原爆忌

 四国に行ってみたいと思っていたが、初めて四国へ行ったのは64歳にもなってからで、金毘羅宮の石段を息を切らして登りながら何故か『二十四の瞳』という映画を思い出していた。

  壺井栄原作『二十四の瞳』は木下惠介監督、高峰秀子主演で1954年に公開された松竹映画。小豆島の分教場に赴任した大石先生と12人の生徒との交流を通じて戦前戦後の苦難や悲劇を描く反戦映画。私はこの映画を子供の頃にTVで何度も観た。

 これはYouTubeにあった『Twenty Four Eyes. mat-chan』という動画。例によって松竹に無断でUPしていると思われるのでいつ消されるかわからない。

 貧しい家の子であった松江が母親が死んだため大坂へ養女に行くことになり嫌々ながら小豆島から離れて行ったが、金毘羅宮への修学旅行の帰りに高松の食堂で働いている松江を見つけた大石先生と再会する場面。養母の嫌らしさを浪花千恵子が見事に演じている。後ろ髪を引かれるように別れる大石先生と松江。

 名作『二十四の瞳』は銃後の苦難や悲劇を通じて戦争の悲壮を訴える。だからこの映画には戦争の残虐な場面は出てこない。

 1956年の『ビルマの竪琴』になると水島上等兵の戦争体験が描かれる。

 ビルマ戦線、中でもインパール作戦は兵站を無視した戦いで作戦に参加した日本兵のほとんどが死亡。インパール作戦は、陸軍内部でも疑問視する声が上がったが、牟田口中将は精神論でこれを一喝して強行させた。そもそもビルマ戦線では辻政信参謀が援軍要請を無視して拠点を死守する命令を発出したため多くの将兵を死なせている。結果としてビルマ戦線全体での日本将兵の死者は16万人に及んだ。
 この映画にはこうした背景は描かれていないが、命令一下作戦に従事した兵士と伝令に出たまま戻ってこなかった水島上等兵の目を通じて悲惨な戦場の現実が描かれている。

 多くの将兵を見殺しにした牟田口中将や辻政信参謀は戦後も堂々と生き続けた。日本将兵の命を粗末にした軍上層部はGHQの戦犯対象とはならず、一方で捕虜に食べさせる物が無く『きんぴらごぼう』を出した収容所の兵士が『木の根を食べさせた』という理由で捕虜虐待の罪で死刑判決を受けている。
 極東軍事裁判において日本の戦争責任は断罪され、そのうちB C 級戦犯はアジア約50か所の法定で裁かれ5千数百名が有罪を宣告され、うち937名が死刑に処せられた。
 
 昭和27年4月にサンフランシスコ講和条約が発効して主権を回復すると、極東国際軍事裁判により「戦犯」とされた人たちの早期釈放を求める国民運動が起き4千万人にものぼる署名が集まった。
 昭和28年8月23日には衆議院本会議に『戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議』が上程され、旧社会党、共産党を含む全会一致で可決された。
<引用>
 戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議
 八月十五日九度目の終戦記念日を迎えんとする今日、しかも独立後すでに十五箇月を経過したが、国民の悲願である戦争犯罪による受刑者の全面赦免を見るに至らないことは、もはや国民の感情に堪えがたいものがあり、国際友好の上より誠に遺憾とするところである。しかしながら、講和条約発効以来戦犯処理の推移を顧みるに、中国は昨年八月日華条約発効と同時に全員赦免を断行し、フランスは本年六月初め大減刑を実行してほとんど全員を釈放し、次いで今回フイリピン共和国はキリノ大統領の英断によつて、去る二十二日朝横浜ふ頭に全員を迎え得たことは、同慶の至りである。且又、来る八月八日には濠州マヌス島より百六十五名全部を迎えることは衷心欣快に堪えないと同時に、濠州政府に対して深甚の謝意を表するものである。
 かくて戦争問題解決の途上に横たわつていた最大の障害が完全に取り除かれ、事態は、最終段階に突入したものと認められる秋に際会したので、この機会を逸することなく、この際有効適切な処置が講じられなければ、受刑者の心境は憂慮すべき事態に立ち至るやも計りがたきを憂えるものである。われわれは、この際関係各国に対して、わが国の完全独立のためにも、将又世界平和、国家親交のためにも、すみやかに問題の全面的解決を計るべきことを喫緊の要事と確信するものである。
 よつて政府は、全面赦免の実施を促進するため、強力にして適切且つ急速な措置を要望する。
 右決議する。 

<引用おわり>

 こうした世論の高まりを受けた政府は、サンフランシスコ講和条約第11条に基づき、10月までに全戦犯の赦免・減刑勧告を旧連合国に対し行った。こうして国内的には戦犯問題は解決をみた。

