夜明けのうた 岸洋子

 1964年10月10日は台風一過の快晴だった。東京オリンピック開幕当日は休日となり一家でテレビに釘付けになった。

 『君が代』が演奏され天皇皇后両陛下が貴賓席につかれると古関裕而作曲の『オリンピックマーチ』の演奏に合わせてギリシャを先頭に各国選手団の入場行進が始まった。

 ヨーロッパ諸国に混じってアジア・アフリカの独立したばかりの国々が国旗を先頭に少人数の選手団で行進している。最後に胸に日の丸のエンブレムを付けた赤いブレザー白のスラックス姿の日本選手団が堂々の入場。見ている私も晴れがましい気持ちがした。

 選手入場が終わるとIOC会長が日本語で『私は1896年ピエール・ド・クーベルタン男爵によって復活された近代オリンピックの第18回競技大会の開会宣言をここに謹んで天皇陛下にお願い申し上げます。』と貴賓席に向かって語った。

 貴賓席の昭和天皇が立ち上がり『第18回近代オリンピヤードを祝い、ここにオリンピック東京大会の開会を宣言します。』と開会を宣言される。

 そして様々のセレモニーが続いた後、待ちに待った聖火が入場し新装なった国立競技場に特設された聖火台に続く長い階段を一気に登りきりトーチを掲げた。この瞬間は世界に衛星中継されているだろう。

 選手を代表して体操の小野喬が選手宣誓すると数千羽の鳩が放たれ『君が代』の斉唱。

 半世紀以上も前の出来事ながら、あの時の感動や高揚感は昨日の事のように思い出される。次の動画は古関裕而作曲の『オリンピック行進曲』

 男子体操は団体・個人総合・吊り輪・跳馬・平行棒で金メダル5個、銀メダルも4個獲得するという快挙を成し遂げ女子も団体で銅メダルを獲得した。

 水泳競技が始まった。丹下健三の設計した代々木競技場は独創的な釣り屋根構造で大空間を作り出していて素晴らしい屋内プールだった。ところが日本水泳陣は惨憺たる有り様だった。山中毅も木原美智子もメダルに手が届かない。アメリカ勢が大活躍、中でも自由形のドン・ショランダーが出場種目全て金メダルの大活躍。日本は最終日の自由形200×4リレーでようやく銅メダル。新聞は『銅にかなった』と皮肉たっぷりの見出しを出す始末だった。

 レスリングも6個の金メダルを取ったが、当時はあまり人気があるスポーツでは無かったのか記憶がほとんど無い。

 今でも金メダルが16個でメダル総数が29個という記録は破られていないというが、そのほとんどが体操とレスリングと柔道で、女子バレーボールやボクシングの桜井選手の金メダルもあったが、水泳や陸上での予選敗退を連日見せられた子供には日本勢大躍進という感慨は無かった。

 その柔道も記憶に残っているのは負けた『無差別級』だけだ。ヘーシンクの圧倒的な強さの前に神永は上四方固めで組み伏せられた。テレビ画面に『SEIKO』の時計が大写しになり、一秒毎に点灯されるランプが30になるまで奇跡を祈っていた。無情にも神永は一本負け。猪熊は泣いていた。日本柔道は負けた。

 しかし、勝ったヘーシンクは立派だった。オランダの関係者が喜び勇んで畳に上がろうとするのを制し、神永の健闘を称えるように抱き合った。彼は喜びを爆発させることなく正座して乱れた柔道着を着直して立ち上がり深々と一礼した。『礼に始まり礼に終わる』見事な柔道家がそこにいた。悔しいけれど『ぐうの音も出ない』負けだった。

 オリンピック最終日にはマラソンがあった。裸足で石畳のアッピア街道を走り抜けローマオリンピックの覇者となったエチオピアのアベべ、1万メートル世界記録保持者オーストラリアのドン・クラーク、イギリスからはヒートリー、迎え撃つ日本勢は君原、円谷、寺沢が出場した。

 前半はアベべとドン・クラークが先頭を走っていた。しかし、ドン・クラークは途中で失速し棄権してしまいアベべの独走となった。アベべは靴を履いていた。アナウンサーがその事を言っている。優勝インタビューでも『裸足では無い』ことに質問が集中した記憶がある。子供ながらにとんでもない失礼なことだと思った。何故なら、走るアベべの表情は『哲学的』と言われるほど崇高なものだったからだ。

 独走して国立競技場に戻って来たアベべは、ゴールしてから柔軟体操をして余裕を見せつけていた。その頃、円谷が2位で国立競技場に入って来た。円谷の表情は苦しそうだった。後ろにはイギリスのヒートリーが迫っている。男子1万メートルで6位入賞している円谷にはスピードがあるはずだ。『がんばれ円谷!』

 ヒートリーはスピードを上げ円谷を抜いた。円谷にはもう追いかける力は残っていなかった。ゴールした円谷は精魂尽きていた。

 陸上競技で表彰台に登ったのは円谷だけだった。あの国立に『日の丸』を掲揚したのだ。素晴らしいことに違いない。だが、何故か心から喜べない。満員の国立競技場の歓声が悲鳴に変わったあの瞬間、疲れ果てた円谷の表情、ゴールして抱きかかえられた姿。晴れがましい表彰式よりあの悲劇的結末が心に残った。

