日本人の自負

 彫刻家の大黒貴之という人のブログ

【小津安二郎のお早う】60年前の予言 |もはや挨拶は無駄なもの?

https://k-daikoku.net/eiga-ohayo/

に以下の文章があった。

<引用>

美味しい食、素晴らしい伝統、文化、時間通りにやってくる交通機関に宅配サービスなど、日本は戦争もなく物質的には何でもあるのに、なにか心が満たされないと感じることがあるのもまた確かです。

映画「お早よう」を見ると、もはや挨拶ですら無駄なものになるかもしれないと小津安二郎監督は60年前に予言していたかのようです。

ぼくだけが感じている錯覚なのでしょうか。

それとも「心の余白」がキュウキュウとしているからなのでしょうか。

<引用終わり>

話題の場面がYouTubeにあったので見て欲しい。

 昭和34年の映画。皇太子(現上皇)殿下のご成婚を機にTVが爆発的に普及した年に作られた。
 隣の家にTVを見に行こうとする兄弟を母親が咎めると子供はTVを欲しがるが、父親はそんな無駄なものはいらないとはね付ける。子供は挨拶だって無駄じゃないかと屁理屈を言う場面。
 当時、私はここに出ている弟ぐらいの年齢だった。老け役の多い笠智衆が実年齢に近い父親役で母親役が三宅邦子。三宅邦子の割烹着姿がとても懐かしい映像だが、これもOctophetusというネームの外国人がUPしてくれた貴重な映像で松竹からクレームが出れば消される可能性があるので今の内によく観て欲しい。当時の一般家庭の暮らしぶりがうかがえる。

 兄弟が『だったら買ってくれよ』と言っている座敷には『おひつ』が置いてある。羽釜で行う炊飯は一仕事だったので、我が家では早朝に米を炊いていた。朝ご飯を炊いたら『おひつ』に入れて昼食も晩も『おひつ』からご飯を盛る。杉板が湿度を一定に保ってくれるのだ。そして真冬になるとこの『おひつ』を藁(わら)を編んで作られた『いずみ』に入れて炬燵の中にしまっておいた。
 照明は電球で曇りガラスの傘をかぶっている。天井から吊り下げられた布巻電線には黒いソケットが付いている。このソケットには回転式のスイッチが付いていた。今のパナソニックは松下幸之助がこのソケットを二股にして電球以外にも使えるようにした発明品がその始まりだ。スタジオ撮影なので明るく撮れているが、現実は電球の明かりは部屋の隅々には届かずもう少し暗かった。
 食卓は丸い『ちゃぶ台』だ。脚が折りたたみ式で食事が済んだら折りたたんで箪笥などの家具の隙間に入れておいた。
 『おひつ』の反対側には『火鉢』があって味噌汁が入った鍋がかかっている。多分、この『火鉢』は『練炭火鉢』で練炭(石炭の粉を蓮の形状に成型したもの)が入った『七輪』(珪藻土で作った炉)が中に収まっている。だから普通の火鉢よりも大きいし、火力が強いので煮炊きも出来た。朝起きると火鉢から七輪を取り出して物置小屋の脇に練炭の燃えカスを捨てるのが私の役割だった。燃えカスは薄い橙色をしていたのでそこだけ土の色が違っていたのを覚えている。
 ごはんに味噌汁、主菜は煮物か干物で副菜は香の物(漬物)というのが一般的な夕餉だったと思う。
 
・・・
 さて大黒さんが言うように日常の『挨拶』は確かに減っているような気がする。それがこの少年の言うように無駄だからかどうかは分からない。ただ心の余白は減っている実感はあって、振り返れば昭和30年代の頃は時間がゆっくりと流れていたような気がするがそれは私が子供だったからかも知れない。
 というのも昭和34年に作られた貴重な映像を見つけたからだ。YouTubeの説明は以下のとおりで、ボカシ加工がされているので見づらい部分もあるが戦後13年の歩みと日本人が当時何を想っていたのかがよく描かれている。あの頃の大人は大変だったのだと改めて再認識した次第だ。

東京ニュース No.100「東京のあゆみ ―あれから13年ー」(昭和34年(1959年)

企画:東京都、制作:東京都映画協会

映像提供:公益財団法人東京都歴史文化財団東京都江戸東京博物館

この映像は、昭和34年(1959年)に制作された「東京ニュース  No.100 東京のあゆみ ―あれから13年ー」のフィルムをデジタル化したもので、オリジナルフィルムの劣化やデジタル化の際に映像・音声にノイズ等が生じている部分があるほか、BGMについてはフリー素材に変更している部分があります。
また、東京動画に掲載するにあたり、権利関係に配慮し、編集や加工処理等を行っている部分があります。
字幕については、オリジナルのナレーション等をもとに作成していますが、異なる部分もあります。
なお、ナレーション及び字幕の中に、現代では不適切と思われる表現が含まれていることがあります。
これらの点について、あらかじめご了承いただきますよう、お願いいたします。