 関連する動画があったのでご紹介する。『ああモンテンルパの夜は更けて』これは実話にもとづく薬師丸ひろ子の再現ドラマ。

 昭和27年に歌手の渡辺はま子は、フィリピンのモンテンルパにある刑務所に多数の元日本軍兵士が収監されており、すでに14人が処刑されたと聞かされた。第二次世界大戦後7年も経つのに、なお刑を受刑し続け、中には死刑を待つだけの人達も居ると聞いた。渡辺はま子は、国交が無いフィリピン政府に対し、戦犯慰問の渡航を嘆願し続けて半年後にようやく慰問する。彼女の尽力により翌年キリノ大統領は特赦を実施し、全員釈放された。

 昭和28年7月9日の衆議院厚生委員会での社会党堤ツルヨ議員の質問と山縣国務大臣の答弁を以下にお示しする。

<国会会議録検索システムより引用>

078・堤ツルヨ

○堤(ツ)委員

 (中略)

 次に、青柳委員の質問と重なるかもしれませんが、戦犯で処刑されたところの遺族の問題であります。処刑されないで判決を受けて服役中の留守家族は、留守家族の対象になつて保護されておるのに、早く殺されたがために、獄死をされたがために、国家の補償を留守家族が受けられない。しかもその英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえないというようなことを今日遺族は非常に嘆いておられます。去る日も各党の婦人代議士一人ずつという御指名で、この遺家族の会合に出席をいたしましてるる陳情を承つたのでございますが、留守家族の対象に今服役中の戦犯の留守家族の方々がなるならば、遺族援護法の改正された中に、当然戦犯処刑、獄死された方々の遺族が扱われるのは当然であると思います。これも第三国人の方々と同様に私は取扱つていただきたい問題だと思いますので、恐縮でございますがもう一度伺います。

発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101604237X01619530709/78

079・山縣勝見 

○山縣国務大臣 平和条約第十一条に書いてあります裁判によつて拘禁されている者に対してのものにあらずして、獄死をされた人々の家族に対するお尋ねが主であろうと思いますが、前の方のは、今仰せの通りこの未帰還者留守家族援護法の対象になつております。あとの方の問題は、先ほどの鮮台人に関する援護と同じようなものでありまして、われわれとしては、戦犯といえどもその遺家族には罪はないのでありますから、留守家族援護という建前から、戦犯なるがゆえに援護方法がうまく行つていないということは、国民の一人として忍びがたいのでありまして、鮮台人の問題あるいは戦犯遺家族の方々の問題は、閣議においても私は発言して参つたのであります。しかしいろいろな関係で解決しておりません。先ほどの問題と同様に努力いたしたいと思つております。

発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101604237X01619530709/79

<引用おわり>

 GHQの占領が終わった直後の日本人の思いがここに表出されている。社会党の代議士が戦犯として処刑された将兵を靖国にお祀りしないのはお気の毒だと言っている。これは事後法による断罪を報復と捉えていたことの証左だと私は思っている。

 しかし、日本人は戦勝国の報復を忍び難きを忍んで受け入れたものの、ついに自分達の手で敗戦の総括をすることはなかった。

 余りに多くの人が死んだ。戦後も報復裁判で沢山の人が苦しんだ。もう前を向きたいという気持ちは理解できる。

 しかし、敗戦の責任をその後追及することが無かったのは、新憲法を貰ってしまったことと共に大きな禍根を残したのでは無いだろうか。戦争を煽ったマスコミ(特に朝日新聞)はなぜ断罪されなかったのか、無謀な精神論であまたの将兵を死なせた牟田口中将や辻政信はどうして平気な顔をして生き延びたのか。

 『二十四の瞳』や『ビルマの竪琴』は日本的な反戦映画で、『戦争が悪い』としか言わない。戦争という絶対悪を無くせば人々は平和に暮らせると訴える『日本型平和教育』の原型がここにある。

・・・

 金毘羅詣でをした前年に念願だった安芸の宮島に行った。山陽本線の宮島口から渡し舟に乗って宮島へ渡る。瀬戸内の海は波がなく鏡のように凪いでいた。宮島へ一泊した翌朝、早起きして観光客のいない嚴島神社にお参りする。ホテルで朝食の後、チェックアウト。裏山にある千畳閣(豊国神社)に登る。これはパンフレットによれば、『豊臣秀吉公が千部経の転読供養をするため天正15年(1587)発願し、安国寺恵瓊[あんこくじえけい]に建立を命じましたが、秀吉の死により未完成のまま現在にいたっています。』とあり、清盛の『平家納経』になぞらえて秀吉も千部経の転読供養を考えたのかと往時をしのんだ。

 宮島口から広島電鉄に乗り広島を目指す。瀬戸内の海を車窓に観ながら約一時間いつのまにか広電は市内に入っていて原爆ドーム前で降車。木の生い茂った公園の中を進み左に曲がると原爆ドームの全容が姿を現した。

