安保闘争

 1960年(昭和35年)に大ヒットした西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』

 背景の映像は60年安保闘争。私は小学2年生で歌はよく知っているが社会状況を知る年齢ではなかった。しかしこの歌と安保闘争の映像は何百回と見聞きした。

 この曲を書いた水木かおるは芹沢光治良の『巴里に死す』に着想を得たと語っているので、本来は安保闘争とは何の関係も無い。

 安保闘争に参加した人の回顧談では、60年安保改定案は衆議院を通過して参議院の議決を経ず自然成立して運動は挫折、無力感が広がりこの歌に若者が共感してヒットに繋がったと言っているが、私はデモ参加者の樺美智子が国会突入時に死亡したことがその理由ではないかと思っている。樺美智子が共産主義者同盟(ブント)の活動家で逮捕歴もある闘志であったという事実が語られることは無く『東大の女学生が死んだ』という悲劇のヒロイン化がこの歌のイメージで広まったと思っている。 

 全学連の中央執行委員としてデモに参加した故西部邁によれば、当時の参加者は安保条約の内容を知らなかったという。東条内閣の閣僚だった岸信介に対する反感や反米が根底にあったのだろう。進歩的知識人が反対しマスコミがその論調に乗る、そして野党も国会で座り込み、牛歩戦術、審議拒否などの闘争劇を繰り返す中、組合の動員に学生が共闘する。肝心の安保改定の中身は誰も語らず国会前には『安保反対』を叫ぶ30万人が集まった。

 では、肝心の安保条約の改定の内容は何だったのか?

 そもそもサンフランシスコ講和条約を結んで日本の施政権をGHQから取り戻すために在日米軍を残す条件を呑んだのが日米安全保障条約だった。吉田茂は講和条約の署名式が終わるとその足で安保条約の署名式に臨んでいる。つまりこれはコインの両面だったのだ。

 ところが、駐留米軍は残したものの日本防衛義務が明記されていなかったし、内乱が起こった時に在日米軍が出動出来る『内乱条項』もあるなど日本にとって不平等条約そのものと言えた。

 この不平等条約を改め、内乱条項を無くし、基地提供と日本防衛の相互性を確保するというのが岸内閣の目標だった。岸信介はアメリカを訪問、アイゼンハワー大統領と親交を深め安保改定の道筋をつけた。これで日本は米国のパートナーになる。史上初の大統領訪日も決まった。

 しかし条約批准の国会審議が始まると野党が反発、本会議場周辺を占拠して採決を実力でで阻止しようとした。与党はこれに対抗して警官を入れて野党議員を排除し可決。するとこの強行採決を奇貨として民主主義を踏みにじる行為だとの批判がマスコミに踊った。こうして『安保反対』のシュプレキコールが巻き起こる。

 安保闘争は加熱して、デモ隊が国会に突入し死傷者を出すに及び、新聞各社は共同声明を発表。一転して『暴力を廃し、議会主義を守れ』と過激な運動に批判的になる。こうして闘争は沈静化した。

・・・引用(『読売新聞』一九六〇年六月一七日付)

共同宣言

   暴力を排し

     議会主義を守れ

 六月一五日夜の国会内外における流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった。われわれは、日本の将来に対して、今日ほど、深い憂慮をもつことはない

 民主主義は言論をもって争わるべきものである。その理由のいかんを問わず、またいかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて事を運ばんとすることは、断じて許さるべきではない。一たび暴力を是認するが如き社会的風潮が一般化すれば、民主主義は死滅し、日本の国家的存立を危うくする重大事態になるものと信じる

 よって何よりも当面の重大責任を持つ政府が、早急に全力を傾けて事態収拾の実をあげるべきことはいうをまたない。政府はこの点で国民の良識に応える決意を表明すべきである。同時にまた、目下の混乱せる事態の一半の原因が国会機能の停止にもあることに思いを致し、社会、民主の両党においても、この際、これまでの争点を暫く投げ捨て、率先して国会に帰り、その正常化による事態の収拾に協力することは、国民の望むところと信ずる。ここにわれわれは、政府与党と野党が、国民の熱望に応え、議会主義を守るという一点に一致し、今日国民が抱く常ならざる憂慮を除き去ることを心から訴えるものである

