小さい秋みつけた

  いつの間にか中学生の頃の話題に話が進んでしまったが、肝心な事を書き忘れていた事に気がついた。今回は話をもう一度昭和30年代に戻して菊池君との別離から出直したい。

 菊池君と別れてから私は一人になる事が多くなった。彼を頼っていた私はこれからは一人だと自分に言い聞かせていた。放課後家に帰るとすぐに公民館に出かけた。図書室で自分が少しずつ大人になっていく静かな時間を感じていた。

 そんな時に国木田独歩の『武蔵野』に出会った。私も良く知っている武蔵野の風景が綴られている。読んでいて独歩が歩く道筋や雑木林や畑の風景が目に浮かぶようだった。私は休みの日になると恋ヶ窪あたりまで遠征してそこから南に下って国分寺崖線の崖下のハケの道まで一日かけて歩いたりした。

 中でも好きな場所があった。小さなころ隣の増村さんの双子のお兄さん達に昆虫採集に連れて行ってもらったことがある国分寺の内藤という地域にあった雑木林だった。こうした雑木林は自然林ではなくて農家の営みに必要な堆肥や燃料の補給と防風林を兼ねていた。江戸時代から農家の人が大切に手を入れて守ってきた林だ。幅一間ほどの踏み固められた綺麗な一本道が続いていて左右に広がる林は芝刈りがされていた。

 そこは外界と遮断された別世界だった。私は独歩やツルゲーネフやベートーヴェンや文豪ゲーテが思索しながら散歩したであろう姿を想像しながら自分も同じように孤独を愛する人間になりたいと願って歩いていた。

 ある時、木の幹にとまっているカミキリ虫を見つけた。体長は5センチ程で長い二本の触手が伸びている。体全体は鮮やかな緑色で光線の加減で美しく七色に輝いていた。

 私はそっと手を伸ばした。私はすばしこい人間では無いので捕まえる自信はなかったが、カミキリ虫はじっとして逃げなかった。捕まえてみると6本の脚に付いているギザギザで幹にしがみついて抵抗している。私は脚が取れてしまわないように用心しながら優しく幹から引きはがした。

 その僅かな時間、美しい虫を捕まえる興奮と用心深く細心注意を払って一大事業を成し遂げた達成感で私の心は震えた。甲殻昆虫のカブト虫やクワガタはお馴染みだったがこんな綺麗なカミキリ虫は初めてだった。まるで宝物のように両手の掌に包んで持ち帰ることにしたが、両親は許してくれそうもない。カブト虫やクワガタも許してくれなかったからだ。

 国立まで戻って来ると山口君の家に向かった。山口君は昆虫が大好きで菊池君と一緒に山口君の飼っているカブト虫やクワガタを見せてもらったことがあったからだ。『わぁ珍しいね!』と山口君は大喜びだった。

 山口君が『どこで見つけたの』と何度も聞くので私は根負けして秘密の雑木林のことを話した。そして翌週、二人で雑木林まで出かけた。すると今度は山口君が『泉が湧く場所があるから行こう』と言う。今度は二人で泉まで出かけることにした。

 それは多摩川に近い国立でも谷保と呼ばれていた地域にあった。国立は南北に長い卵のような形をした町で南端には多摩川が流れていた。私達の暮らしていた住宅地は南武線を過ぎると畑に変わり谷保と呼ばれる地域になる。さらに甲州街道を渡ると多摩川段丘にさしかかる。ここは切通しの坂道になっていて下り降りると田圃が多摩川の土手まで広がっていた。

 多摩川の土手間際には新しく清掃工場が作られていた。これは東京オリンピックに海外から沢山のお客様がくるので東京をあげて街の美化に取り組もうという美化運動の一端だった。清掃工場が出来る前は『生ごみ』をリヤカーで回収していた。男の人がリヤカーを引いているとバケツに入った『生ごみ』を主婦たちが投げ入れて行く。リヤカーからは臭い水が道路に垂れ流されていた。これでは後進国だと欧米のように蓋付きのポリバケツに『生ごみ』を入れて清掃車が回収する方式になったのだった。その後このポリバケツも不衛生だとビニール袋に入れて出すように変わっていく。