 胸が詰まって呼吸が苦しく感じられ、しばし足を止めて息を整えなければならなかった。子供の頃から原爆の映像は数多く見てきたし、貞子さんの千羽鶴の話や銀行の階段で染みになってしまった人の事も聞いていた。しかし、実際に現場に立って見るとこの上空で4000℃の高温と放射能をともなうTNT火薬換算で20㌔トンの大爆発が起きたという現実に胸が潰されそうだった。(当時使われていた250㌔爆弾は半径35m以内の者は即死といわれていた。20㌔トンはその8万倍の威力に相当する)

 その足で元安川を渡り平和公園へ行く。原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれている。

 <引用:Wikipediaラダ・ノビド・パールより>

パールは二度三度と碑文の内容を確かめた後「憤ろしい不審の色」を浮かべて

「ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落したものは日本人でないことは明瞭である。落としたものの責任の所在を明かにして、"わたくしはふたたびこの過ちは犯さぬ"というのなら肯ける。しかし、この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。」「ただし、過ちをくり返さぬということが、将来再軍備はしない、戦争は放棄したという誓いであるならば、非常にりっぱな決意である。それなら賛成だ。しかし、それならばなぜそのようにはっきりした表現をもちいないのか」「原爆を投下した者と、投下された者との区別さえもできないような、この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊もなぐさめられない」

<引用おわり>

 これに対して碑文の撰文・揮毫した雑賀忠義広島大学教授は、同年11月10日パールに「広島市民であると共に世界市民である我々が、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない。」との抗議文を送った。

<ここまでWikipedia:原爆死没者慰霊碑より引用>

 世界市民とは言うに事欠いて、自身の不遜をさらけ出してしまったとしか言えまい。現実をどのように解釈するかは、その人の教養と論理性にかかっている。彼は『広島市民であると共に世界市民である我々』と言っている。普通に読めば『世界市民の一部である我々広島市民』が主語である。つまり『広島市民が過ちを繰り返さないと誓う。』と言っているに過ぎない。これを無理やり根拠もなく全人類に押し広げていく非論理的で感情的な物言いには辟易させられる。つまり世界市民と言う何だが訳の分からない言葉を持ち出して問答無用だと言っているだけなのだ。

 雑賀が言う『広島市民の誓い』=『全人類の誓い』が現実逃避であることを示す歴史的事実がある。

 広島への原爆投下を命じたトルーマン大統領は8月9日にはキリスト教徒の多い長崎へ原爆を投下させる。すると同日、アメリカ・キリスト教会連盟は、原爆投下に対してトルーマン大統領に抗議の電報を打った。

 この抗議に対するトルーマン大統領の回答は以下のとおり

『8月9日付の電報を頂き感謝いたします。私ほど原爆の使用に心を痛めている人間はいません。しかし、私は日本の宣戦布告なき真珠湾攻撃と戦争捕虜の虐殺にも非常に心を痛めました。日本人が理解する唯一の言葉というのは、私たちが日本人に対して原爆投下をすることのように思えます。獣(beast)と接するときは、それを獣として扱わなければなりません。非常に残念なことでありますが、それが真実です。』

 原爆は広島の一般市民を攻撃対象にしているのだ。日本人はトルーマンが原爆投下を正当化できるほどの救いようのない民族だったのか、地上から抹殺しても仕方が無いと言えるほどの罪深い民族だったのか。

 <Wikipediaより引用>

 爆心地から500メートル以内での被爆者は、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを超え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及んだ。さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25パーセントが死亡していった。11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡した。1945年(昭和20年)の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人から 12万人と推定されている。1970年に広島大学放射能医学研究所がまとめた調査結果では、爆心地から半径500m以内で生き残った者は10人としている。

<引用おわり>

 日本が中国大陸に進出したのは侵略だと多くの歴史学者がいう。では、アメリカのハワイ併合やフィリピン統治に正義はあったのだろうか。英国やフランスやオランダは日本を断罪できるほどアジアのために善き事をなしたとでもいうのだろうか。

 戦前の日本を悪魔化する議論は、一方で欧米列強がアジアで行った過酷な植民地政策には見て見ぬふりをする。ベトナム戦争は戦後にフランスが支配者としてベトナムに戻って来たのが始まりだ。日本軍は朝鮮から撤兵する時に朝鮮の代表者に施政権を渡していたが、これを認めなかったのはアメリカである。インドネシアでも再植民地化を目論むオランダとの独立戦争で80万人が犠牲になっている。これが現実なのであって、戦後もアジアを植民地にし続けようとした欧米諸国は、帝国主義を続けていたのであって、彼らが倫理的に日本を断罪する資格などは無い。


