ベトナム戦争

 東西冷戦が激しくなる中、1965年(昭和40年)ベトナム戦争は一気に泥沼化した。

この動画には以下の説明がついている。
U.S. President Lyndon Johnson says that he wishes to convey to Communist powers in Vietnam that the United States cannot be defeated by 'force of arms or by superior power.' The President states that he has spoken to Commanding General Westmoreland has assured him that whatever his needs are, they will be met. He says that troop numbers will be increased from 75,000 to 125,000 in Vietnam. Additional forces will be needed later which will be sent. Brief shots of young men standing in line for the draft, taking tests, and taking the oath as soldiers are shown. The President says that he welcomes the concerns of any nation. 
Location: Washington DC. Date: July 28, 1965.
 
 これはウエストモアランド将軍の求めに応じて派遣部隊を75,000人から125,000人に増派する決定を発表するジョンソン大統領のスピーチ。共産主義勢力に屈することは無いと語っている。

 正規軍を増派してもゲリラ戦を展開するベトコン(注)に手を焼いていたアメリカはすでにベトコンを支援する北ベトナムへの北爆を開始していた。 
 
 この年大ヒットしたママスアンドパパスの『夢のカリフォルニア』が背景に流れていて実際の爆音は聞くことは出来ないが映像だけでもアメリカの空爆の物凄さが伝わってくる。アメリカの攻撃は斯くの如く苛烈なものである。この20年前、あの空爆の下にいたのは日本人だった。

(注)アメリカ兵は「Vietnamese Communist」(ベトナムの共産主義者)の頭文字をとった「V.C.(ヴィー・シー)」、もしくはVとCのNATOフォネティックコードであるヴィクター・チャーリーの後半をとったチャーリーと呼んだ。/Wikipediaより

 第二次大戦や朝鮮戦争は私の生まれる前の出来事だが、ベトナム戦争は私が小・中・高の頃だったのでメディアを通じて知っていた。
 テレビは夥しいベトナム戦争のニュース映像を流していたが、戦争の悲惨さや南ベトナム政府の腐敗ぶりに焦点が当てられていて、アメリカやその傀儡政権がベトナム人民を苦しめているという印象を持たせる内容だったと思う。そして、その矛先はアメリカに協力している日本政府にも向けられていた。

 傀儡政権の常で、韓国の李承晩もそうだが南ベトナムのゴ・ジン・ジエム政権も一部の人間が特権階級を形成して腐敗していた。しかも仏教国なのに仏教徒を弾圧した。そしてクーデターが起きてゴ・ジン・ジエムは処刑される。南ベトナムは内憂外患こもごも至るという状況に陥っていた。 
 見えない敵と戦うアメリカ軍はジャングルを焼き払うためにナパーム弾を使った。当然、ジャングルの中に点在する村も焼かれてしまう。悲惨な事この上も無い。

 北ベトナムには報道の自由がなく、南ベトナムには世界中の報道陣が集まっていた。ゲリラ戦は南ベトナムで起きていて人々を巻き込んでいるのはベトコンも一緒なのだが、アメリカ軍のナパーム弾の攻撃から逃げまどうベトナム人の姿を捉えた写真や政府に抗議して焼身自殺をする僧侶の写真がピリッツァー賞を受賞する。
 
 日本では『べ平連(ベトナムに平和を市民連合)』なる団体が出来て反戦、反米、反安保、反政府運動を始めた。あの映像を毎日のように見せられていれば、この運動に注目が集まるのは自然の成り行きだった。
 
 私はまだ少年だった。政治的な事はよく解らなかった。ただ朝日新聞やテレビの報道などで進歩的文化人といわれる人達が『ベ平連』の主張に賛同していて、学校でも同じような空気だった。五年後の1970年(昭和45年)には日米安保条約の改定が行われる。時代は70年安保闘争へ走り出していた。