 なんとまあ誰に気兼ねしたのか、60年以上昔の映像から個人の顔が判別出来ないように見事にボカシを入れているので所どころ見にくいといったら無いのだが、こんな加工をしなければならない事が今の日本の有り様を表現しているという皮肉。 
 さて、どこにも説明はないのだが、ナレーションはNHKの宮田輝アナウンサーのような気がする。私の親と同世代で『のど自慢』の司会者、『おばんでございます』という挨拶で有名だった。(余談が長くて申し訳ない)

 冒頭から8分間は戦後の悲惨な状況の説明が続く、ペギー葉山は東中野に住んでいて自宅から新宿の伊勢丹が見えたとか落語家の三遊亭歌奴(後の円家)も新大久保の駅から伊勢丹が見えたと言っていたのを当時の思い出話として聞いたことがあるが、百聞は一見にしかずで、この映像を見てつくづく何もかもが焼かれてしまって『焦土』と化した東京の悲惨さが胸に迫る。
 私の記憶は日常生活が回復してからなので、ここに至る戦後の苦難を僅かしか知らない。だからこの映画を観てあの状況からよくぞ立ち上がることが出来たものだとつくづく感心した。

 12分には長野という高校生が次のように語る。
『私は日本学生を代表して全米科学博覧会に参加するためにアメリカに参りました。わずかな時間ではございましたけれども、アメリカの教育について見学して参りました。日本は戦争に負けましたけれども、私たちの能力というものは、どの国よりもむしろ優れていると感じました。』
 この感想を聞いて『少年ケニヤ』という子供向けTVドラマを思い出した。主役の山川ワタルは世界の秀才を集めた頭脳大会で優勝する優秀な子という設定だった。私達の親もそうだったが、日本人は優秀な民族だという誇りは事の真偽はともかく心の底にしっかり持っていたと思う。
 この後は、戦後13年という短期間にここまで来たという希望に満ちた映像が続いていく。そこには戦後の『日本建設』を疑う機運はどこにもない。この映画の締めくくりは首都圏の建設は道半ばでその困難に立ち向かうには900万都民の共同の力が必要だと訴えている。
 前にも書いたが、昭和45年(1970年)の大阪万博まではこうした機運が曲がりなりにも続いていたと思う。
 
 余談だが、この映画の数年後に私は小学校の夏の行事『林間学校』で奥多摩の日原小学校に一泊した。青梅線で奥多摩駅まで行き、そこから西東京バスに乗って小河内ダムまで行き見学、日原の鍾乳洞を探索して、その晩は日原小学校の教室に泊るという体験学習だった。
 完成間もない小河内ダムにあった慰霊碑にはダム工事で亡くなった87名の犠牲者の名前が刻まれていた。大正時代から続いた難工事の末にようやく完成したダムだったが、昭和36年から渇水が続き、昭和39年の夏には遂にダムの底がつき給水制限50%という異常事態になった。不思議な事にダムの水源地に雨が降らないので、雨乞いをしたりヨウ化銀を空中散布して人工降雨を試したりするニュースを連日テレビで見ていた。幸いにも国立の水道局は奥多摩の伏流水を汲み上げていて都心に毎日3万トンを送水していた程なので水不足の経験をしなくて済んだのだが、子供心に「87人も犠牲者を出して作ったダムなのに湖底が干上がるなんて」と憤ったものだ。

 戦争を実際に戦った親の世代が全て同じ考えだとは言わないが、私の父が言っていたのは『日本は連合国に負けたことになっているが、実際に負けた相手はアメリカだけだ。負けたといっても日本の50倍も工業力のあるアメリカと正面から堂々と戦った自負は無くしてはならない。』ということだった。父は天袋にしまった革の鞄に極東軍事裁判の判決を伝える朝日新聞を大切に保管していた。『勝てば官軍』と全てを受け入れた日本人。それは理不尽であっても抗うことを潔しとしない日本人の精神だと父は言っていた。その根底にはあの映画にあった長野という女子高生の自負があったと思う。そうでなければあの焦土と化した国土を蘇らせることなど出来ようはずもない。

