Beach Boys - Don't Worry Baby (1964)

  『平成の三四郎』と言われた古賀稔彦が癌で亡くなった。左ひざを負傷した体でも金メダルを取った古賀稔彦も病魔には勝てずに53歳で散った。さぞかし無念だったろう。ご冥福を祈る。

 三四郎とは『姿三四郎』のことだが、柔道の草創期に活躍した講道館四天王の一人西郷四郎をモデルにした小説の主人公が姿三四郎でライバルでもあり恋敵でもあった檜垣源之助との闘いは少年の胸を躍らせる物語だった。巨匠・黒澤明の監督第一作は『姿三四郎』でその後もこの物語は繰り返しリメークされたがいつしか作られなくなった。

 明治の御世になって川路利良が警視庁を作った時、世には数々の柔術流派があった。そこで警視庁武術世話掛は武術試合を実施して諸流派を闘わせた。講道館は四天王の活躍で諸流を圧倒して警視庁に採用された。武士の戦技である『柔術』から近代スポーツ『柔道』への進化は明治の近代化と同じ意味を持つもので創始者である嘉納治五郎は明治精神の体現者と言える。講道館四天王の一人富田常次郎の息子である富田常雄が書いた『姿三四郎』は師範矢野正五郎(嘉納治五郎)を通じて柔術の近代化の道のりを後世に伝える意図があったと聞いたことがある。

 明治百年は昭和43年(1968年)なので、東京オリンピックが行われた昭和39年は明治維新から1世紀も経ていなかったし、その内の45年間は明治なのだから明治生まれがまだまだ存命だった。『明治は遠くなりにけり』と言われていたのも、それが明治人の言うセリフだったからだ。つまり『姿三四郎』は、『遠い記憶』だが『活きた記憶』の物語だった。『無法松の一生』もそうだが『活きた記憶』が残っている内はリメークされるが『ご先祖様の記憶』になってしまえば作られなくなっていくのだろう。

 さて嘉納治五郎先生の念願叶って晴れてオリムピック種目になった近代スポーツ『柔道』だったが俄かに暗雲が立ち込めてきた。

 無差別級に出場するオランダのヘーシンクは身長2メートルもあり日本人には一度も負けていない。『柔よく剛を制す』の日本柔道の神髄は体重別の階級ではなくて『無差別級』でこそ発揮されなくては意味が無い。巨漢ヘーシンクに破れたら、世界の人達は『柔よく剛を制す』を信用しなくなるだろう。少年マガジンも少年サンデーも恐ろしい鬼の様なヘーシンクに挑むのは猪熊か神谷かという記事を載せて私達の不安を煽った。それは日本柔道の危機でもあったのだ。

 東京オリンピックの機運はどんどん高まって行く。水泳では自由形の山中毅や背泳ぎの木原美智子、体操は『鬼に金棒小野に鉄棒』の小野喬、跳馬は山下跳びの山下治広、個人総合の遠藤幸雄。重量挙げの三宅。陸上は女子80メートルハードルの依田聡子、マラソンには君原、円谷。それに『東洋の魔女』の女子バレーボール。メダル候補が目白押しだった。とりわけ柔道は全階級で金メダルが当然と言われていた。

 結局ヘーシンクと闘うのは神谷と決まった。猪熊より身長が高く立技が綺麗だからだ。身長が高いといっても1メートル80センチ、ヘーシンクより二回りも小さい。それでも神谷の勝ちを信じていたのは、三船十段が『空気投げ』を伝授しているはずだと言われていたからだ。少年雑誌では、相手に触れずに投げてしまう魔法のように紹介していた。荒唐無稽のように思われるかも知れないが、三船十段の『空気投げ』(真空投げ)は有名だったし、私の父親も本当だと言っていた。三船十段は、講道館四天王の直弟子で柔道の奥義を身につけた伝説の人だからだ。

