き網を乗せて餅のように焼いたが、少し目を離すと黒焦げになってしまった。

我が家に電気トースターがやっと入った頃、近所に『手作りパン屋』が出来た。パンを焼く甘い匂いや出来立てのクロワッサンの美味しさ、様々な調理パン、中学生の姉はお手伝いのアルバイトをして毎日パンをもらって来た。生まれて初めてのアルバイトはパンを食べたいという下心が動機だった。

そんな姉が『マッシュポテト』の作り方を聞いてきて、美味しい美味しいと二人で一鍋を全部食べてしまったことがある。『マッシュポテト』の出どころは弘田三枝子の歌だった。成長期の子供は、こんな事からでも食べ物の情報を手に入れる。

『マッシュポテトを煮詰めて、あの人と踊ろう。湖も呼んでいる。』と聞いたら、『マッシュポテト』は何?と思うのが人情。姉の食べ物に関する嗅覚には脱帽だった。

私のアイドルは、横綱の大鵬、巨人の王貞治、そしてクレイジーキャッツだった。
中でもクレイジーキャッツはこの時代のウキウキした世相を見事に体現していた。
親と同世代の大人達がやっている能天気な馬鹿馬鹿しい芸能に日本中が喝采を送っていた。
ハナ肇、植木等、谷啓、桜井センリ、犬塚弘、安田伸、石橋エータローが舞台で繰り広げる何の意味もなく陽気に歌い踊る姿は、我々が失ってはいけない何かを暗示しているように思えてならない。
クレイジーキャッツで『ホンダラ行進曲』

栄養が行き渡って、肥満児が出始める。街の中に点在していたバラックは新しい家に建て替わり、遊び場だった雑木林は殆ど無くなってしまっていた。
オリンピックイヤーはすぐそこまで来ていた。
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1964年10月10日に東京オリンピックは開会した。10月10日は晴天率の高い特異日で、季節的にも運動に最適な平均気温だったからだ。10月10日が『体育の日』になったのはオリンピックを記念してのことだったが、当時の運動会や体育祭はみな10月開催されるものと決まっていたからでもある。
今年予定されるオリンピックは酷暑の7月下旬から8月上旬に開催される予定だ。
アスリートファーストだからという理由でマラソンの会場が北海道に変更されたが、本当にアスリートファーストなら10月開催を認めるのが筋というものだ。
IOCが日本の要望を受け入れなかったのは、スポーツイベントが秋に集中するため10月開催に反対するアメリカの放送局が払う莫大な放映権料を無視できなかったからだ。アスリートファーストが聞いて呆れる。
前回の東京オリンピックが衛星放送の発端となって、無邪気に誇らしく思っていたが、二回目のオリンピックに仇となってしまうなんて当時は考えもつかなかった。

テレビでオリンピックをしたり顔に語る一見生真面目そうなコメンテイター達を見ているとあの頃のクレイジーキャッツの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたくなる。
一見正論に見えても根本のところで『長いものに巻かれている』ことに臆面も無い。
それこそ『ホンダラだ』と唄いたくなる。

と今日もシニカルになってしまって少し反省している私が心の拠り所としているブログがある。
理路庵先生の『CEBU ものがたり』










コメント

  1. そうでしたね、大きな衝撃でした。
    日米初の衛星中継で飛び込んできたのが、ケネディ大統領暗殺のニュースでしたね。最初は何かの「作りごと」ではないかと、一瞬、面食らいました。

    落合信彦というジャーナリストがいます。もうずいぶん前の著書ですが、「2039年の真実」に、JFK暗殺について書いています。アメリカ政府が暗殺の真実についてひろく一般に開放する年が、2039年。
    ある事件後、一定の年月が過ぎると、事実を開放するのは、どの国でもよくあることですが、はたして、どうでしょうか? どこまで真実を明かしてくれますかね。

    昭和30年代だったと記憶しています。「三種の神器」ーーテレビ、洗濯機、冷蔵庫。当時はまだ高嶺の花でした。日本人の生活が少しずつ上向いてきた出発点のような世相だったのではないでしょうか。
    「物が豊かになることの有難みは食べ物に極端に現れる」
    そのとおりだと私も思います。ある日突然、卵焼きが弁当に入ってくる。良質のハムもある。海苔とちくわの揚げ物のおかずとは雲泥の差。

    今回もまた、しばし、感慨に耽ることができました。当地は今、夜の10時37分、そして、外は雨。


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  2. 理路庵先生コメントありがとうございます。
    やはり先生も大きな衝撃を感じられたのですね。
    JFKは日本でも人気があったそうですが私はこのニュースまで余り知りませんでした。
    後に中学生になって英語の先生が詳しく教えてくれました。
    アメリカは怖い国ですね。
    海苔とちくわの揚げ物でしたね。思い出します。
    やっぱり玉子焼きとウインナソーセージの方が嬉しかった。
    なかなか小学校を卒業出来ません。
    東京はあと2週間ほどで桜が咲くそうです。

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