 話が横道にそれたが、清掃工場には市民プールが併設されていた。国立の小学校にはプールが無かったので、国立駅から路線バスに乗って市民プールまで出かけて行き体育の授業をするのが夏休み前の恒例だった。小学校も4年生ぐらいになると夏休みに自転車で出かけては一日中プールで遊んでいたが近くに泉があるとは知らなかった。

 山口君は市民プールへ向かう道を外れ、田圃のあぜ道を梨畑の方に向かって走って行く。梨畑をぐるりと回り込むと崖の直下に突き当たる。崖の高さは20メートルぐらいあったが、梨畑と崖の間に広さ十畳ほどの浅瀬があり底の砂地のあちこちから清水が湧き出していた。そこは野川の源流だった。ここは外界から遮断された僕たち二人だけの世界だった。しかも梨畑は侵入防止用の柵で覆われていたが泉側からは出入りが自由だった。

 泉の深さは子供の膝下ぐらいで砂地は柔らかくあちこちから湧き出す清水で足の裏を心地良く刺激してくれる。仰向けになっても溺れないし、時々イモリが泳いでいたりする。山口君と梨を食べながら何時間も遊んだ。崖の上から時々奇声が聞こえたがそこは(注)『滝乃川学園』だったからだ。何十年も経ってから谷保地区へ行くことがあり現地を訪ねたことがある。小さな木製の看板が建っていて昔ここに泉が湧いていたと記されていた。あの泉は私の記憶の中にしか存在しなくなってしまっていた。

(注)明治30年、日本初の知的障害児の教育を始める。大正九年に学園火災、園児6名死亡学園閉鎖を決めるが、貞明皇后より学園の事業存続の内旨あり、継続。平成4年には天皇陛下、皇后陛下行幸啓。/Wikipediaより

・・・

 孤独を愛する少年になろうとした私だったが、いつの間にか山口君と遊び歩く普通の子供に戻っていた。山口君はとても活発な少年で運動が得意だった。

 中央線の国立駅から南武線の谷保駅まで真っ直ぐ伸びる『大学通り』を往復すると約4㎞と言われていた。国立駅前ロータリーにある時計で時間を測って何分で走れるか駆けっこをして、その時間の十倍がマラソンの記録だからあと何分縮めればアベべに追いつけるなどと想像を膨らませて毎日のように一緒に走った。

 こんなこともあった。日曜日の朝に水筒とお弁当を持って自転車で青梅に向かって出発。甲州街道に出て日野橋に向けて左折する交差点を直進、奥多摩街道に入り青梅を目指す。立川、昭島、拝島、羽村、小作、河辺と緩やかな登り坂を何時間もかかって青梅に到着。鉄道公園で遊び、帰りに多摩川へ降りて遊んでいると土手に胡桃の木が何本もあって青い実が生っている。二人でリュック一杯に拾ってきて河原の石で青い実を叩いて種を出そうとしたが、渋が強くて上手くいかない。そうだ、実が熟せば種は簡単に取れるに違いない。河原に穴を掘り胡桃を全部入れて目印に大きな石を二人で転がして蓋をした。あと二週間もしたら簡単に種が採れるだろう。

 二週間後、また何時間もかけて青梅へ行く。心を躍らせて多摩川の河原に降りてみると風景は一変していて目印の石どころか増水して河川敷が非常に狭くなっていた。落胆して国立まで戻ったのだが、帰りは坂道を下る一方なのでペダルも軽く『わぁーわぁー』騒ぎながら元気に帰って来た。

 冒険はまだまだ続く、立川を流れる『緑川』はコンクリートの護岸で都内を流れる『神田川』のような景観の川だった。中央線と交差するのは国立と立川の境界付近で短い鉄橋があった。コンクリートの護岸の上は1メートル程の空き地になっていて立入禁止だったが、山口君と二人でこっそり潜り込むと線路の真下に二人で座った。枕木に手をかけて頭を出して見ると遠くから電車が迫って来る。あわてて頭を引っ込めてじっとしていると電車の振動がレールを伝わって段々大きくなってくる。そして猛烈な風とともに轟音と振動が頭の真上を通過していく。その瞬間、耳を塞いで頭を抱えるようにして電車の通り過ぎるのを待っていた。電車が通り過ぎると二人で大笑いをした。ジェットコースターの何倍もの興奮があった。面白過ぎる。山口君が家から五寸釘を持って来てレールに置いてみた。するとぺったんこに押し潰されて手裏剣になった。当時は、『隠密剣士』という子供向けの時代劇が大流行りで忍者ブームが起きていたのだ。