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 当時、分断国家は南北朝鮮と南北ベトナムと東西ドイツだった。冷戦は『東西冷戦』が元々の言い方で、第二次大戦の結果として自由主義陣営と共産主義陣営に分割統治されたドイツに代表されるヨーロッパにおける両陣営の対立を意味していたが、アジアでは南北に分断された国家が出来てそこでは両陣営の代理戦争が行なわれていた。

 ベルリンにあった両陣営の境界に東ドイツ側が壁を作った。その頃私は小学生だったが壁が作られる前に西ベルリンへの逃亡をはかる必死の人々の姿をニュースで見ていた。
 YouTubeにあった映像をここに載せる。

 ケネディ大統領は1963年6月26日、ベルリンの壁の前で演説をした。彼はこの年の11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されてしまう。

 有名なこの演説は "Ich bin ein Berliner" (私は一人のベルリン市民である)とドイツ語で締めくくられている。
 私にはこの演説の内容を十分に理解する能力は無いが、自由主義陣営の旗手であるアメリカ大統領が『自由と民主主義』の先頭に立って戦うと語っているはずである。それは西ベルリン市民の熱狂的な反応を見ればわかる。

 ドイツでは朝鮮半島やベトナムのような戦争は起きなかった。自由主義陣営はNATO(北大西洋条約機構)という集団安全保障の枠組みを作ったからだ。これに対抗してソビエトが作ったのがワルシャワ条約機構で、二つの集団安全保障の陣営が向き合う膠着状態を『冷戦』と言った。

 ところがアジアにはNATOのような安全保障の枠組みが無かった。そこでアメリカは直接軍隊を派遣せざるを得なくなる。背景には放置すればコミンテルンの手先によって次々と共産化されてしまうという『ドミノ理論』があった。
 しかし、アジアにおいては自由主義陣営側にまともな政権が育たなかった。民主主義の基盤が無かったからだ。これはアメリカにとって大きな誤算だったと思う。

 上段のジョンソン大統領と中段のケネディ大統領の演説を比べて欲しい。共産主義との戦いに必ず勝利すると言っていてもいつの間にか形勢が逆転してしまっている。

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 当時は解らなかったが、これはすべてアメリカ自身が蒔いた種なのだ。1973年のアメリカ映画『追憶』の一場面。(字幕付きの動画が削除されたので差し替えました)
 1936年~1939年に起きた『スペイン内戦』に関して、共産主義者青年同盟の会長であるケイティが大学構内で行った演説が描かれている。左派の人民戦線政府と右派のフランコの軍隊との内戦で枢軸国のドイツ・イタリアはフランコ軍を支援、人民戦線側をソビエト連邦が支援し欧米の多くの知識人が義勇軍として人民戦線側で参戦した。有名なヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』もこの義勇軍を題材にしている。この映画はその頃のアメリカ人の心象風景だろうと思う。

 ルーズベルト大統領はソビエト連邦に対して援助を行っていた。第二次大戦の戦後処理を秘密裏に決めたヤルタ会談でも敗戦必死の日本にソビエトの参戦を促している。戦前からコミンテルンが世界中に人民解放戦線を仕掛けていたのをアメリカが知らなかったはずがないのだが、ファシズム打倒という名目の前に肝心の情報が見えなくなってしまったのではないだろうか。あるいは『追憶』のケイティのようなソビエト連邦に対する甘い感傷があったのか結果としてスターリンの野望は世界中に広まってしまった。

 その反動が『共産主義の恐怖』(Red Scare)となりマッカーシーズムとして表面化するのは戦後になってからで、国務省が第二次大戦中に中国共産党軍を支援していたことやこれが後に共産党が国民党を破る遠因となった事も明るみにされている。
 しかし恐怖感が元になっているので行き過ぎてしまい結局はその強引な手法が批判されてマッカーシーは失脚し『赤狩り』は終息するのだが、『共産主義の恐怖』は『冷戦』を支える『ドミノ理論』へと形を変えてゆく。

