真鶴半島

 小学2年生か3年生の夏に一家で真鶴半島へ行った。父が買った自家用車で出かけたのだ。その頃の父は釣り道楽にはまっていて自家用車もそのために無理して買ったのだろう。

 叔父はお金持ちの養子になったので羽振りが良くプリンスグロリアに乗っていた。プリンス自動車は、立川基地の北側に広大な村山工場があり荻窪にも工場がある東京の会社。皇室御用達のメーカーで社名も映えあるプリンス。それが後に神奈川のトラックメーカー日産に吸収合併された時は社員の反対運動が起きたくらいプライドが高かった。叔父は皇太子(現上皇)様も乗っていると自慢していたが、外車のような車でタイヤの側面が白い『ホワイトリボンタイヤ』を履いている。一目で高級車と分かる車だった。

 母方の叔父は大手建設会社の社長付の運転手でキャデラックを運転していた。私はどっちの車にも乗りたくて仕方がなかったが、そんなそぶりを見せようものなら父に厳しく嗜められた。『卑しいまねはするな』と父は言ったが、多分プライドが許さなかったのだろう。

 父が無理して自家用車を買った時、母と一悶着あったのを朧げながら覚えている。そうとう無理をしたはずだ。我が家に来た車はコンテッサ。日野自動車がフランスのプジョーの技術供与で作った車で5人乗り叔父たちの車に比べたら遥かに見劣りがするけれど時速は70㌔も出た。これは私を乗せて芋窪街道を走る時に『パトカーが来ないか後ろをよく見ておけ』と言って父がアクセルを全開にした時に確認しているので間違いない。私の記憶では芋窪街道は舗装したばかりでパトカーどころか車は一台も走っていなかった。

 父は休みになると一人で車に乗って出かけて行き釣果を持って帰って来た。ある時は大きな伊勢海老を持って帰り、何時間もかかったと武勇伝を得意になって話した。余程嬉しかったのだろう、殻を綺麗に洗って綿を詰めて床の間に飾って置いた。来る人来る人に自慢していたが、私に足助さんをわざわざ呼びにいかせてビールをご馳走して自慢話を聞いてもらったこともある。父は上機嫌だったがその内に伊勢海老の殻は臭くなってしまい母は『臭い臭い』と文句を言い出した。

 ある時、私は伊勢海老の長いヒゲを折ってしまった。父は激怒して『誰がやった!』と大騒ぎになったが、母も姉もそして当の私も怖くて『知らない』と返事をした。父に問い詰められたらすぐに白状しただろう。ところが父は母を疑っていて『自然に折れる訳が無い、はたきでほこりを叩いたのだろう。』と悔しがった。普段厳格な父が幼子のように駄々をこねているように見えた。私は生まれて初めて父を客観的に見たと思う。あの時、私は父の感情の昂りを理解できるような気がしたのだ。

 散々文句を言った父が接着剤を買いに出かけると母は笑い転げていた。随分我慢していた母の溜飲が下がった瞬間だった。私は笑わぬように我慢した。私が犯人だったし、父の沽券を守ってあげたかったからだ。(父想いの良い子だったなと思う)

 結局、伊勢海老のヒゲはくっつけることが出来ずに捨てられた。

 わがままな父も家族サービスが必要だと思ったのだろう。一家で真鶴半島へ行く事になった。真鶴半島は父が何度も釣りに出かけたところなのだ。

 昭和35~36年頃はまだ高速道路も無いので、国立から伊豆の真鶴半島まで出かけるとなると前の晩に出発しなくてはならない。おにぎりやお稲荷さんや干瓢巻きにお煎餅にとまるで遠足に行くような支度をしたが、鮮明に覚えているのは魔法瓶に氷を詰めて『渡辺のジュースの素』(粉末)を振りかけて持って行ったことだ。どこの家にも氷はあった。電気冷蔵庫はまだ一般家庭には普及していなかったので、一貫目の氷を上の段に入れて庫内を冷やす冷蔵庫だったし、風邪で熱が出ると氷嚢を吊るして冷やすのが当たり前だったので、一貫目の氷は製氷屋さんで一年中売っていた。

