赤ひげ

 昭和40年のお正月映画に松竹の「いいかげん馬鹿」が上映され、山口君と立川松竹へ観に行った。主演はクレイジーキャッツのハナ肇、マドンナ役は岩下志麻、監督は山田洋次だった。当日は岩下志麻が舞台挨拶をした。山田監督も来ていたと思うが記憶に残っているのは岩下志麻の美しさだ。多摩川のそばで育ったからこの辺は懐かしいというような話をしていたが、小学6年生の私は始めて見る女優の美しさに見とれていた。

 行方不明になった悪童が10年ぶりに有名な小説家をつれて瀬戸内の島に戻って来て、欲にからんだ人達とてんやわんやの騒動を巻き起こす。挙句の果てに島からいなくなるが、マドンナが都会でハナ肇を見かけると「テキヤ」になっていた。「たいしたもんだよ蛙のションベン見上げたもんだよ屋根屋のふんどしってね。」とやっているのを見て安心するマドンナというような話だった。
 ハナ肇はクレイジーキャッツのバンドリーダーで喧嘩も強かったらしい。どこか人を圧するものがあったが、めっぽう明るく、ひょうきんな面を持っていた。だからこの映画の主役にピッタリの役者だったと思う。しかし、馬鹿を演じても馬鹿ではない素が見えている事は子供にも分かった。つまりクレイジー・キャッツのバカ騒ぎと同じだ。馬鹿に興じているだけの話だった。

 後に渥美清で「フーテンの寅さん」が始まった時、同じような設定だなと思ったが、渥美清の演技の上手さがなければ喜劇になり得ないものに変質していた。そこには底抜けの笑いは既に無くなっていて、下町人情で包み込んでいなければ救いの無い話になっていた。(と私は思っている。)

 私は中学生になった。この年、教室の壁を取り払って2教室分の広さで映画鑑賞が行われた。2教室分といっても全校生が入る広さではないので、交代で何回か上映されたと記憶している。

 国立はまだ市になっていない頃で、東京都北多摩郡国立町○○と表記していた。この郡部の地域を23区と区別して「都下」と呼んでいた。随分と差別的な言い方だが、都内から転校生が来るとなぜか賢そうに思えたものだった。小さな町で予算も少なかったからだろう、体育館もプールも無く教室は木造で達磨ストーブというありさま。隣町の立川、国分寺、府中では鉄筋コンクリートの校舎が当たり前になっていたので、町の予算が少ないことは皆知っていたし、入学式も卒業式もこのぶち抜き教室でやっていた。

 上映された映画は黒澤明の「赤ひげ」だった。

 黒沢明作品を始めて観たのがこの作品だった。なぜ中学校で上映されたのか事情はわからない。しかし、素晴らしい作品に出会えたことには感謝しかない。それにどんなに良い映画でも小学生向きではないと思われるので中学生になっていて幸運だった。

 NHKの大河ドラマも前の年に長谷川一夫の「忠臣蔵」が評判だったが、この年に緒形拳の秀吉、藤村志保のねね、高橋幸治の信長で「太閤記」が放映されて大評判となり、新国劇あがりの無名の新人だった緒形拳は大スターになった。
 大河ドラマといえば「歴史ドラマ」ということになっているが1970年(昭和45年)には山本周五郎原作の『樅ノ木は残った』を平幹二朗で放映していて、大河ドラマの中でも出色の出来で強く印象に残っている。伊達騒動が題材の歌舞伎『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)では悪役の原田甲斐が実は忠臣だったのではないかという物語で、主家を守るために敵中に身を置いて活路を見出そうと苦悩する原田甲斐が最期に自らの命を差し出して悪名を一身に受けて死んでいく。平幹二朗も良かったが原田甲斐の心理描写を語るナレーションの和田篤アナウンサーが一際素晴らしかった。
 『赤ひげ』の原作も同じ山本周五郎で、この映画が山本周五郎との出会いともなった。後々、新潮社から山本周五郎の全集が出て定期購読したことがある。すべての作品に共通しているのは『美しい心根』の人物が出てくることだ。
 この物語も保本登という青年医師(加山雄三)が小石川療養所の所長である「赤ひげ」といわれた新出去定(にいで きょじょう・三船敏郎)の元で成長していく話で登場する貧しい病人たちの美しい心根が厳しい現実との対比の中で見事に描かれている。
 「椿三十郎」も「どですかでん」も山本周五郎が原作なので黒澤明にとって山本周五郎は特別なのだろう。「蜘蛛の巣城」「乱」のシェークスピア、「羅生門」の芥川龍之介よりも多く題材を取っている。それは山本作品に特有の悲しいほどの「ひたむきさ」や人を想う心が読者に感銘を与えるからだと思う。