 聖火リレーが来るというのでクラス毎に列を作って沿道で待っていた。随分長いこと待っていたような記憶がある。それでも一生の内に二度と体験出来ない事と思って待っていた。

 あの頃、大人でさえオリンピックは持ち回りだと思っていた。担任の先生は聖火リレーを見に行く前にこんな話をした。

 『オリンピック参加国は、日本の努力で初めて100ヶ国を越えました。アジアやアフリカの独立したばかりの国々も日本の援助で参加します。四年に一度の祭典が世界を回ってまた日本に来るのは400年後になるでしょう。こんな凄い事に立ち会えるのだからみんなでお祝いしましょう。』

 散々待たされた聖火リレーは一瞬で通り過ぎて行ったが、日の丸の旗を振って声を振り絞って叫んでいた。もうすぐ始まるというワクワク感とヘーシンクの恐怖がないまぜになって複雑な気持ちだった。

 まもなく東京オリンピックが開幕する。

・・・・

 1964年の記憶として忘れられないのは、ヘビー級ボクシングでカシアス・クレイがソニー・リストンを倒して世界チャンピオンになったことだ。私はファイティング原田などの軽量級のボクシングしか知らなかったが、ヘビー級のボクシングをこの時初めて知った。その後、カシアス・クレイは『モハメド・アリ』と改名して様々な歴史的試合をすることになるのだが、『蝶のように舞い蜂のように刺す』と言われたヘビー級とは思えない華麗なボクシングは憧れだった。彼が闘ったのはボクシングだけでは無かった。私の思春期は『モハメド・アリ』と共に歩んでいくことになる。
 半ズボンに『坊ちゃん刈り』の小学生だった私は、この頃『七三分け』にするようになっていた。夏のプールサイドでは『セパレーツ』というへそ出しの水着を着たお姉ちゃんたちに目がいくようになっていた。いつの間にか無邪気な子供ではなくなっていた。

 私は無邪気な子供から少しずつ成長していくに従い『自己嫌悪』に悩むようになったが、新しい友達が出来たことで救われた。
・・・
 さて悩ましい少年期を迎えた私は、山口君という親友を得て二人で様々な体験をしていくことになるのだが、どの世代にあってもその時代を生きていく上で大切なことは、その時代をどのように感じるかに尽きるのだろうと思っている。
 そんな私が年老いた今もなお生きる示唆を受けているブログがある。
 『CEBU ものがたり』

 理路庵先生を訪ねて見て欲しい。

 

コメント

  1. 柔道家のなかでは、古賀選手が一番好きでした。凛とした品性を生涯持ち続けた人だったと思います。

    真剣勝負の世界に生きた、あるいは生きている人たちのことを思うたびに、なんの脈絡もなく頭に浮かんでくる言葉があります。

    株の世界に生き、麻雀と競輪をこよなく愛したある作家が生前、なにかの本に書いていました。
    「博打には博打年齢というのがある。とことんやる博打の一年は、普通の人の4,5年には該当する。絵描きには絵描き年齢、そして会社員には会社員年齢。この世の中のものにはすべからくそのものだけが持つ固有の年齢がある。そしてこの年齢は、生命の持つ年齢といつも平行してあるものなんだ」

    古賀さんは、言うまでもなく、博打うちなんかではなく、並外れた一流の柔道家でした。現役を退いた後も柔道界に貢献し続けてきて未だ道半ばの53年の柔道家年齢とともに、生命の持つ年齢をもある日突然53年という若さで病が奪い去ってしまいました。

    病に倒れたとはいえ、古賀さんの魂は、真剣勝負の世界に生きて天に昇っていった多くの先達と同様に、「敗れざる者たち」の一員に加えられることでしょう。

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  2. 理路庵先生コメントありがとうございます。

    古賀稔彦は全日本選手権で100キロを超える猛者達を次々と倒して決勝進出。小川直也に敗れたものの見事な準優勝。素晴らしい柔道家でしたね。

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