 笠智衆のお父さんの『男の子は余計な事をしゃべるんじゃない。少し黙って居ろ』という言葉は黙って戦後を耐えてきた世代だから言えるのかも知れない。

 『東京ニュース』の4年後、アメリカで製作された日本のドキュメントがあった。
エンサイクロペディア・ブリタニカ・フィルム製作
『Japan : Miracle In Asia(1963)』
 昭和38年は私が小学5年生の頃で、池田首相の『所得倍増計画』の真っ最中だった。
 日本の高度成長を奇跡と評価するアメリカ映画。難点は、ホワイトカラーの夫が風呂に入ると奥さんが背中を流す場面でそんな家庭はどこにも無かったと思うが、それ以外は当時のありのままの日本で良く出来た映画だと思う。
 この映画は『日本はアジアと世界に向けて自由と教育と努力は奇跡をもたらすと証明したのだ。』と締めくくっている。この頃が『明治百年』で、江戸城に将軍様がいた時からたった1世紀しか経っていなかった。そう思うと『ミラクル』という表現は誇張ではなく正当な評価なのだ。
 ただし、理路庵先生のブログを読んでいる私には、この映画に流れる白人の視点が
気にかかった。肯定的に日本を捉えているように見えていてもその根底には遅れたアジアという前提があり、そうしたアジア感に収まらない日本を奇跡というのは、戦前には異質な挑戦者と言ったのと同根ではないだろうか。

・・・
 頑固親父も今は昔。『少し黙って居ろ』という言葉の向こうに広がる余白を懐かしむ私は、理路庵先生をたずねて先生の言葉の向こうに広がる余白を想像するのを楽しみにしている。
理路庵先生のブログは
『CEBU ものがたり』
 
・・・
追伸:昨日、大手町の大規模接種センターで二回目のワクチンを接種。その帰りに『はとバス』の無料送迎で東京駅まで送ってもらったので記念に写真を撮った。

 昨日は気温33度、梅雨明けの夏日。
 新装なった東京駅は美しいシンメトリーの姿を見せてくれたが、なにせ300メートルを超える大きさなので全体を撮ることが出来ない。

 これは向きを変えて東京駅から御幸通り越しに皇居を望む一枚。
 左が丸ビル、右が新丸ビル。
 東京の玄関を撮りながら、整然としたその姿に日本人は生真面目な国民だなと改めて思いを致した次第。

 
 

コメント

  1. 毎回の見ごたえのある YouTube をありがとうございます。

    本文の「戦争を実際に戦った親の世代が」云々の文節に、トッポジージョさんのご尊父の、日米戦争についての思いを記した部分があります。
    気骨のあるご尊父でしたね。
    私もそのように考えます。戦後の廃墟からいち早く立ち上がった日本人の魂の強靭さに改めて誇りを持ちます。
    女子高生の長野さんの日本語のなんと美しいことか。

    ご飯を入れる「おひつ」、「丸いちゃぶ台」、薄黒い橙色をした「練炭の燃えカス」ーーーなつかしい風景です。
    自分自身の至らなさのために、あまりいい思い出がない、ということもありますが、移住してからは特に、過ぎ去った今までの時間を思い出すことをしなくなりました。トッポジージョさんのブログに導かれて、子供の頃の楽しかった時間だけを切り取って毎回、当時をなつかしんでいます。

    冒頭の「あいさつ」について。大黒貴之氏のブログも見てみました。
    「心の余白」ーーーいい表現だと思います。

    俳優・文筆家・映画監督だった伊丹十三さんが、テレビで語っていた言葉を急に思い出しました。
    「人の心が、『意識』する部分だけになってしまったら、この世から、絵画も音楽も映画も、芸術という芸術は生まれないだろう。人の心には『無意識の部分』が必要なんだ」このような趣旨の内容でした。

    「心の余白」も「無意識の部分」も、もっと多くの日本人に、あとチョッピリくらい、あってもいいかなと、私は思います。日本人は世界一「ユーモア精神」がない民族だと、ずいぶん昔に欧米人が、ことあるごとに口にしていました。
    今の時代は、そういえば、どの国の人もあまり、冗談を言わなくなってしまったような気がするのですが。



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  2. 理路庵先生、コメントありがとうございます。
    亡き父も先生に気骨があると言ってもらえて喜んでいると思います。少し親孝行ができたような気がいたします。
    長野さんのような美しい話し方をする人は居なくなりましたね。少なくとも私の生活圏には居りません。私の想像なんですが、これはテレビの影響なのではないかと思います。
    「無意識の部分」に納得。
    伊丹十三は大佛次郎の『天皇の世紀』のドキュメンタリー番組のレポーターをしていて凄い人だなと思って見ていました。やはりそういう方は見る目が違いますね。
    大黒さんの「心の余白」、伊丹十三の「無意識の部分」、先生の「ユーモア精神」が不足していると日々感じるようになりました。
    オリンピックの無観客開催が決まった時流というものを毎日の報道で嫌という程見せられていますと日本はどうにかなってしまったのではないだろうかと暗澹たる思いにさせられます。
    やはり何かが足りないのですね。

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