 それをくだらない碑文を後生大事にするあまり、空想論に固執して『原爆が悪い』『戦争が悪い』と唱える。いずれも人間のなせる業(わざ)なのであって、『原爆』『戦争』を絶対悪だといったところで何の解決にもならない。
 それどころか、こうした『平和論』は戦前の日本を悪魔化することで『二度と過ちは繰り返しません』という言葉に寄り添おうとする。

  キャラメルの 赤き帯封 原爆忌  吉村明

 原爆で一瞬の内に命を奪われた人達、体中が重度の熱傷でもがきながら亡くなった人達、何年も白血病で苦しみながら亡くなった人達を想う。その中には子供も多くいた。彼らの御霊に供えられたキャラメルの箱。喜びの笑みを浮かべてこのキャラメルの箱を開ける子供は既に亡くなっている。この句の『赤い帯封』が語っているのは、多くの無辜の民の命を一瞬の内に奪った悪魔の所業への静かな怒りではないのか。少なくとも『世界市民の誓い』などでは無いだろう。

・・・

 原爆忌に間に合わせようと毎日少しずつ書いて何とか間に合わせた。以前から思っていたことなのでご批判の向きには謙虚に耳を傾けたいと思うが、戦後日本の『平和教』にはどうしてもついて行けない自分がいる。

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 ここに素晴らしい人がいる。セブ島の住人、理路庵先生だ。私は先生のブログをいつも愉しみにしている。

 ブログ『CEBU ものがたり』

 https://ba3ja1c2.blogspot.com/

 一読をお勧めする。


コメント

  1. 今回もまた密度の濃い内容で、改めて日米大戦のことを考えました。

    広島、長崎への原爆投下は、言うまでもなく、Genocide です。私たちはこのことを決して忘れてはなりません。「許す しかし忘れない」ではなく、「許さない そして忘れない」

    人が頭で考えることは、いつかは必ず、良くも悪くも、この世に現れます。良いもののひとつは、例えば、宇宙旅行。悪いものの一つは、例えば、原爆投下。

    2016年5月27日、広島の原爆記念碑を、アメリカの大統領として初めて、オバマさんが訪れました。(ブログにも書いてありますので、ここでは簡単に)
    「71年前の快晴の朝、空から死が降ってきて、世界は変わってしまった」
    トッポジージョさんもよくご存知のとおり、「広島演説」の冒頭の部分です。

    上述の「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」と同様に、この二つの文章には、肝心の「行為者」が欠落しています。
    空から死を降り落としたのは、誰か。過ちを繰り返さないと、業火のなかで絶命した御霊に誓っているのは、誰か。

    原爆死没者慰霊碑の碑文をめぐるパール判事の言はすべて正しい。そのとおりです。トッポジージョさんの、いわゆる「世界市民」云々の件も、そのとおりです。
    欧米はアジア、アフリカ諸国を理不尽に侵害してきました。一方的に日本だけを俎上に挙げて酷評する資格はまったくありません。
    アジアにおける欧米の帝国主義の暴挙を止絶せしめたのは、日本ですからね。

    過去の世界の戦争・紛争のほとんどは、宣戦布告などありえなかったのです。日本はアメリカによって巧妙に張りめぐされた策謀にはまって、ついに真珠湾を攻撃した。それも、軍事設備のみです。アメリカは原爆投下の前にも、絨毯爆撃で日本人を無差別に殺傷しましたね。

    極東国際軍事裁判もニュルンベルグ裁判も、戦勝国による敗戦国への復讐劇と化したことは言を俟ちません。一応は裁判という形を取ってはいましたが、最初から判決ありき、でした。

    日本人は日本人自らの手で戦後を総括するということをしなかった。一番の原因はやはり、アメリカの一貫した日本占領政策にあると思います。
    ほぼ完全とも言っていいほどの対日占領政策の成果は今日に至るまで連綿と続いています。
    ひとりの日本人として、日本人の誇りをもって、これからも生きていく。私の唯一の気持ちのよりどころです。


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  2. 理路庵先生、コメントありがとうございます。
    父が足助さんに『いや~、参ったな』と言っていた言葉を思い出しました。
    この稿を書き終えて、さて次はと考えた時にGHQの占領政策が頭に浮かび、今ようやく書き終えようとしていたやさきに頂いた先生のコメント。
    私の書くものすべてが先生にはお見通しなので本当に驚いてしまいます。
    それもそのはずで、このブログ自体が先生のブログに触発されて書き始めたものですから自然の成り行きかも知れません。
    先生の『ひとりの日本人として、日本人の誇りをもって、これからも生きていく。』という言葉が持つ重みを考えます。この言葉を自信をもって言える日本人がどれほどいるでしょう。
    私も日本人の誇りをもてるように学んでいきたいと願っております。


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