 しかし、この遊びの最後は惨めなものだった。ある時、中央本線の特急が通過した。その時、冷たい霧が降り注いだ。当時の列車のトイレは外に垂れ流していたのだ。列車のスピードで水滴は霧となって線路に降り注ぐ。私達が浴びたのは尿なのか便なのか分からなかったが人間の排泄物に違いなかった。慌てて家に帰って風呂場に直行する羽目になった。

 小学校の階段には途中で折り返す『踊り場』という場所があり、広さは6畳ほどだったと思う。『踊り場』は私と山口君のリングだった。当時のプロレスはジャイアント馬場の時代で敵役はデストロイヤー。馬場の得意技は力道山ゆずりの『空手チョップ』と大きな足で正面から蹴る『十六文キック』でデストロイヤーは『四の字固め』。

 私がジャイアント馬場で『空手チョップ』や『十六文』キックをスローモーションのようにゆっくりと繰り出すとデストロイヤーの山口君は『ヘルプ』と膝をついて拝むまねをする。そして隙を見て私の足を取り『四の字固め』をかけてくる。これは胡坐(あぐら)をかいた二人の足が絡みあっている状態なのだが、テレビで見るほどの痛みは無いのだ。しかしお約束どおり痛がってみせるのだが、反撃は体を反転させてうつ伏せになることで、今度は山口君が痛がるまねをする。そうして互いに『うぇ~』『おりゃ~』などと奇声をあげながら仰向けになったりうつ伏せになったりを繰り返していた。

 こんな馬鹿げた遊びに夢中になれるのも山口君と一緒にいるだけで楽しいからだった。山口君とは何でも話が出来たが、和代ちゃんのことは話さなかった。昭和30年代の小学生には好きな女の子の話は恥ずかしくて出来なかったのだ。それでも山口君は何となく察してくれた。

 仲の良い友達で隣り町の国分寺市にある史跡『武蔵国分寺跡』に行こうと山口君が言い出した。そして和代ちゃんもその仲間に入ってくれたのだった。広大な敷地に史跡が点在しているのだが、創建当時はその何十倍もの広さだったという。天平の昔を偲ぶはずが、みんなで追いかけっこをして遊んだだけだった。しかも和代ちゃんはマーブルチョコレートを持っていて私が捕まえる度に一粒くれたので夢中で追いかけていた。

 あの頃は日直とか週番という役目があって、特に冬になると達磨ストーブの管理をするため、運動場に全校生徒が集まって校長先生のお話を聞く『朝礼』の時も教室に残ってストーブの見張り番をしていた。このお役目は男女一組で下校時間まで務めることになっていた。私は和代ちゃんと一緒になることが偶然にも多くて胸がドキドキしたのを憶えている。

 下校時にはスメタナの交響詩『モルダウ』が校舎の拡声器から放送された。『モルダウ』が流れると達磨ストーブから石炭を取り出して用務員のおじさんの所へ持って行き火の始末をしてもらうのが仕事だった。それから和代ちゃんと一緒に下校する。夢のような時間だった。

 昼休みも皆が校庭に遊びに出てしまった後、日直の二人は教室に残って、拡声器から流れてくる『小さい秋みつけた』を聴いていた。大音量で音楽を流していたのだから近所の住民には迷惑だったかも知れないが、当時は目くじらを立てる人もいなかった。良い時代だったのだろう。

・・・

 何の脈絡もなく子供の頃が蘇ってくる。孤独に憧れた頃のこと。綺麗だったカミキリ虫。疲れを知らず遊びまくった日々。山口君の笑顔。和代ちゃんのマーブルチョコレートとボニージャックスの『小さい秋みつけた』。