     日本経済新聞社  毎日新聞社

     東京タイムズ社  朝日新聞社

     東京新聞社    産業経済新聞社

     読売新聞社    (イロハ順)

・・・引用おわり

 この間の事実関係について、『日本記者クラブ』のホームページの『取材ノート』コーナーに秋山頼吉氏(元NHK記者)の記事が載っているので、確認して欲しい。

https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/11912

・・・

 当時の貴重な映像をもう一つ、YouTubeの説明には『60年安保反対闘争時、鶴見俊輔は安保反対派として、米国テレビのインタビューに応じている。』とある。

  最初に反対の理由を『日本が危険にさらされる』と述べている点に留意してほしい。そして憲法擁護を心情的に語り天皇制を揶揄している。
 アメリカのマスコミのインタビューで安保条約は『日本を危険に晒す』と言えば必ずその根拠を聞かれるはずだ。
 『日本を危険にさらす』とはソ連の恫喝に屈する事を意味している。
(産経新聞:【安保改定の真実4https://www.sankei.com/article/20150919-EO7FR3UW5ZLCJMC7HGNQKIZ5ZI/4/ 参照)
 そこで民主主義を蔑ろにしていると岸内閣の批判に話をずらして、あたかも自分達がアメリカが与えた憲法に基づき行動しているかのような印象操作を行っている。ついでにアメリカにおもねるように『アメリカからもらった憲法が大好きだ』と明言している。
 日本の防衛義務を明記する日米安保条約の改定が日本を危険に晒すという主張は、ソ連が主張する『中立』政策が望ましいと言うに等しく、アメリカ人ジャーナリストに理解してもらえるはずもなく、日本国内でも社会党の『非武装中立論』で語られる理想的空論としか受け取られないから彼はその事を語らない。

 岸信介は東大を主席で卒業した者に与えられる銀時計組のはずだ。能吏で戦時体制を支える経済計画の中心人物だった。所謂革新官僚でひそかにマルクスも研究していたのは経済計画のモデルがソ連の五か年計画だったからだ。余談だが、かれら革新官僚がつくった国全体を動かす戦時経済のしくみ(1940年体制)は戦後も生き続け日本の高度成長を牽引した。自由主義陣営の日本が世界で一番成功した社会主義モデルといわれた根底にはこの1940年体制がある。岸は目的合理性を追求する現実主義者だったのだ。

 だからこそ安保改定を内閣の命題として掲げた。講和条約を成し遂げた吉田茂、不平等条約を相互条約に改定した岸信介、一内閣一仕事だった。
 岸はサイレンスマジョリティは自分の味方だと言ったという。この年の総選挙は岸退陣を受けて池田隼人を首班とする自民党政権のもとで実施されたが、301議席という戦後最高の議席を獲得している。当時の衆議院は中選挙区制で今よりいわゆる『死に票』が少ない。それでも自民党は単独過半数をその後も維持し続けた。

 今でも60年安保をTVなどのメディアが取り上げて『権力者vs大衆』という構図や『進歩的知識人vs保守政治家』の構図で報道している。しかしこの報道は事実に即していない。あの時新聞各紙が共同で声明を出したのは『暴力を廃し、議会主義を守れ』で批判は国会になだれ込んだデモ隊に向けられていた。