 当時は硝子式魔法瓶を使っていた。魔法瓶の原理は真空では熱伝道が起きないことを利用した容器で内側の中瓶は真空の二重構造になっている。今は中瓶はステンレス製だがあの頃は硝子だった。だから固い物や強い衝撃には弱く、ガラスの中瓶はよく割れた。

 一貫目の氷を細かく砕いて用心して入れる。母が『そっと入れる、そぉっとよ』と耳元で言っている。母は何度も魔法瓶のガラスを割ったので自分ではやらなかった。そこへエノケンのテレビコマーシャルで流行った粉末の『渡辺のオレンジジュースの素』を注ぎ入れた。姉が魔法瓶を毛布に包んで大事に抱えこむ。大袈裟と思うかも知れないがその位割れやすいものだった。

 出かける前に戸締りを確認してバルサン(燻煙式防虫剤)を焚く。白い煙が勢いよく天井まで上がるのを見て出発だ。

 あの頃、我が家では猫を飼っていたがバルサンを焚いた時にどうしたのか思い出せない。出かけるのに夢中で猫の事を忘れていたのかも知れない。それでも猫はその後何年も生きたからバルサンを焚いた時に自主的に避難したのだろう。今思えばひどい飼い主だ。

 夜出発した車はひたすら真鶴半島を目指す、東京を離れるとでこぼこ道で所々に大きな穴があってその度に激しく上下に飛び跳ねる。当時はシートベルトが無いベンチシートなので体を固定することが出来ず大変だった。姉と歌を歌ったりお煎餅を食べたり大騒ぎだったが、当時の小学生低学年は夜8時には寝ていたのでどんなに興奮しても起きてはいられず、いつの間にか寝ていた。

 朝、姉に起こされるともう真鶴だった。車は崖に沿った道を下って岩畳の磯に近い坂道に停まっていた。母は運転席側のベンチシートで寝ている。姉と一緒に磯に行ってみると父が釣りをしていた。フグばかりが釣れると一尾指で摘まんで見せてくれる。フグは怒ってお腹を大きく膨らませていた。姉とフグのお腹が膨らむように遊んでいたら姉の手の平をフグが噛んだ。父は大慌てでフグを取ってくれたが『生き物で遊んではいけない』とたしなめられた。磯には潮だまりがたくさんあって色んな小魚が泳いでいる。小さな海老や蟹、磯巾着もいて姉と一緒に遊んでいた。

 向こうに海亀がいると父が言うので行ってみると磯の中に池が作ってあって海亀が何匹か泳いでいる。生まれて初めて見る海亀はとても大きかった。それにしても水族館でもないのに誰もいない磯で海亀を飼っているのが不思議だった。

 しばらく眺めて父の所へ戻ってみるとカサゴが釣れていた。カサゴは横びれが扇子のように広がる異様な魚だった。ゲテモノのような風貌なので姉が思わず『食べられるの?』と言うと『顔に似合わず美味しいんだよ』と得意げに言った父の顔を思い出す。

・・・

 それから何十年も経って、山形から上京した妻の両親を車に乗せて伊東の温泉に出かけた時に真鶴半島に寄って昼食をとった。

 海の見える崖の上の店だったので店員に『確かこの崖の下の磯に海亀がいたよね。』と話しかけると『かなり前に台風で海亀が逃げてしまってそれきりです。』と素っ気ない返事が返ってきた。私は海が見えるガラス窓越しに崖下の磯を見たが、記憶に残っている磯とは違うような気がして、あの幸福な時間は私の記憶の中だけになったのだと思った。

 国立の谷保にあった泉も枯れて今はその面影すらない。形あるものはいずれ消える運命にあるのだ。そしてあの輝くような夏の思い出もいつの日か私の魂とともにあの世に旅立つのだろう。

 『方丈記』の冒頭部分を朗読で聞く。

 『諸行無常』といい『生々流転』という。神羅万象すべてとどまることは無いが、『生々流転』には六道転生の教えが隠されている。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上界に転生して六つの苦しみを巡るとか。この苦しみから逃れるためには、苦しみの元となる『一切の執着(煩悩)を手放せ』と仏教はいう。

 この教えに従えば、私は懐かしい幸福な記憶という執着(煩悩)を手放せない『我利我利亡者』なのかも知れないと吾が身の至らなさに頭を垂れていた。

『方丈記』の終章を聴く

 

