七人の孫

 TBS系列で放送されていた森繁久彌の『七人の孫』を毎週欠かさず見ていた。今は亡き樹木希林(当時は悠木千帆 )のテレビ初出演のドラマで、初め端役だった彼女はその演技力を認められ次第に出番もセリフも増えて行った。そうそうたる出演陣の中で存在感を出した樹木希林が一躍人気女優になった記念碑的作品だ。

 懐かしい森繁の声がYouTubeにあった。

 戦後20年、軟弱になった若者を嘆く森繁節が懐かしい。何よりこれは『アメリカの占領政策によって骨抜きにされた』と喝破していたことに今更ながら驚く。
 最後に歌っているのは明治の唱歌『箱根八里』の一節で『一夫関に当たるや万夫も開くなし』(一人の強者関を護らば万兵も落とせず)という勇猛果敢な歌なので、今ならジェンダー論者から非難轟轟だろう。

 せっかくなので理路庵先生が口ずさんでいる『七人の孫』の主題歌『人生賛歌』もYouTubeにあったのでご紹介する。
 (2021/09/23 YouTubeが消されたので変更しました)

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 トッポジージョの『一夫当関』

 私は生意気な少年だった。少年特有の万能感のようなものがあって人を小馬鹿にするようなところがあったし、自分の至らなさを指摘されると理由はともあれ反発せずにはいられなかった。(思い返すと冷や汗が出る)
 担任は社会科(地理)の教師だった。ずんぐりむっくりした体形の男性教諭で新婚ほやほやだった。新婚旅行の写真を見せてもらったが、宮崎県の都井岬で野生馬が写っているスナップで奥さんが写っていない。風景写真ばかりで面白味の無い人だなと思ったら三か月で離婚してしまった。昇降口で同級生たちと『あんなに鈍くさいんじゃ、奥さんに逃げられる訳だ』と笑っていたら、後ろに担任が立っていてバツの悪い思いをしたことがある。
 担任の授業は退屈だった。教科書通りに時間を消化しているのが解る。生徒に伝えたいという情熱は皆無だった。なぜこんな輩が教師をしているのだと腹立たしく思っていた。

 そんなある日、社会の授業で『人口問題』が取り上げられた時だった。1965年当時、世界人口は30億を突破したばかりだったと思う。(現在、世界の人口は80億に迫っている。)
 日本の人口構成は二重のピラミッドだった。ピラミッド型は多死多産の後進国に特徴的な形でヨーロッパ諸国のような先進国は少死少産で釣鐘型だという。
 当時、日本が二重のピラミッドだったのは、私より少し年上の団塊の世代を最大値としてそれより高い年齢層は見事なピラミッド型で私達の年代で減少傾向になったものの第二次ベビーブームが来て再び増加していたからだ。 
 教師はヨーロッパのような釣鐘型が理想的な人口構成だといい、世界中が見習わなければ人口爆発で人類は滅亡の危機に向かうというようなことを言った。地球は有限であり化石燃料は残り40年で堀尽くされてしまう。そうなれば世界中で資源争いが起こるだろう。現に日本は人口問題で戦争をした。だから、少死少産の先進国のような釣鐘型の人口構成を目指す必要がある。
 『貧乏人の子沢山』という言葉から何を連想しますか。子供が多すぎて経済的に厳しい親が『間引き』をしていたのは遠い昔の話では無い。母体保護の観点からも多産を避けなくてはならない。
 担任が珍しく饒舌だった。教科書にも『人口問題と家族計画』が載っていて授業はその通りに進んでいたと思う。

 担任を小馬鹿にしていたからかも知れない。心の底で認めたくないという気持ちがふつふつと沸いた。急かされるように頭がぐるぐる回った。気がついたら立ち上がって発言していた。

 『人類の発展が人口増加をもたらした。人口を増やすなというのは人類の発展を信じないということでは無いんですか。』

 担任は私には答えずに『皆はどう考えますか』と逃げた。
 お陰で私はクラス中の反撃を受けることになった。しかし、教科書に書いてあることに背くことになってもどうしても納得できなかった。半ばやけくそだったが、私は真剣だった。まさに四面楚歌という状況だったが、どうしても自説を曲げられなかった。それは感覚的なもので理屈は後付けにしか過ぎなかった。
 あれほどむきになったことは無かった。山口君まで「おい、どうしたんだよ。」と後で言っていたが自分でもよく解らなかった。