 『朝日新聞DIGITAL』の「戦後70年」の【60年安保】(http://www.asahi.com/special/sengo/visual/page15.html)
に東映系列で流れていた朝日新聞ニュースがある。5分を超える映像にもかかわらず条約の内容には一切触れられていないばかりか、全編反対側の視点で作られていて『安保反対』の声が国民のあらゆる階層に広がっていきますという場面ではデモ隊が『安保反対 一般市民』というわざとらしいプラカードを掲げている映像が使われている。樺美智子についても活動家であった事実は伏され、一般国民のしかも良家の子女である『東大の女子学生』が犠牲になったとの印象操作をしている。そしてニュース映画の最後のナレーションは
しかし、政治の空白と混迷の中で二分された国民の声をそのままにして成立した条約がどれだけ全面的な信頼を得るものでありましょうか。私たちは日本の民主政治のあり方をしっかりと見守っていきたいものです。』と締めくくっている。これでは自民党政権が民主主義に反していると暗に言ってるに等しい。
お互いに暴力はやめて民主主義を守ろう!』の字幕で終わっているが、これは新聞各社の共同声明に似て非なるものにしていて、ここで『お互いに』とすることでデモ隊を擁護したいという目論見が透けて見える。
 こうした印象操作はその後も『アカシアの雨がやむとき』とともに今も続いている。理解不能なのはこの「戦後70年」の項目に『70年安保』が無いことである。60年安保も70年安保も朝日が反対のキャンペーンをしていたのは消せない事実だが、まるで70年安保が無かったかのように扱っている。それは『70年安保』には樺美智子がいなかったからではないのかと勘繰る私は邪推をしているのだろうか。

 60年安保闘争を牽引した丸山真男は運動に挫折して研究室に戻るとその後はマスコミとの係わりを断ち学者としての矜持を守り通した。
 すると今度は『進歩的文化人』を自称する丸山の亜流が活動を活発化させてゆく。そしてマスコミは彼ら左翼系文化人を進歩的文化人として重用し堕落していく。

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 次に聞いていたただきたいのが『フランシーヌの場合は』新谷のり子(1968年)。
 この曲はビアフラの飢餓に抗議してパリで焼身自殺したフランシーヌ・ルコントを歌っているのだが、どうした訳か『パリの5月革命』を想起させる歌として流行った。
 左翼学生の大学占拠事件を発端に学生運動が激化したためフランス政府は大学を閉鎖する。学生たちがカルチェ・ラタンを『解放区』として結集して警察と対峙すると労働者や一般市民が学生を応援するデモを行って5月末迄混乱が続いた。結果は政府の懐柔策により6月には終息したのだが、学生が一般市民を巻き込んで世の中を動かしたという事実や『解放区』を拠点としたことなど『カルチェ・ラタン』という言葉の響きとともに一種の憧れがあったと思う。しかもこの五月革命を契機に翌年にはドゴール大統領が退陣した。アメリカでもコロンビア大学の学生がキャンパスを占拠する事件が発生している。(後に『イチゴ白書』という映画になった。)
 こうした状況に『世界の学生が連帯して権力に対する異議申し立てをしよう』という実に中味の無いお題目を唱える小田実のような人物がマスコミに躍り出る。この情緒的で中身の無い主張に多くの若者が惹き付けられていったのは、何事か深刻に思い込んで行動せずにはいられない状況に身を置くことへの自己陶酔でしかない。それは思考停止と批判されても仕方が無いのだが、当時そんなことを言ったら袋叩きにあっただろう。時代の雰囲気に流される若者たちは、条約を知らず『安保反対』とシュプレヒコールをした十年前の若者と同じように時代の雰囲気に吞まれていく。
 福沢諭吉の『一身独立して一国独立す』を丸山は評価し、日本の近代化に欠けていた個人の独立がなければ民主主義は成り立たないと考えた。しかし、丸山の二番煎じの人たちは自分たちが時代の寵児として活動することに酔い、若者を盲目の徒として恥じなかった。

 そうした時代の風潮に乗って作られた歌がある。
 高田渡の『自衛隊に入ろう』。
 自衛隊を揶揄しているだけの中身の無い歌であるが、ジョーン・バエズの『 We Shall Overcome』などのプロテストソングと一緒に新宿西口広場の反戦集会で歌われていた。
 私は生理的にこの手の無責任な歌が嫌いなのだが、朝霞自衛官殺害事件が1971年(昭和46年)8月21日に起きた時に真っ先に思い浮かんだのはこの歌だった。何とも言えない胸が悪くなるような気分と愚か者に対する怒りがこみ上げた。

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 ここに亡霊のような映像が残っている。
『2006年6月10日 九条の会全国交流集会』

 彼らは一貫して反戦平和を訴えてきた進歩的知識人たち。中には勘違いして入ってしまった三木睦子などという人も混じっているが、三木以外は共和制論者である。ところがその主張は『憲法9条を守ろう』と言ってくれれば後は皆さんの自由にやって下さいというもので、まるで念仏を唱えて下さいと言っている宗教の勧誘のようである。

