玉音放送

 本日は終戦記念日である。1945年(昭和20年)8月14日、大日本帝国政府は連合国に対し『ポツダム宣言』を受諾する旨の通告をし、これを広く国民に知らせるため翌15日正午に昭和天皇御自ら録音した『終戦の詔書』を放送した。

 これから『玉音放送』が放送されるとのアナウンスに続いて『君が代』が演奏される。『玉音放送』は天皇の読み上げる『終戦の詔書』の音声ばかりが伝えられるが、このアナウンスと国歌演奏を伝える音声は貴重だ。

 宮内庁発表の『玉音放送』の原盤を毎日新聞がYouTubeにUPしたもの。毎日らしく後半は昭和天皇の軍装ばかりのオンパレードで最期にマッカーサー訪問時の写真で締めくくるという編集された映像構成になっている。

・・・ 

 終戦記念日に合わせて悲惨な戦時下の庶民の苦しみや悲しみを描き、8月15日の玉音放送で終わるドラマが必ず放送される。平和の尊さをもう一度噛みしめようという製作意図は理解出来るし大切なことだ。しかし、この手の話ばかりで良いのだろうか。

 8月15日は天皇陛下の玉音放送があった日で、これで戦争は終わったような気になってしまうが、その後サンフランシスコ講和条約が発効するまで占領下にあったという事実を忘れているのではないだろうか。

 昭和27年4月まで日本は占領下にあった。GHQの間接統治のお陰で、政府も国会も機能しているかのように国民は思っていたので敗戦から今日まで日本人が統治し続けたかのように感じてしまうが事実は違う。

 ここに占領されたことを実感させる資料がある。

<wikipedia:終戦処理費>より

終戦処理費とは、第二次世界大戦後に日本を占領した連合国軍の経費のうち、日本政府が一般会計から支出したものを指す。

1946年予算では379億円(一般会計歳出総額の約32%

1947年予算では641億円(同約31%

1948年予算では1,061億円(同約23%

1949年予算では997億円(同約14%

1950年予算では984億円(同約16%

1951年予算では931億円(同約12%

1952年予算では173億円(同2%)<4月にサンフランシスコ講和条約発効>

1953年予算では1億円(同1%以下)

が計上されている。1946年度から3年間は歳出項目中最大の比率を占めていた。

(中略)

連合国軍による乱脈経理や過大請求が横行した。さらに物資不足にも関わらず、連合国軍による強引な期日厳守要求が出され、それに間に合わせるために日本側は高価かつ強引な物資調達を余儀なくされたため、戦後のインフレーション悪化の間接的な要因となり、さらなる終戦処理費の増加が行われるという悪循環も発生した。

<引用おわり>

 戦後の窮乏生活の日本では『米よこせ』というデモ隊が皇居前広場を埋め尽くす事態にまでなったが、国家予算の3割を占領軍の言うままに払わされていたことが分る。財政もドッジラインと呼ばれる緊縮政策を勧告されると大蔵省や日銀は従わざるを得なかった。さらに『マッカーサー指令』は日本の法治体系に拘束されないので、日本政府に対する『命令』であった。

 いわば『問答無用』なので、『泣く子と地頭には勝てぬ』とばかりに従わざるを得なかったのだ。質が悪いのは『表現の自由』を法律に明記するようにいいながら、GHQは検閲を続けメディアを独裁者のごとく統制した。さらに『信教の自由』を謳い乍ら『神道』を弾圧している。これは「宗教の信仰及びその遵行を尊重しなければならない」と定めるハーグ条約違反であるが、彼らは自己矛盾を認めることをせず、日本の為政者も相次ぐ指令に振り回されるばかりで気骨のある対応をする者はいなかった。(というか出来なかったと言うべきか)

 日章旗掲揚、国歌斉唱を公的な場で歌うことは1945年に全面禁止された。GHQが警察署長や市長を通して、日本市民に対し、畏敬の念をもって星条旗に敬礼するよう命令した例が全国各地にある。1946年(昭和21年)からは特定の祝日や特定の行政機関のみに、国旗掲揚が限定的に許された。

