Twilight Zone

  通勤バスで、故小西甚一先生(日本文学)の『古文の読解』を読んでいると

 『スタンフォード大学にいたとき、史学で世界的に知られた教授に「カクテル(cock-tail)はなぜカクテルと言うんだね。」とたずねたら、さすが博学の彼も眼を白青して、「さあ。それは知らんね。」と肩をすくめた。cocktailすなわち「鶏の尾」とは、何か曰く(いわく)のありそうなことばだけれど、現在ではもはや起こりがわからなくなっているらしい。カクテルは近代アメリカの産物なのに、すでにこの状態である。まして日本のように古い歴史をもった国のことばが、すくなからず語源不明になっていたところで、別にふしぎでも何でもなかろう。

 だから、ある語が理由不明の意味変化をおこしたところで、いちいち「曰く」を気にしている必要はない。』

という一文があった。

 『古文の読解』は高校生のための古文の参考書で廃刊になっていたが、十年ほど前にちくま学芸文庫として復刻されていた。私はたまたま古本屋で見つけたのだが、高校生の時に出会っていたらきっと古文が好きになっていただろうと思った。

 先生は古文を学ぶ普通の生徒が陥りやすい「とまどい」や「疑問」に丁寧に答えてくれる。言葉は生きていて、その時代その時代で変遷もすれば、状況に応じて表す意味さえ違ってくるということを教えてくれている。

 さてこの一文もその中の一節なのだが、私は『眼を白青』と表現した先生の意図を思って微笑んでしまった。言うまでもなく『眼を白黒』が正しいが、碧眼の教授の様子が想像される『眼を白青』という表現は先生ならではだろう。そしてこの表現が一節の文意にも重なっているのは、さすがだと思わされる。

 余計なことだが「カクテル」の『曰く』について、木の棒をマドラーにしていたメキシコの少年に飲み物の名前をたずねたら、木の棒のことだと思って形が似ている『鶏の尾』と答えたとかいくつかの言い伝えがあるらしい。

 こんな事を書くのは、以前『フィンカム』の意味がわからず頭の隅にある未解決の引き出しにずっと入っていたのだが、理路庵先生が『固有名詞』と教えてくれた時に目から鱗が落ちるような感覚とともにもやもやが晴れたような爽快な気分になったからだ。

 私の『未解決の引き出し』には、人に言えば『なぁ~んだそんなこと』と一蹴されてしまいそうな物事が詰まっている。それは子供が『なんで、なんで』『どうして、どうして』と大人を困らせるものと少しも変わらない。

  『トワイライトゾーン』という番組があった。科学で説明のつかない不思議な現象が現実に起きたらというゾクゾクするような内容だった。

 
 例えば、こんな話。 

 顔を怪我して包帯でぐるぐる巻きにされた女性がいる。そしていよいよ包帯を取る時が来た。包帯を看護婦が巻き取る作業中、彼女は自分の顔が恐ろしく変形しているのではないかという恐怖に慄いている。

 最後の一巻きが取れた時、看護婦が「キャー!」と叫んだ。やっぱり顔が変形してしまったのだと彼女の恐怖は最高潮に達した。医師や看護婦たちは『失敗してしまった。整形手術をやり直そう』と口々に語っている。彼女は恐ろしくて目を開けられない。

 鏡を渡された彼女は、恐る恐る眼を開けた。すると元の美しい顔が映っている。おかしいどうしたことだろうと周りを見回すと、医師や看護婦たちの顔が醜く変形している。今度は彼女が悲鳴をあげて逃げるのだが、医者や看護婦たちがものすごい形相で追って来る。

 というようなお話が毎回放送されていた。子供の世界に大きな影響を与えた番組だったと思う。

・・・・

 そんな事はありえないと説明されても『ひょっとして』と思ってしまう。見える物が逆転してしまうというテーマは『心理学的』に説明がつくかも知れない。しかし、もっと根源的な疑問には答えられない。

 大好きな和代ちゃんが、自分の赤いハンカチと私の青いハンカチを机に並べて置いて疑問をぶつけて来た。和代ちゃんの持っているハンカチが『赤』で私の持っているハンカチは『青』と誰もが言う。ここで『赤』と『青』の逆転は起こらない。

 ところが和代ちゃんは『私の見ている色と貴方の見ている色が同じと言えるか?』というのだ。和代ちゃんと私は同じものを見ているが、同じように見えているかは定かではない。極端に言えば『赤色』と『青色』が逆に見えていても、私のハンカチを和代ちゃんが自分のものと間違える訳ではない。まったく別の色と見えていても支障は起きないことになる。