 私は若い頃に加藤周一の『日本文学史序説』を読んで「世の中にはこんな碩学がいる」といたく感激した。しかし、その後丸山真男に出会って少し考えが変わった。加藤も丸山に強く影響を受けた人物で、この作品も丸山の影響で執筆されたのだろう。しかし、加藤は丸山ほどの深い思索をすることは無かった。これは浅学菲才な私の感想に過ぎない。だが、上の映像を見ればあながち的外れでもないのではないかと思う。

 『丸山真男は終わった』という人達がいる。例えば伊藤裕吏の『丸山真男の敗北』では丸山が主導した『戦後民主主義が敗北した』という。そして池田信夫も丸山を過去の人と言っている『丸山眞男と戦後日本の国体』(池田信夫)。

 しかしである。

 1954年に東大に入学した渋谷教育学園理事長の田村哲夫氏の記事(読売新聞・時代の証言者「丸山真男の講義に感銘」)には、以下の記述がある。

 高名な政治学者、丸山真男先生の政治思想史の講義も受けることができました。福沢諭吉の「文明論之概略」などを論じていましたが、締めくくりの授業は特に印象的でした。丸山先生は黒板に向かい、ロマン・ロランの「ベートーベンの生涯」にある一節をドイツ語で書き、日本語に訳したのです。

 「力の限り善き事を為せ 何ものにもまして自由を愛せよ たとえ玉座の階(きざはし)にあるとも 絶えて真理を忘れるな」。新しい時代を担う学生へのメッセージだったのでしょう。今でも目を閉じると、黒板に白墨の粉が飛び散る様子まで鮮やかに、教室の情景が浮んできます。

・・・ 

 丸山真男は真剣だったと思うのだ。誰が戦争を起こしたのかが分からない、何となく戦争に突入した日本。その結果があの惨禍だったのだから、こんな無責任な話は無い。

 その原因を近代化の過程で日本人が遂に身につけられなかった『一身の独立』に見た丸山は、日本人の『古層』に分け入ることで克服するべき対象としての日本人の古層の中にある個人の独立を曇らせる『空気』を見出そうとした。この事を知った時に私は加藤の『日本文学史序説』がただ網羅的になぞった表層的な作品としか思えなくなった。

 『真空地帯』は野間宏の小説で、陸軍の内務班で日常的に行われていた悲惨な虐待経験が綴られている。野間はこの虐待を受けた内務班を『真空地帯』と表現した。丸山は東大法学部の助教授でありながら幹部登用を拒否して二等兵として徴兵された。そこで激しい虐待を受け陸軍病院に入院した後除隊となる。

 私は、丸山が陸軍内務班の虐待経験を『抑圧の移譲』と名付けたのは、一般社会では底辺を生きる無教養な古参兵が内務班では絶対的権力者となって虐待をしてくる日常の中で、一切の自己を捨てさり無感覚にならなければ生きていけない状況(まさに『真空地帯』)では、天皇を中心とする抑圧の移譲体系の末端に存在する自己という状況分析をしなければ精神的に立っていられなかったからではないかと思っている。

 せっかく除隊したものの再び徴収を受けて広島県宇品の陸軍船舶司令部参謀部情報班に所属して連合通信のウィークリーをもとに国際情報を毎週報告していたが、これが当時の国際情勢を知り得る特別の状況を彼に与えた。情報を得てもそれを分析評価する能力がなければ情報は意味をなさない。8月15日を迎えると上官は『これから日本はどうなるのか』と丸山に問い一週間にわたって丸山は講義をしたという。

 丸山は連合国が敗戦したドイツでニュルンベルグ裁判をしている事や戦後の日本に対する処置方針も知っていた。だからこそ戦後間もない昭和21年5月の『世界』(岩波書店)に「超国家主義の論理と心理」を発表できたのだと思う。敗戦後の驚天動地の中で丸山は起こるべき事を予測出来る数少ない人間だったのだ。