 ケネディ大統領がベルリンで演説していた頃までは、アメリカは自由主義陣営の旗手でいられたが、ベトナム戦争という泥沼に足をすくわれてしまった。
   
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 小田実は時代の寵児だった。東大出でしかもフルブライト基金で渡米している超エリート。さらに世界中を放浪して若者たちと語りあった体験記『なんでも見てやろう』が大ベストセラーとなっていた。自信満々で常に上から目線でものを言う。そんな印象が残っている。
 ところが、ソビエト連邦が崩壊した時に発掘された文書で、『べ平連』代表の小田実に対してKGB(ソ連国家保安委員会)という名の秘密警察から資金援助や活動援助がされていたことが判明してしまった。
 戦前の日本であれば国家反逆罪で極刑となった『ゾルゲ事件』並みのことなのだが、戦後の平和国家日本では一切のお咎め無しである。
 
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 あの頃はよく解らなかった。アメリカは何故ベトナムまで出かけていって戦争しているのだろう。朝日新聞やテレビや野党がアメリカに協力する日本政府を批判しているのに金権自民党(当時『黒い霧』事件が頻発していて自民党は批判の的だった)はどうして安定多数でいられるのだろう。わからない事だらけだった。

 過ぎてしまえばあれ程の悲惨な戦争も忘れられていく。1975年にベトナム戦争は終わったから46歳以下の人達にとっては生まれる前の出来事になってしまったが、私には昨日のことのように思い出される。それは戦争の直接的な体験ではなくて日本で起きていた事なのだ。

 あの頃わからなかったことも今では少しずつ分かるようになって来た。そんな私が尊敬してやまない理路庵先生のブログ『CEBU ものがたり』のアドレスは
 毎回のブログ更新を首を長くして待っている。 

コメント

  1. 「戦場カメラマン」(朝日文庫)
     報道写真家・石川文洋氏によるベトナム戦争を記録した本です。ベトナム戦争だけではなく、人と人が殺し合う戦争とは何なのかということについて、考えさせられる本です。

     そういえば、ベトナム戦争当時の日本で、小田実の「ベ兵連」が耳目を集めていました。小田実という人物のそこかしこに漂っていた「うさん臭さ」が、真っ先に目についたのを憶えています。

     冷戦時代の東西陣営は当時、激しいつばぜり合いを演じていました。「世界の警察官」を標榜していたアメリカは、社会・共産主義に対峙して自由主義を堅守するという「錦の御旗」を掲げて、ベトナム戦争に踏み込んで行ったのです。

    1975年、南ベトナム陥落。北ベトナム軍が境界線を越えて南に入城してくる風景は今でも目に浮かびます。
    ベトナム戦争とは何だったのか。
    社会主義の勝利というよりは、南でもなければ北でもなく、ベトナム民族の祖国愛、大義の勝利ではなかったのかと、今でも思っています。
     社会主義に与する気はまったくありませんが、アジアの小国ベトナムが、世界の大国アメリカに打ち勝ったことに、複雑に感動します。

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  2. 理路庵先生、コメントありがとうございます。
    昭和40年のピリッツァー賞に日本の沢田という戦場カメラマンの『安全への逃避』という写真が選ばれましたね。あの『七人の孫』でも孫の中の一人が戦場カメラマンとしてベトナムへ行くという話題があったと記憶しています。それほど関心が高かったと思います。

    本当に悲惨な戦争だった。
    アメリカはナパーム弾だけでなく枯葉剤も使用して、ベトちゃん・ドクちゃんという奇形児が生まれてしまいました。
    惨いことをするものです。

    だから『ベ平連』の活動に反対する人はあまりいなかったと思います。それに小田実は「僕は世界を見てきて知っているんだ。」という感じで発言が断定的だった。子供にも人気があったニュースキャスターの田英夫も賛同していたので私は『小田実が正しいのかな』と思っていました。それがよりによってKGBとつるんでいたとは本当にとんでもない野郎です。そんな奴でさえ死ぬまで言いたい放題言っていたのですから日本はどうかしています。



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