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 旧優生保護法による避妊手術の被害者たちが国家賠償請求を起こした裁判が相次いで報道され、その実態を知ったのは最近のことだ。
 どうしてこんな非道な法律を現憲法下で立法したのかという疑問がわいて調べてみた。すると概略次のような事が解った。

 米国にマーガレット・サンガーという婦人解放運動家がいて、戦前米国に留学していた加藤シズエは師事するようになりサンガーを日本に6回も招いて産児調節(バース・コントロール)運動の講演を行っていた。
 これを機に加藤シズエは産児調節運動をスタートさせるが、母体保護だけでなく『不良な子孫の出生の防止』を訴えた。
 1933年にナチスドイツが遺伝病根絶法を定めて強制断種を始めると先を越されて悔しがったという。これはサンガーの思想と相容れぬものであったが、こうした加藤シズエの一知半解と思い込みは後に優生保護法の成立に結びついてしまう。
 日本を占領したGHQは加藤シズエに衆議院議員への立候補を要請し、加藤シズエは社会党から立候補し当選、初の婦人代議士の一人となる。
 さらにGHQは産児制限の立法化を指導する。GHQの後ろ盾とP&Gの創業者一族のクラレンス・ギャンブルの資金提供を受けた加藤シズエは議員立法で『優生保護法』を提出し成立させてしまう。
 『日本人の精神年齢は14歳』と公言していたマッカーサーの日本を指導する対象としてしか見ない統治者GHQと、日本を『ジャップ』と罵る偏見に満ちたクラレンス・ギャンブルという男と、GHQによって時代の寵児に押し上げられた婦人運動家気取りの加藤シズエという組み合わせが生まれた歴史の皮肉。
 それでも障がい者に対する強制避妊についてGHQは反対の意向だったという。もし本国であれば認めないようなことでも日本人蔑視が底流にあったのか最後には『日本人が決める事だから』と認めてしまう。
 その後、加藤シズエは『日本家族計画連盟』が結成されると中心メンバーとして活動していく。
 産児制限運動は母体保護が目的の運動で多産から母体を護る必要があった時代の産物だ。その意味でマーガレット・サンガーは立派な婦人解放運動家だと言える。この運動は国際的な広がりを見せたものの大きなムーブメントとはならなかった。しかし、唯一人口調節に成功したのが戦後の日本で、合計特殊出生率は昭和22年の4.54をピークに下がり始め昭和30年には2.37、昭和35年には2.00にまで下がり、その後2パーセントの前後で推移し続けたものの昭和50年に1.91を記録してからは下がり続けて令和元年には1.36という恐ろしい数字になっている。

 ここで注目して欲しいのは昭和35年の2.00という数字だ。私が家族計画の授業を受けた昭和40年の5年も前に産児制限の目的は達成されていたのだ。
 
 当時中学生だった私がその事を知っていた訳ではない。そうではなくて家族計画運動の背景にある『子供は授かりもの』ではなくて『産む産まないは親の権利』という発想が不遜で嫌らしいものだという生理的反応だった。

 少子高齢化が叫ばれて久しい。柳田という国務大臣が晩婚化が少子化に拍車をかけているという趣旨で出産適齢期に言及『女性は子供を産む機械(装置)』と発言して大問題になったこともある。出産奨励政策は批判の的で『女は産む機械じゃ無い』戦前の『産めよ増やせよ』と同じ時代錯誤だと言われてしまう。

 少子化を推進していた人達がいて、そういう教育で育てられた身としては、彼らに今の少子高齢化を問いたくなるのだが時すでに遅し彼らは鬼籍に入ってしまっている。
 家族計画という啓蒙運動が行われていた。今では背後にGHQがいた事も解っている。言論統制下で国民に知らされていなかっただけだ。加藤シズエという婦人運動家をGHQが使って人口問題の啓蒙運動(実態は少子化運動)を実施させた。その背景にマーガレット・サンガーという無神論者の思想を日本で啓蒙しようとする力が働いていた。この日本人の精神性を骨抜きにする潮流は現在も続いている。
 
 お目出度い日本人は第三次ベビーブームが来るという神頼みが潰えてみて初めて少子高齢化の深刻さに気が付きはじめたのだが、出産を奨励できないという政策的制限がある中で無為に時間ばかりが進行して今日に至っている。
 これは根っこにある家族計画そのもの(あるいは占領政策)の総括がなければ到底克服不能だろうと思うのだが。あの時、森繁久彌が骨抜きにされたと嘆いていたくらいなのだから半世紀以上も過ぎた今となっては絶望的なのかも知れない。

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 今回は理路庵先生のブログにあった鼻歌からの連想で書きました。
 本当は小心者の私が心酔しているのが理路庵先生のブログ
『CEBU ものがたり』

追伸 ブログに挿入するYouTubeを探していて偶然見つけた曲が気に入っています。

クリス・レアの ”The Blue Cafe”

My world is miles of endless roads
That leaves a trail of broken dreams
Where have you been
I hear you say?