鴨長明も詰まる所自戒の念で念仏を唱えて筆を置いているではないか。トッポジージョが頭を垂れてしまうのも無理からぬ事だと自分に言い聞かせていた。

 ところが、般若心経の『色即是空 空即是色』にある『空』もその意味なのだと思っていたら道元禅師の唯識思想では違うらしい。ものを見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触る)という体験こそが真の実在(空)であると考えるのが唯識思想で、千変万化する客体たる事象(色)だけでは実在を捉えたことにはならないという。その伝でいけば私の魂は実在を見ているのかも知れないなどと生半可な知識で安堵したりしている。

 まあ私の知的レベルはこの程度なので、深い思いに沈潜することに憧れはあっても到底実践出来ない。

 だからこそ理路庵先生のブログを見にいくのだが、理路庵先生と同じように猛烈な読書人を見つけた。

『松岡正剛の千夜千冊』https://1000ya.isis.ne.jp/top/

恐れ入ってしまった。

・・・・

私が勧める理路庵先生のブログは

『CEBU ものがたり』

https://ba3ja1c2.blogspot.com/

とても興味深いブログで更新されるのをいつも待っている。





 

 

コメント

  1. 去る4月に天上の人となった立花隆さんの凄まじいまでの読書量、知識量、行動力は世をして「知の巨人」と言わしめました。松岡正剛さんも「知の巨人」のひとりに数えられるでしょう。
    なんとなく薄っぺらに見える日本人が、あれよあれよという間に、増えてきつつあるこのご時世に、両氏やその後継者たちが遺し遺すであろう知の財産を思う時、日本はまだまだ大丈夫だなと思わずにはいられません。

    どうも、私は、宗教というものが、食わず嫌いなのか、肌に合わないのか、信じることができません。いくつかの教義を読んだりしたこともかつてはありましたが、まったくといっていいほど理解できませんでした。今となっては、読んだ内容をすべて忘れてしまっています。

    たとえば、ここに、鉛筆が一本ある。全知覚をもって、一本の鉛筆として認識している。これが私にとっては全てです。目の前の実相が全てです。
    心の投影の仕方によって、ある人には無になるのかもしれませんが、少なくとも私の場合には起こり得ません。

    少年時代に見た真鶴半島の磯にいた海亀は数十年後に再訪した時には姿を消していた。あの時の海亀は、果たして、実相だったのか幻相だったのか。
    国立の谷保の泉も夏の思い出も、いずれは消えてしまう。
    こうした考え方はやはり私たち日本人に特有のものかもしれませんね。
    「方丈記」を実に久しぶりに読みました。しみじみと胸に沁みこんできます。

    「渡辺のジュースの素」なつかしい。よく、飲みました、私も。






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  2. 理路庵先生、コメントありがとうございます。
    気まぐれな父が珍しく家族サービスをしてくれた思い出です。
    海亀は長生きするのでまだ生きていたら崖を下って見に行くつもりでした。
    そんな中途半端なロマンチスト気取りが父親譲りなのだと改めて思います。
    父はリアリストの足助さんを尊敬していました。
    何かというと足助さんの意見を求めては、『いやぁ、厳しいな』と嬉しそうに足助さんの話を聞いていました。
    理路庵先生のコメントを読んで、ああ先生もリアリストなんだと気付いた次第です。
    だから先生のコメントを求めてしまう。
    父親と同じ事をしている自分を発見した心地がします。
    森繫久彌が言った『人の心は変わらない~』ですね。


    今日のニュースで外務省が在外邦人のワクチン接種の対処方針を決めたと言っています。外務省のホームページを確認してみて下さい。
    くれぐれもご自愛ください。

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  3. お気遣いをありがとうございます。

    以前にもお伝えしたかと思いますが、トッポジージョさんのブログを、印刷するなりして保存しておいたらいかがでしょうか。

    数年先に読み返してみて、ご自分が生きてこられた時間の軌跡を感じ取ることができますから。余計なお世話ですがね。これだけの材料が組み込まれているブログは、そうそうあるものではありません。

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  4. 御助言ありがとうございます。
    少しづつワードにコピーしています。
    初めからそうしておけば良かったと後悔するぐらい大変ですが、残す作業も同時に進めていきます。

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