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 同級生に映画好きの山口君がいた。小学4年から中学卒業までずっと一緒で大の仲良しだった。山口君の母親が映画関係の仕事をしていたのか招待券を持っていて二人でよく観に行った。
 加山雄三の「若大将」も「赤ひげ」の製作中はお休みになっていたが、この年に二本も上映された。そして「エレキの若大将」で歌われた『君といつまでも』が空前の大ヒットで『夜空の星』もヒットした。私は『君といつまでも』は何か気恥ずかしい歌のように感じて『夜空の星』の方が好きだったが、加山雄三の人気を不動のものにした記念すべき年だった。
 当時は二本立てが当たり前の興行だったので、山口君とは同時上映の宝田明主演の『怪獣大戦争』を観に行ったのだが、むしろ『エレキの若大将』に夢中になってしまった。

 山口君とは『サウンドオブミュージック』も観に行った。

 出だしから大画面一杯に広がるアルプスが映し出されて(この動画ではカットされていて残念)段々とズームアップして行き、ジュリーアンドリュースのオープニングテーマが唄われるスケールの大きさに圧倒された。途中でインターミッションが入る長い映画なのだが、オープニングからエンディングまであっと言う間と感じるほど見事なミュージカル映画だった。
 招待券で見ている代わりに洋画を見る時には必ずパンフレットを買った。これは山口君の希望だった。この時に覚えた名前は作曲家リチャード・ロジャースと作詞家オスカー・ハマーシュタインで二人合わせて「ロジャース・ハマーシュタイン」(R・H)。アメリカのミュージカルを代表するコンビ。あの名曲「バリ・ハイ」で有名なミュージカル「南太平洋」もこのコンビの作品だった。
 当時の男優と言えばカーク・ダグラス。あごに窪みがある精悍な風貌で人気があった。山口君と見に行ったのは「テレマークの要塞」。

 ナチスの原爆製造計画を阻止するため難攻不落のテレマーク要塞を破壊する使命を負ってカークダグラスは単身ノルウェイに乗り込む。原爆製造にかかせない『重水』の製造拠点だったのだ。命がけのミッションの間にもロマンスがあり、思春期の私はもじもじしながら見ていた。
 もっと『もじもじ』したのは007「ゴールドフィンガー」。前年「ロシアより愛をこめて」が大ヒットした007シリーズ。中学生になった山口君と私は遂にジェームズ・ボンドを観に行った。

 山口君はスポーツマンでお洒落だった。中学に入ると一緒にバスケ部に入った。整髪料のバイタリスで七三分け、オニツカタイガーのバスケシューズ、胸にイニシャル腕に二本線のカーディガンを着るようになったのも山口君の影響だ。
 体育館が無いので雨が降ると練習はお休みになってしまう。グラウンドのコートはみんなでローラーでならしても凸凹だった。山口君が顧問の先生に頼んで体育館のある学校へ遠征して試合をした。彼の提案で早稲田大学と同じえんじ色のジャージを一年生だけで買いそろえて胸に『国中』の刺繍を入れてもらって気分だけは一流校のようだった。
 2年生は弱いチームだったので、3年生が夏で解散すると我々一年生の天下になった。その内、中央大学生のOBが練習を見てくれるようになった。
 山口君と私はよくこの先輩の家に遊びに行った。初めはバスケの雑誌を見せてもらったりしていたが、その内にビートルズのレコードを聞かせてもらったり、思春期の悩みやインキンの治し方まで教えてもらったりして有難い先輩だった。
 今のご時世ではどうか分からないが、当時の思春期の悩みと言えば、ニキビとインキンで山口君も私も股がむれるのかインキンで悩んでいた。先輩がサルチル酸の小瓶を持っていて先輩の部屋で塗って治した。サルチル酸は猛烈に沁みた。それもその筈で水虫の薬だったからだ。とんでもない荒療治だったが、一発で治ったのだから沁みただけのことはあった。
 ここまで来れば、読者(何人いるかわからないが)の皆さんはある程度想像が付くだろう。大学生の先輩の部屋にはバスケの雑誌だけではなく『平凡パンチ』が置いてあった。その雑誌のありがたい効用も先輩から教わったが、ここでは詳細な説明を省きたい。
 という訳で、山口君と私は究極の秘密を共有するまさに刎頸の友となった。