I will meet you at the Blue Cafe
Because, this is where the one who knows
Meets the one who does not care
The cards of fate

The older shows
To the younger one, who dares to take
The chance of no return

Where have you been?
Where are you going to?
I want to know what is new
I want to go with you

What have you seen?
What do you know that is new?
Where are you going to?
Because I want to go with you

So meet me down at the Blue Cafe

The cost is great, the price is high
Take all you know, and say goodbye
Your innocence, inexperience
Mean nothing now

Because, this is where the one who knows
Meets the one that does not care
Where have you been?
I hear you say
I'll meet you at the Blue Cafe

So meet me at the Blue Cafe

 難しい歌詞ではないので私にも何となく解りますが、何か含意があるような気もします。
 肩に力が入らない感じが心地よいので本日のおまけです。

 
 
 
 

コメント

  1. 今回もまた、内容のあるブログに深謝。
    森繁は、好きだ嫌いだとか考えたことはなかったのですが、やはり、さすがですね。並みの役者ではなかったですね。
    昭和40年のYouTubeーー車をもって団地に住んできれいな女房と暮らす、云々。たしかにこれもひとつの「幸福」のありかたでしょう。

    「せっかく男として生まれてきたんだからーー」
    昭和40年にしてすでに、アメリカの日本占領政策は実を結び始めていたのですね。

    今回の内容で強くひかれた部分は、トッポジージョさんが「立ち上がって発言した」という件です。ほとんど無意識に近い行動だったのでしょう。意識しない感覚的な行為というのが非常に重要で、それこそがその人の「心の核」「思考の源」だと私は確信しています。

    教科書に書いてあろうがなかろうが、先生が何を言おうが、大統領が何を言おうが、偉人がああ言おうが、ローマ法王がこう言おうが、そんなことはどうでもいいのです。
    無意識に近い感覚的な行動。
    普通の言葉で私流に言わせてもらえば、「INTUITION」「INSTINCT」。「抑えようがない直感」という感じです。これがその人の生き方を左右する、と言うと大げさに聞こえるかも知れませんがね。

    少なくとも私の場合は、自分の「直感」に従って、非常に多くの時間を今日まで生きてきました。人生のハシゴから転げ落ちるような失態は、幸いにして今日までのところありません。

    トッポジージョさん流の「気がついたら立ち上がっていた」直感を、ぜひとも今後も持ち続けて下さい。

    これから生きていく中で、いろいろな迷いや不安は、誰にでもありますね。そんな時こそ、「自分の核」となる考えの原点、「直感」に戻って再出発すればいいのではないでしょうか。あえてこじつけ的に言ってみれば、そうだ、「Blue Cafe」に帰ってみようか、出直しをはかるために。

    「人生賛歌」ありがとうございました。

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  2.  理路庵先生、コメントありがとうございます。
     『抑えようがない直観』のため、大事な会議の席で皆が顔色を窺っている上席の方に向かって『お言葉ですが・・・』とやってしまい、その後激しいパワハラを受けて辞職に追い込まれたのは50歳の時でした。分別盛りの50歳が中学生と同じ行動をしてしまった事を思い出します。
     それが私の「心の核」であり「思考の源」であるならもって瞑すべしということですね。いくつになってもトッポジージョのままで大人になれないと思っていたのですが、存外そうでもないのだと思い直しました。
     やはり理路庵先生は奥が深い。感謝の言葉が見つかりません。

     ところで「Blue Cafe」ですが
    サビの部分で
    Where have you been?
    Where are you going to?
    I want to know what is new
    I want to go with you
    と繰り返す所で何か深い意味でもあるのかと思ったのですが、先生の一言で納得しました。
    これは出直そうという歌だったのですね。
    勉強になりました。
     いつもありがとうございます。

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