 丸山が唱えた『八月革命説』は、GHQの提示した憲法を自主憲法とするためにポツダム宣言受諾をもって革命が起きたと擬制するという『ウルトラC』なのだが、丸山個人の中ではどんな理由付けでも『自己を確立した国民が自主的に憲法を制定したことにしなければならなかった。』そうしなければ自分が立っている状況を説明出来なかったのだと思う。

 だからこそ、彼は後追いでも良いからその整合性をとろうとして『一身独立の精神』を後進の学生に伝えようとした。その情熱が田村哲夫氏の手記によく表れている。

 私には、こうした丸山の生き方そのものが日本的だと思えるのだ。だからこそ、それが『戦後民主主義』という異形の民主主義を育ててしまったのではないかと思う。

 丸山は淘汰されるだろう。しかし、本当に丸山の思索を乗り越える事が出来なければ、我々の『一身独立』をいつまで経っても実現できない。何故なら、丸山の亜流がそれを許さないからだ。

・・・

 最後に私の父が話してくれた戦争中の話を一つ。

 父は機関銃部隊の射撃手だった。北支を転戦していたが、機関銃は重く運搬するための軍馬は兵隊よりも大切にされていた。

 冬の北支は零下20度以上に冷え込む。そんな在る夜。機関銃小隊は馬小屋に招集させられた。兵隊は一列に整列。軍馬の世話がなっていないと片端から古参兵の鉄拳制裁。よろける者がいれば更なる鉄拳が待っていた。戦友が口から血を流して倒れると起き上がったところを蹴り倒して『馬具を取れ』と命令し、馬具を持ってふらふらする戦友のけつを蹴り上げた。そしてようやく馬具が付けられると『全員注目』と言って馬の後方に立った。

 古参兵は得意げに『いいか、よく見ておけ』と言って馬の尻尾を持ち上げ、馬具の取り付け方について講釈に及ぼうとした途端。馬が放屁した。零下20度である。馬の放屁は巨大な霧の噴射となって古参兵の上半身は見えなくなったという。放屁一発、古参兵の上半身は浴びたしぶきが凍って白く輝いている。

 古参兵は鬼の形相である。誰もが黙ってその様子を直視していなければならなかった。すると誰かがクスッと漏らしてしまった。耐える限界にきていた全員が腹を抱えて笑った。古参兵は半狂乱になって殴りかかってきたが、古参兵が暴れれば暴れるほど可笑しくて笑い続けたという。

 理不尽な暴力は内務班では日常茶飯事だったという。父は戦友同士の絆があったから乗り切れたとも、あの逆境だから戦友の友情が深まったのだとも言っていた。

 丸山真男の体験した『真空地帯』は陰湿で過激なものだったろう。多くの兵隊が戦友との友情で乗り越えようとした状況を彼は自分の思索において乗り越えんとした。その意思の強さを誉めこそすれ貶めることなど出来ない。

 ただ惜しむらくは、GHQを批判的に見ることをしなかったことだ。彼はGHQの肯定的な政策を彼自身の自発的な意思と擬制した。そして否定的な事項に目をつむった。彼をしてそうさせたのは『真空地帯』に身を置いた時の絶望的な思索にその原点があると思う。それこそが『八月革命説』の発想につながったのだろう。

 しかし、誰が考えても無理筋のこの説に飛びついたのが憲法学の宮沢俊義で、以後現在に至るまで東大憲法学の金科玉条となっている。憲法学者の7割が自衛隊は違憲であると考え、護憲派であるというのは、この宮沢俊義を始祖としている東大憲法学の弊害だ。

 私が憎むのは、こうした丸山の亜流だ。もし福沢諭吉が生きていたら痛烈に批判したに違いない。

・・・

 私は今回のブログが一般の目に触れれば多くの批判を受けるだろうと怖れる小心者だ。

 だが、いつかはこれを書かずにはいられなかった。日本のエリート中のエリートである東大法学部で何が起きていたのか。私の中で権威者が相対化されたのは、高田里恵子の『文学部をめぐる病』を読んだ時からだが、インターネットが普及した現代では権威そのものが相対化されている時代なのかも知れない。

 しかし一方で、アカデミックな洗礼を受けない者が徒に権威を否定する風潮を快く思わない。権威に盲目であってはならないが、アカデミックな思索に対する敬意を失いたくは無い。その意味で教養主義を無駄だという実用主義者は私にとって縁なき衆生だ。