 まだまだたくさんある。

 馬跳び、馬のりと毛糸のパンツでチクチクした首、縄跳び、はないちもんめ、とおりゃんせ、サザエさん遊び、めんこ、ビー玉、べーごま、缶蹴りと爆竹遊び、かくれんぼ、かごめかごめ、ずいずいずっころばし、すすきの原っぱに作った秘密基地、放課後のドッジボール、駄菓子屋のおばあちゃん、足の悪い時計屋さんのプラモデル、ゴム動力の模型飛行機、エンジン付きのUコン飛行機、凧揚げ、スーパーボール、粘土細工のおじさん、屋根の上の花火見物、お風呂の湯舟で冷やしたスイカ、蚊帳と蛍、バスの中の授乳、乳バンド、西六郷合少年少女唱団、みんなの歌、時間よ止まれ、魔法の絨毯、危険信号、ケペル先生、ディズニー映画とディズニーアワー、ローンレンジャーとウィリアムテル序曲、ババ抜きと神経衰弱、コロボックルと見えないものの気配、ゴジラの恐怖とおねしょ、栗の木に登った猫、風の又三郎と路地裏の突風、大きな肥溜め、画家の知恵遅れの息子と夏休みの工作、進まない夏休みの宿題と邪魔をする狼少年ケンの放送、新日本紀行と冨田勲、ニュースキャスター田英夫、国会議事堂見学とライシャワー駐日大使、立川温泉と船橋ヘルスセンター、江の島海水浴、ロマンスカーと自由が丘遊園地、狭山湖と小河内ダムと水不足と国立の地下水、鉄道技術研究所のジオラマ、小林少年と少年探偵団、近所のおばあちゃんと気のふれた娘、公民館の幻燈映写会、國本さんの垣根の上の青大将、農林省の足助さんの書道と掛け軸、親戚の秋田犬、おばあちゃんとおじいちゃんの金婚式・・・・

 どれもこれも懐かしい思い出とともにある出来事だ。善き友と慈愛に満ちた近所の人々との交流、全身全霊で遊んだ日々。どれもこれも愛おしく思い出される。

 それでも時々は一人になりたいと思うことがあった。そんな時は公民館の図書室へ出かけるか内藤の雑木林に行った。そして知的だった菊池君のことを思い出していた。彼のようになるにはどうしたら良いのだろう。

・・・・・

 あれから何十年も経ってしまった。遂に菊池君のようにはなれなかった。それでも私なりに一生懸命生きて来た。悔いなぞ微塵も無いが、今もなお菊池君のような人物への憧れは続いている。

 そんな私があの公民館の図書室の代わりに訪ねていくのが、

 理路庵先生のブログ

『CEBU ものがたり』

https://ba3ja1c2.blogspot.com/

 人生の愉しみ方を知っている稀有な人がここにいる。

 


コメント

  1. ふだん、ぼ~としているときに、急に、思い出す人がいます。夢に出てきたりすることもあります。別にこれといって、深いつき合いをしたわけでもないのに、縁のうすい人が頭に浮かんできたりします。移住してからとくに、この傾向が強くなってきた感じがします。
    「忘れえぬ人々」(「国木田独歩」)
    最後の描写で、同じようなことが書いてありましたね。

    さて、よく思うことですが、トッポジージョさんは、「菊池君」といい「山口君」といい、本当にいい友達にめぐまれていましたね。
    残念ながら私の子供のころは、ふたりに勝るような友人はいませんでした。そのせいか、子供のころの、そうした「空白の時間」を残したまま、中年から高年になってしまったのかも知れません。
    「空白の時間」を埋めなくてはいけないな、という一種の切迫した気持ちが、移住を後押しした一因になったとも言えるかも知れません。

    日本で最長の時間を過ごした地は、青梅市の東青梅です。鉄道公園、河辺駅、小作駅、昭島駅ーーー。日本を離れてまだそれほど時間は経っていないのに、なつかしさが一気にこみあげてきました。

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  2. 理路庵先生、コメントありがとうございます。
    先生の心の琴線に少しでも触れられたなら望外の喜びです。

     菊池君はいつも私の前を歩いていて、私はいつも菊池君を追いかけていました。仲があんなに良かったのにどこか他人行儀なところがあって、馴れ馴れしいことを嫌うような子でした。一方で山口君は陽気で元気でなんでも共有できる兄弟のような友達。まさに親友でした。
     それなのに私は時々一人になりたかった。菊池君との付かず離れずの関係が懐かしくて仕方がなかった。今思うと贅沢な話です。
      

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