 1948年(昭和23年)6月に制限令を知らずに横浜で国旗を掲揚した男性が、アメリカ軍軍事法廷で重労働6か月の判決を受けるなどの判例がある。1949年1月、GHQから国旗の掲揚が認められたが、刑罰や「軍国主義者」というレッテル張りを警戒して、実際に国旗を掲揚した日本人は少なかった。学校の教科書の挿絵に国旗があれば、削除の対象となった。児童の文房具に日章旗のデザインがついている場合、学校に監視に来たMPに没収されたり消すことを命じられたりしていた。

 こうした事からGHQが日本の国旗や国歌を『軍国主義』と結びつけ、処罰の対象としていたことが分る。徹底的に戦前の日本を悪魔化する彼らの占領政策が透けて見える。困ったことにこんな不当な事を自らの自発的な主張であるかのように乗ってしまう人間が現れることだ。『国旗国歌法』が制定されたのは1999年で1949年に国旗の掲揚が認められてから半世紀もかかったのはWGIP(War Guilt Information Program)というGHQの日本国民再教育計画がいかに巧妙だったかを物語る。

 マッカーサー司令長官に対して50万通を超える手紙が寄せられたという。

※『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』 袖井林二郎著(中公文庫)

※『敗戦 占領軍への50万通の手紙』 川島高峰著 読売新聞社

 これらの図書は、米国国立公文書館所蔵のGHQ/SCAP文書やマッカーサー記念館所蔵文書に含まれる占領軍宛書簡を編集したもので、米国国立公文書館のホームページアドレスはhttp://www.archives.gov

 作家・久米正雄は「日本米州論」(昭和25年)に「日本は講和などして独立を望むよりは、合衆国に併合されてアメリカの第四十九州となる方が本当の幸福」と書いている。久米だけではなく多くの日本人が『勝者へのへつらい』を率先してやっていたという事実に唖然とする。

・・・

  国立国会図書館のWebサービスに『日本国憲法の誕生』という電子展示がある。その中の『論点』というページに憲法改正にかかる日本政府とGHQの交渉経過がよく整理されている。

※ https://www.ndl.go.jp/constitution/ronten/01ronten.html   

 <引用>

2 日本側の検討

 憲法問題調査委員会(松本委員会)は、松本烝治の「憲法改正四原則」に示されるように、当初から、天皇が統治権を総覧するという明治憲法の基本原則を変更する意思はなかった。ただし、松本委員会の中にも天皇制を廃止し、米国型の大統領制を採用すべきだとする大胆な意見もあった(野村淳治「憲法改正に関する意見書」)。しかし、それは、委員会審議には影響を与えず、委員会が作成した大幅改正と小改正の2案は、いずれも天皇の地位に根本的な変更を加える内容とはならなかった(「憲法改正要綱(甲案)」、「憲法改正案」(乙案))。

 一方、政党・民間が作成した憲法改正案の中には、国民主権の確立、天皇制の廃止・変更を打ち出したものがあった。共産党案は、人民主権、天皇制の廃止、人民共和国の建設を目指すものであった。社会党案は、主権は天皇を含めた国民共同体としての国家にあるとし、統治権を議会と天皇に分割して天皇制を維持するものであった。また、憲法研究会案は、国民主権を明記した上で、天皇の権限を国家的儀礼に限定し、今日の象徴天皇制の一つのモデルともなる構想を示していた。

3 GHQ草案の起草

 2月3日、マッカーサーがホイットニーGHQ民政局長に示した「マッカーサーノート 」は、天皇制について、(1)天皇の地位は「元首」、(2)皇位の継承は世襲、(3)天皇の権能は憲法に基づき行使され、人民の意思に応える、との原則を含んでいた。

 民政局の「天皇・条約・授権規定に関する委員会」が作成した試案は、冒頭に、主権が国民に存するとの規定を置いた(第1条)。第2条には、天皇の地位について、まず、「日本の国家は、一系の天皇が君臨(reign)する」(第1文)と規定し、次に、「皇位は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、天皇は、皇位の象徴的体現者である。この地位は、主権を有する国民の意思に基づく」(第2文)などと規定していた。(中略)この結果、「GHQ原案」では、試案の第2条第2文が冒頭の条文となった。最終の「GHQ草案」では、これが「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である。…」と修正されて第1条となった。また、前文においては、「主権が国民の意思に存する」と宣言された。