 そんな私は、セブ島に住む思索の人である理路庵先生を訪ねる。先生の深い教養に触れて刺激を受ける喜びを求めているからだ。

 先生のブログは『CEBU ものがたり』

 https://ba3ja1c2.blogspot.com/



 

    

 





コメント

  1. 今回もまた、文字通り重厚な内容で、複数回読ませていただきました。

    改定新安保の内容も分からないで、ただ「安保反対」を似非宗教のお題目のように叫んでいる大多数のデモ隊を、改めて映像で見させていただきました。
    民主主義下であろうが、社会/共産主義下ではなおさらですが、「国民の総意」などというのは、私も含めて、昔も今もこれからも、常に未熟で成熟することはなく、その時代時代の"進歩的知識人”とマスコミによって主導権を握られ、ある一方向にだけ目を向けさせられることが多々あります。

    安保反対のデモなどは、その類例です。日本は未だに自主憲法を持とうとしない非独立国家です。情けなく思います。

    ちょっと余談になりますが、かつての日本の60年代70年代ーーーと、いわゆる「政治の季節」といわれた時代の政治家の「顔」「面立ち」を今、思い浮かべてみると、いかにも政治家らしい顔をした面々ばかりでしたね。
    時代(環境)は人をつくる、というような言葉がありますが、激動の時代には、その激動に対処するような気構えと能力を持った人物が、各方面に現れるのでしょう。そして、彼らの顔も、それなりの顔になっていくのでしょう。

    鶴見俊輔のミットモナイ言にしても、社会党の「非武装中立論」にしても、日本社会の中ではある一定の理解を得るかも知れませんが、対外的にはまったく相手にされません。現実の世界での有り様の中では空理空論だと嘲笑されます。

    丸山真男が高く評価したという福沢諭吉の有名な「一身独立して一国独立す」は、裏を返せば、日本人には民主主義はなじまないーーかつてよく、評論家たちが言っていましたねーーということに一理通じるのかも知れません。
    情緒がかなりの部分を占める日本人の気質は、論理で動くことが多い欧米人とはまったく対照的で、日本人の民主主義たる所以なのでしょう。

    「憲法九条の会」の映像。こんなのがあるんですね。加藤周一は私も読みましたが、あるところで、なんとなく、階段を外されてしまう、といような印象をしばしば受けるのですね。骨太でありながら、その骨を押してみると柔らかい。

    田村哲夫氏の手記にあるようなメッセージを贈ることができる丸山真男という人は、好き嫌いに関係なく、いつも「真剣」であったのだろうと私も思います。医師でもあった加藤周一とは、かなり質をことにしていましたね。

    貴重な映像をありがとうございます。

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  2.  理路庵先生、コメントありがとうございます。
     丸山真男は、本人は否定するでしょうが、いわゆる『陽明学徒』的な人物だと思います。かの吉田松陰は正真正銘の『陽明学徒』でした。陽明学は心即理の一元論つまり唯心論で、『知行合一』とばかり実践を重んじるので信じた道に一心に邁進してしまいます。
     ところが、こんな危険な人達を日本人は好みます。何故かこの『真剣さ』に惹かれるのすね。トッポジージョも同類です。
     トッポジージョが理路庵先生を尊敬するのは、この『真剣さ』と『陽明学徒』には出来ない物事を客観視できる欧米人のような合理性や教養の深さが同居していると思うからです。
     丸山真男ほどの人物が『陽明学徒』的な限界を超えられなかったのは、それこそ『真空地帯』の経験があまりにも過酷だったからかも知れないと想像したのが今回の隠れたテーマでした。
     私が理路庵先生に感じる『クレオパトラの夢』は、丸山真男にもあると思ったのです。彼の主張には賛同できないけれど『クレオパトラの夢』は共有できてしまいます。そういう危うさが自分にはあって、それこそ『一身の独立』が出来ているのか覚束ないと感じることがあります。
     だからこそ理路庵先生の物事の見方や生き方に教えられることが多くいつも感謝しています。

     

     


     

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