 すると同じものが見えているという前提で成り立っている世界が揺らぎ始めてしまう。私の頭の中で『トワイライトゾーン』のテーマが鳴り響き、何か異次元の入口にいるような感覚があった。

・・・

 グループ学習という授業があり、テーマごとにグループで学習し発表するというものだったが、私にとっては和代ちゃんと同じグループになれるかどうかが最大の関心事だった。上野の国立科学博物館に社会見学に行く前に、グループ学習で『地球の自転を証明しましょう』というテーマが与えられた。私は放課後、図書室で一生懸命調べた。図書室には司書の綺麗な先生がいて相談に乗ってくれたが、答えはなかなか見つからない。見かねた先生が、もう一度初めから調べ直しなさいとアドバイスをしてくれた。すると一度調べた中から『フーコーの振り子』が出てきた。

 慣性の法則で振り子は往復運動を続ける。しかし長時間観察したフーコーは、振り子の軌道が徐々に向きを変える事に気が付く。振り子が一定ならば、向きを変えているのは大地(地球)ということになる。それは日時計の影が動くのと同じ結果を見せてくれるのだ。

 私は先生に半信半疑でその本を見せた。『遂に見つけたね』と先生にお墨付きをもらって鼻高々でグループに持ち帰った。自分が発見した訳ではないのに無性に誇らしかった。そして博物館の螺旋階段にフーコーの振り子を見つけた時、和代ちゃんの名前を呼んだが、クラスの皆は別の展示物に夢中になっていて、振り子を見ているのは私だけだった。

 さて、問題はこれで終わったわけでは無い。私はフーコーの振り子が指し示す『地球の自転』を理解したが、心底納得してはいなかった。慣性の法則に疑念を抱いていたからだ。高校の物理で習う『第一法則』、静止しているものは静止し続け、運動しているものは等速度運動を続けるというのは経験則にしかすぎない。

 つまり例外が見つからないだけの話で、またしても『トワイライトゾーン』の音楽が頭の中で鳴ってしまう。私は、国立科学博物館の大理石の螺旋階段でフーコーの振り子を見ながら納得できない時間を過ごしていた。

 困ったもので、自明な事をそのまま受け入れられないと頭は混乱する。小西先生のような人が古文の先生だったら、私はその壁を超えられただろう。数学や物理にしてもしかり。私は、弱い頭を抱えて孤軍奮闘して今日まで生きて来た。

 だから、理路庵先生のように頭脳明晰な人に憧れる。そんな先生のブログ『CEBU ものがたり』は、以下のアドレスでご覧になれます。

https://ba3ja1c2.blogspot.com/

  


 









コメント

  1. 「和代」ちゃんのエピソードを読んで、ある寓意の物語を想い出しました。

    夏の夜。色とりどりの手づくりの提灯をかざして、子供たちが草むらで虫捕りをしている。
    「だれか、バッタが欲しい者はいないか?」ひとりの少年が声をあげた。
    「ちょうだい、ちょうだい」ひとりの少女が寄ってきた。
    「あら、これはバッタじゃないわ。鈴虫よ」少女の顔に笑みがこぼれた。
    「ああ、鈴虫だよ」少年は少女を見つめた。

    「だれか、鈴虫が欲しい者はいないか?」と、少年。
    「ちょうだい、ちょうだい」と、少女。
    「あら、これは鈴虫じゃないわ。バッタよ」

    川端康成の短編集「掌の小説」のなかの「バッタと鈴虫」です。うろ覚えですが、こんな内容だったと思います。

    和代ちゃんの「赤」と私の「青」が、仮に逆転しても、周囲の多くの人たちが、それに異を唱えなければ、さしたる混乱は起こらないでしょう。
    大人になって心が傷ついて、本当の「鈴虫」を「バッタ」だと思い、「バッタ」が本当の「鈴虫」に見えてしまうことのないように、と願うばかりです。

    返信削除
  2. 理路庵先生コメントありがとうございます。
    『バッタと鈴虫』の話は深いですね。
    『心が傷つき、真の鈴虫までバッタに見え、バッタのみが世に満ちていると思われる日が来るなら、今宵の美しい提燈に映った名前を思い出すすべがないことを残念に思う。』
    私の頭には難しすぎる寓意かも知れません。
    提燈の名前がキヨ子の胸と不二夫の腰に互いに映し出されていたことを二人は気づかなかった。だから二人には名前を思い出すすべが無い。
    そこで先生は、大人になって傷ついて、真偽を見間違えることの無いようにと仰るのですね。
    初恋のほろ苦い記憶に優しい先生の言葉・・・
    参りました。

    返信削除

コメントを投稿