4 日本政府案の作成と帝国議会の審議

 GHQ草案をもとに日本政府が作成した「3月2日案」は、前文を置かず、また、第1条に「国民至高ノ総意」という文言を用いて、主権が国民にあることがあいまいにされていた。GHQとの交渉の結果、前文が復活し、第1条は、ほぼGHQ草案の形に戻されたが、「国民至高ノ総意」の文言は維持された(「憲法改正草案要綱」)。

 衆議院での審議では、天皇の地位と国体の変更について、金森徳次郎国務大臣は、変更されたのは「政体」(天皇を中心とする政治機構)であって「国体」(天皇をあこがれの中心として国民が統合していること)ではない、と答弁した。このため、ケーディス民政局次長は、金森の答弁が非常に不明確で判り難いとして説明を求めた。金森は、「国体」について文書で説明した(「金森6原則」)。さらに、ケーディスから前文または第1条で国民主権を明確にするよう要請された結果、衆議院で、前文を「主権が国民に存することを宣言し」、第1条を「主権の存する日本国民の総意に基づく」とする修正が行われた。

<引用ここまで>

 ここで政府の『松本委員会』が明治憲法の基本を維持する方針だったことが示されているが、実際には松本四原則に基づいて乙案(小改正)で議論が進められていた。

・・・

 この国会図書館の時系列だけでは『2』と『3』と『4』の間にどのような交渉があったのかが不明確で何が起こったのか理解できない。

 平成28年11月の衆議院憲法審査会事務局作成「日本国憲法の制定過程」に関する資料より一部抜粋して事の経過を詳しく見てみる。(https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi090.pdf/$File/shukenshi090.pdf)  

※松本四原則

ア  天皇が統治権を総攬せられるという大原則には変更を加えない。

イ  議会の議決を要する事項を拡充し、天皇の大権事項を削減する。

ウ  国務大臣の責任を国務の全般にわたるものたらしめるとともに、国務大臣は議

会に対して責任を負うものとする。

エ  国民の権利・自由の保障を強化するとともに、その侵害に対する救済方法を完

全なものとする。

 上記アの原則は、統治権の総攬者としての天皇の地位を温存しようとするものであり、「国体」護持の基本的立場がここに現れている。

 ところが、1946 年 2 月 1 日、松本案(甲案)が正式発表前に毎日新聞にスクープされ、それによって松本案の概要を知った総司令部は、その保守的な内容に驚き、総司令部の側で独自の憲法草案を作成することにした。

 なお、このときスクープされた案は、憲法問題調査委員会における試案作成の最初の段階において、宮沢俊義委員がとりまとめた甲・乙両案のうちの甲案にほとんど一致するものであり、この新聞記事が出た当時、憲法問題調査委員会で審議の対象となっていた乙案とは異なる案であったとされる。

 ホイットニーは4 日、ケーディス民政局次長等民政局員を招集し、マッカーサー三原則を伝え、総司令部案作成に取りかかった。

※マッカーサー三原則

ア  天皇は、国家の元首の地位にある。皇位の継承は、世襲である。天皇の義務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところにより、人民の基本的意思に対し責任を負う。

イ  国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。

ウ  日本の封建制度は、廃止される。皇族を除き華族の権利は、現在生存する者一代以上に及ばない。華族の授与は、爾後どのような国民的または公民的な政治権力を含むものではない。

 予算の型は、英国制度にならうこと。

 完成した総司令部案(いわゆるマッカーサー草案)は 2 月 13 日に日本政府に手渡された。この会談には、日本側から吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣等が出席したが、その席上、総司令部側から、松本委員会の提案は全面的に承認すべからざるものであり、その代わりに、最高司令官は基本的な諸原則を憲法草案として用意したので、この草案を最大限に考慮して憲法改正に努力してほしい、という説明があった(総司令部案は、国民主権を明確にし、天皇を「象徴」としていたほか、戦争の放棄を規定、貴族院の廃止及び一院制の採用等を内容とするものであった。
 日本側は、突如として全く新しい草案を手渡され、それに沿った憲法改正を強く進言されて大いに驚いた。そして、その内容について検討した結果、松本案が日本の実情に適するとして総司令部に再考を求めたが、一蹴されたので、総司令部案に基づいて日本案を作成することに決定した。