 数年後、メキシコオリンピックの前に円谷は自殺する。次の動画は円谷幸吉選手の感動的な『遺書』とピンクピクルスの『一人の道』。

 閉会式が始まると海外の選手団が入り混じって入って来た。まるでお祭り騒ぎのような状態だったが、オリンピック始まって以来初めての無秩序な選手入場を『世界平和とはこんなものか』とアナウンサーが絶賛していた。ところが最後に入場した日本選手団だけが統率された隊列で行進していた。見ている私は複雑な気持ちだった。世界中の選手が『東京オリンピック』を楽しんでくれた。そして日本のおもてなしを喜んでくれたのだ。ところが一緒になってバカ騒ぎが出来ない日本選手団。

・・・あっと言う間の二週間、世紀の祭典は終わった。

 東京オリンピックは私に世界(特にアメリカ)の強さをまざまざと見せつけた。世界初のテレビ生中継が私に教えてくれたのは『より強く、より高く、より早く』というスポーツの基本において日本は世界のトップクラスから一段低いポジションにいるという現実だった。
 オリンピックに一喜一憂した私は現実世界に初めて直面したが、スポーツの世界だけでなく政治の面でも大きな出来事があった。オリンピックの最中に中華人民共和国(中共)が核実験を行ったのだ。毎年飛んでくる黄砂とともに死の灰が日本列島に降り注ぐ危険性があると言われた。
 小さい頃小児喘息だった私は黄砂が苦手だった。小児喘息は自然治癒したものの死の灰が黄砂と共に降り注ぐという話は、私には現実味のある怖い話だった。
  
 東京オリンピックといえば市川崑監督の記録映画が作られて学校で観に行ったが、オリンピック担当大臣の河野一郎が『記録性を無視した』と強く批判、愛知揆一文部大臣も『文部省として推薦しない』と発言、『芸術か記録か』と物議をかもした作品だった。担任の先生は河野大臣を一方的に断罪していたが、私が観た限り圧倒的な映像美は素晴らしいが確かに記録性は犠牲になっていたと思う。

オリンピックが終わり木枯らしの吹く季節がくる頃、岸洋子の『夜明けのうた』が流行り出した。私も登校途中に口ずさんでいた。
 世界の現実に気の滅入りそうになる私はこの歌に癒されていた。  

・・・・

 今でも世界の現実を知りたいと思う私は理路庵先生のブログを読む。

『CEBU ものがたり』

https://ba3ja1c2.blogspot.com/ 

是非訪ねて欲しい。

コメント

  1. 東京オリンピックの懐かしい風景の詳細な描写をありがとうございました。

    上述にあるとおり、円谷選手は3位という偉業を成し遂げました。が、ゴールした時の円谷選手の姿に、感動というよりも、私は痛々しさを、真っ先に感じました。
    沢木耕太郎が、「敗れざる者たち」という本の中に、円谷選手の遺書について書いてあるのを想い出します。

    そして、閉会式。国の枠を取っ払って、各国選手団は、オリンピックという重圧から抜け出すことができたせいなのか、混合して喜びを爆発させました。対照的に日本選手たちは「一糸乱れず」行進した場面も実に印象的でした。主催国として、羽目を外すことはできない、という思いからでしょうか。というよりは、ああ、これが私たち日本人なんだ、とテレビを観ながら思ったものです。

    1972年のドイツ・ミュンヘンでのオリンピック。アラブの過激派組織、「Black September」によるテロでイスラエル選手11名が殺害されました。イスラエルや西側諸国からの人質救出の援軍申し出を拒否して、ドイツ単独で対テロ撃滅作戦を敢行した結果、人質全員が犠牲となりました。ドイツ側の拙策によるものだと当時、各国のマスコミは騒ぎ立てました。
    その数日後の夜に、殺されたイスラエル選手の追悼式が行われたのですが、私の記憶が正しければ、日本選手団からは誰一人として参加しなかった、という当時の記事も憶えています。

    金権オリンピックの開催は是か非か、と言えば、それでもやはり、是の部分が多少は勝るでしょう。とはいえ、常に政治状況に左右されるのを思うたびに、所詮は「一過性」の平和に過ぎない、という事実もまた重くのしかかってきます。



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  2. 理路庵先生コメントありがとうございます。
    ああ、これが私たち日本人なんだと先生も思われたのですね。
    愛想も良く親切なのにフレンドリーになれないと言うかおくゆかしいと言うか一歩引いてしまうのは日本人の特徴でしょうか。
    円谷選手も銅メダルを取ってもっと喜んでいたら、その後の人生は変わっていたのではないかと思ってしまいます。

    昨日、松山英樹選手がマスターズ優勝という快挙を成し遂げました。
    マスターズ挑戦10年目の快挙、プロ転向後米国でプレーし続けて来た彼はアメリカ選手とはプレー中に話しているのにインタビューでは日本語で言葉少なく話すだけで英語でスピーチする事はありませんでした。
    とても勿体無い事だと思いました。
    これは今も変わらずなのでしょうか。
    英語が話せない私が言うのもおこがましい事ですがとても残念でした。

    世界を旅して来た先生はどう思われますか。

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