 我が池田隼人は亡くなったが、目玉がぎょろっと大きい『政界の団十郎』こと佐藤栄作が総理大臣になって高度成長の第二段階に入っていた。ベトナムでは悲惨な戦争が続いていたが日本は平和だった。

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 大人と子供が同居する不安定な思春期。あの頃からちっとも成長しなかった私がここにいる。よくぞここまで馬齢を重ねたものだと思うが、それもまた人生か。

 そんな私は理路庵先生のブログを必ずチェックするのが日課だ。
 理路庵先生の教養に浴するだけで幸せな気分になれる。
 ブログ『CEBU ものがたり』のアドレスは

コメント

  1. 過日、日本の友人からのメールに、「トッポジージョさんのブログは素人の域を超えている、云々」という一文がありました。
    私もよくそう思います。はるか昔の小学生時代の出来事を、つい昨日のように描いていますね。その当時の社会背景も織り込んで、読者を惹きつけます。

    山本周五郎。「美しい心根」、あるいは、「美しい日本人の情緒」に、若かりしころ私も強い共感を覚えました。
    上述のような大作ばかりでなく、たとえば、「日本婦道記」、「23年」などの小品にも心を動かされました。

    「日本婦道記」(新潮社版の文庫本だったかな)の「あとがき」の解説文に、「世を悪くするひとつの大きな原因は、婦女の婦女としての在り方にある。悪い婦女と悪い世は正比例する」という趣旨の文章が、たしかあったと記憶しています。
    今でも若い世代の日本人は、山本周五郎を読んでいるでしょうかね。インターネット時代の日本で、どれほどの日本人が読み継いでいるでしょうかね。

    「平凡パンチ」。私は精神的硬派でしたから、この手の軟弱な週刊誌は、えへへへへ、読みましたよ。ニキビ面の中高生にとっては、絶品とも言っていい本だったかもしれません。

    時おり、私も子供時代を思うことがありますが、移住してからというもの、これからをどのように生き抜くか、ということばかりに気を奪われることが多くなってきました。
    貴ブログを拝見するたびに、私も自分が生きてきた折々の一端を想い出すことができます。貴重なブログに、深謝。

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  2. 理路庵先生、コメントありがとうございます。
    読者は先生一人だと思っていたので他にも読んでくださる方がいたとは嬉しいかぎりです。そして過分の評価をいただきとても励みになりました。本当にありがとうございます。
    山本周五郎は全集まで買ったぐらい大好きな作家なんですが、先生が「日本婦道記」までご存じとはさすがだなと思いました。時々我が愚妻に読ませてあげたいと思ったりするのですが墓穴を掘りそうで控えております。(笑)
    今回は、オリンピック明けの新年に山口君と正月映画を観に行ったら岩下志麻が舞台挨拶に来ていた思い出を書こうとしたのですが、書いている内に色んなことが思い出されてズルズルと書いてしまいました。私のブログはいつもこんな展開になってしまうのでまとめるのに苦労しています。成り行きまかせなので先生のコメントで何とか続けて来られました。今後ともよろしくお願いいたします。

    日本は非常事態宣言の期限が来ても感染が広がり続けて、今月末までの延長が決まりました。変異株の猛威はこれまでとは違って予断を許さない状況です。大阪は重症者の病棟使用率が100%を超えてしまいました。私の市でもワクチン接種が始まるのですが、予約開始が6月10日ということでまだまだ先です。
    ニュースではフィリピンでも猛威を振るっているということなので先生もくれぐれもお気を付けください。

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