 なお、「総司令部が草案作成を急いだ最大の理由は、2 月 26 日に活動を開始することが予定されていた極東委員会(連合国 11 ヵ国4の代表者から成る日本占領統治の最高機関)の一部に天皇制廃止論が強かったので、それに批判的な総司令部の意向を盛り込んだ改正案を既成事実化しておくことが必要かつ望ましい、と考えたからだと言われる。

 総司令部案に基づく日本案の起草作業は、それを日本語に翻訳するというかたちで、まず 3 月 2 日案にまとめられた。その主要な特色は、内容を整理するとともに、表現を改めることによって、できるかぎり日本側の主張を生かそうと試みたところにある。

 3 月 2 日案は、同月 4 日に総司令部に提出されたが、総司令部から早急に確定案を決定したいという意向が示され、同日から 5 日にかけて徹夜の折衝が行われた。これは 3 月 2 日案を英訳し、英文に整えたものをさらに正確に内容を伝えるような日本語に再び翻訳するという作業で、全条項にわたり詳細な検討が行われた。

3 月 6 日、全条項について合意に達した結果が「憲法改正草案要綱」として決定され、国民に公表された。

 草案要綱は、その後、総司令部との交渉を経て、参議院の緊急集会制の新設など若干の点に修正が加えられた。それと並行して要綱を成文化する作業が進められ、4 月 17 日、我が国で初めてのひらがな口語体の条文が作成され、それが枢密院への諮詢と同時に「憲法改正草案」(内閣草案)として公表された。

 枢密院で可決された内閣草案は、明治憲法 73 条の定める手続に従い、6 月 20日、新しく構成された第 90 回帝国議会の衆議院に、「帝国憲法改正案」として勅書をもって提出された。衆議院は、原案に若干の修正を加えたのち、8 月24 日圧倒的多数をもってこれを可決し、貴族院に送付した。

 改正案は、枢密院の審議を経て、10 月 29 日天皇の裁可があり、11 月 3 日「日本国憲法」として公布された。日本国憲法は、1947 年 5 月 3 日から施行された。

 帝国憲法改正案は 1946 年 10 月 7 日に議会を通過したが、極東委員会の内部では、日本におけるこの手続がポツダム宣言等の意図した日本国民の自由な意思の表明に当たるかどうかを疑う声があった。そこで、日本国憲法公布直前の 1946 年 10 月 17 日、極東委員会は、新憲法が真に日本国民が自由に表明した意思によってなされたものであることを確認するため、日本国民に対してその再検討の機会を与えるべきである旨を決定した(「日本の新憲法の再検討に関する規定」)。そして、1947 年 1 月 3 日、マッカーサーは、吉田首相宛の書簡にて憲法施行後 1、2 年以内の憲法改正の検討を提案し、憲法改正の国民投票も容認する旨を伝えた。吉田首相は、「内容を子細に心に留めました」と返信した。なお、3 月 27 日、極東委員会の決定が、日本国民に向け公表された。

 しかし、国会における憲法改正の検討は立ち消えとなり、1949 年 4 月 20 日、衆議院外務委員会において、「政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません。」と吉田首相が答弁するに至った。なお、そもそも吉田首相は、憲法改正は、国民の総意が盛り上がって改正の方向に結集したときに初めて乗り出すべきものと考えていたとされている。

<以上抜粋おわり>
 
 以上の経緯は、衆議院憲法審査会事務局作成の資料に明記された事実関係である。これを素直に読めばGHQの意向に逆らうことなど誰一人として出来なかったことは明白だ。

 私はここでGHQに否定された『松本試案』を書いた宮沢俊義委員が終戦後どのような見解を持っていたかについて重要な資料を発見したのでここにお示ししたいと思う。
 国会図書館の『日本国憲法の誕生』の『資料と解説1-15』には以下の記述がある。

『憲法改正問題を検討するため、1945(昭和20)年9月28日、外務省が招へいして意見を聴取した宮沢俊義東大教授による講演の大意。宮沢は、美濃部達吉門下のなかでも屈指の憲法学者であった。ここでは、明治憲法のもとでも、十分、民主主義的傾向を助成しうると論じ、明治憲法の手直しで、ポツダム宣言の精神を実現して行くことが可能だとの見解を示した。このときの宮沢の見解は、のちに自身が主要メンバーとなる憲法問題調査委員会の審議や「憲法改正案」(乙案)に反映されている。』

 ところが、こうした宮沢の考え方は、2月13日に『マッカーサー草案』が提示されると見事に否定されてしまう。すると2月21日に東大法学部で南原繁東京帝国大学総長の発案で、学内に「憲法研究委員会」(委員長:宮沢俊義)が結成された。南原総長の発案となっているが働きかけたのは、マッカーサー草案を知る宮沢俊義と考えるのが自然だ。ここで宮沢は見事に新憲法の推進役に変身を遂げる。
 この委員会において丸山真男から『八月革命説』のアイデアをもらい同年5月に丸山の承諾を得て「八月革命と国民主権主義」として『世界文化』に論文発表している。奇しくも同月に丸山真男は「超国家主義の論理と心理」を『世界』に発表している。2月に「憲法研究会」が発足してから僅か3カ月で発表された二つの論文に通底するのは丸山の『超国家主義批判』であり、宮沢にとっては『目から鱗が落ちる』思いだったに違いない。
 参考にして欲しいブログがあるので紹介したい。
 『八月革命と丸山真男』※https://blog.goo.ne.jp/514303/e/6a1a2f0311e6c6f4a19ffcf3c2033c8b
 (略)
 ここで、鵜飼信成は、宮沢俊義の八月革命説を宮沢の「功績」として位置づけると同時に、同説を支持している。
 しかし、いま問題にしたいのは、八月革命説の「当否」ではなく、その「由来」である。
 鵜飼によれば、「八月革命は、本来は、政治学や政治思想史の概念として誕生したもので」、東京大学法学部の「憲法研究会」の議論の中で、「政治思想史の専門家丸山真男教授がこういう発言をした」という。また、宮沢俊義は、一九四六年五月に(新憲法草案発表後)、八月革命に関する論文「八月革命の憲法史的意味」を発表したが、これを発表するにあたって、「丸山真男教授の了解を得て」いるという。――これは、きわめて重要な情報ではないのか。
(引用ここまで)

・・・ 
 『日本国憲法のお誕生』江橋崇 法政大学名誉教授著・有斐閣(※参照)には、日本国憲法を国民に啓蒙する中心的役割を東大法学部が果たした事実が詳細に記述されている。GHQの肝入りで全国の地方公務員に新しい憲法の講義をして廻ったのが東大法学部でその中心に宮沢俊義教授がいた。

※ 日本国憲法の誕生は急ごしらえの舞台上での一幕の乱舞劇であった。国民抜きの国民主権劇をだれが振付をして,だれが踊ったのか。これまで歴史のひだに隠されていたもうひとつの憲法物語を,制定記念グッズや祝賀行事,公式記録などの深読みを通してひも解く。

 宮沢は戦前『改造』1941年1月号掲載の論文「体制翼賛運動の法理的性格」において、大政翼賛会について『万民翼賛は帝国憲法のみならず、肇国以来の憲法の大原則である』として積極的に擁護し『議会制民主主義を時局にそぐわず不十分である』と論じている。恩師が糾弾されている時に宮沢は時局に阿って保身をはかった。
 それが敗戦によって美濃部の一番弟子として再び出番が廻って来るという幸運に恵まれると当然のごとく外務省に出かけて帝国憲法の手直しで用は足りると講演する。マッカーサー草案が出るまで宮沢は戦前軍部に指弾された恩師美濃部教授の『天皇機関説』の出番だと考えていた。そして一番弟子たる自分がその中心にいると自負もしていただろう。
 こうした宮沢に降って湧いた『マッカーサー草案』と自分の書いた『松本私案』の否定は青天の霹靂だったであろう。戦前の日本の指導部は東大法学部から輩出されていた。東大自体も大きな危機に瀕していたのだ。宮沢自身『改造』に発表した論文がいつ問題にされ公職追放の憂き目に遭うか分からない状況に置かれていたのだ。法学部長から東大総長になった南原繁に宮沢はGHQに対する全面協力の必要性を説いたはずである。そして「憲法研究委員会」を発足させて自分自身と法学部しいては東大を護るための理論形成に乗り出す。
 宮沢は井の中の蛙で、東大の権威の中で生きていた。本来なら『マッカーサー草案』が出た段階で自分の学問的限界を知るべきだった。ところが、東大という組織を護ることに大義を見出して自分の変節を顧みなかった。むしろ視野の広い丸山真男の言説に未来を見出して時代に適合しようとした。そして彼は日本国憲法を自らのものとして大衆に広める先達として振舞うことに成功する。 

・・・
 GHQの言論統制については江藤淳の『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(文春文庫)に詳しいが、ここまでやるかという徹底したものだった。
 その一端を国土技術研究センター所長大石久和氏のコラムから紹介したい。
 『新しい主権者が学習する憲法』
  https://www.jice.or.jp/tech/columns/detail/56

 (略)メディアは占領期には厳格なコードを遵守してGHQの意向に沿った報道をせざるを得なかったのだが、これが周知の事実になっていないということだ。
 GHQは巧妙なことに「検閲制度への言及」も検閲の対象にした。つまり、「出版、映画、新聞、雑誌の検閲が行われていることに関する直接間接の言及」は削除または発行禁止の対象であった。このことも占領時代には厳しい検閲が存在していたことが、あまり知られていない一因になっている。
 さらに検閲による修正も、戦前のわが国のように伏せ字にしたり空白にしたりすることは許さず、必ず版を改めさせていたから、どこがどのように変更させられたのか読者には判読不可能であった。
 アメリカというのは実に徹底した国だと思うのは、検閲のためには言葉の関係から日本人を用いる必要があったが、「検閲官であったことは一生秘匿せよ」と命じていたことである。だから、検閲官は数百人もいたにもかかわらず、最近に至るまで検閲官であったことを名乗り出た人はきわめて少数にとどまっている。
 また、アメリカは日本占領の2年も前から、日本での検閲方針や方法について研究を始めていたというのだから、何事も起こってからしか考えないわれわれとは決定的に異なる。
 GHQの検閲は私信の開封まで行うという野蛮かつ徹底したものだったし、初期には剣道・柔道・書道など「道」が付くものも禁止し、日の丸・君が代も、多くの歌舞伎や落語も禁止されたのであった。まさに日本的なものの完全否定だったのである。
 「連合国最高司令官に対するいかなる一般的批判」「極東軍事裁判に対する一切の一般的批判」「アメリカに対する直接間接の一切の批判」「満州における(ソ連による:筆者注)日本人の取り扱いについての批判」「ナショナリズムの宣伝」「占領軍兵士と日本女性との交渉」「朝鮮人に対する批判」「ロシア、英国、中国、その他の連合国に対する批判」「連合国一般に対する批判」、これらは一切検閲対象だった。
 加えて、「連合国の戦前の政策に対する批判」も検閲の対象となっていた。わが国が戦った相手国の戦前の政策を批判できないのであれば、「戦争に至ったのは、すべてわが国が悪かったからだった」としかなりようがない。
 憲法についても、「憲法起草にあたって連合国最高司令官が果たした役割についての一切の言及、一切の批判」も検閲対象となった。制定過程におけるこのような言及や批判が、発行停止につながるような処置を受ける可能性があるとなると、新憲法を批判することなどできるはずもないのは当然だったのだ。(略)

・・・
 先に引用した国会図書館の記事の中に『憲法研究会案は、国民主権を明記した上で、天皇の権限を国家的儀礼に限定し、今日の象徴天皇制の一つのモデルともなる構想を示していた。』とあるが、これをGHQが研究していたという一事をもって護憲派は『押し付け憲法』に対する反証材料にしている。
 では『憲法研究会』とは何か。高野岩三郎が呼びかけ人として作られた研究会となっている。この高野岩三郎を調べてみるとGHQの検閲と繋がりの深い人物だということが分る。

占領期GHQによる検閲・宣伝工作の影響と現代日本・久岡賢治/滋賀大学 https://www.econ.shiga-u.ac.jp/ebr/Ronso-423k-hisaoka.pdf より抜粋>
(略)検閲の現場では多くの日本人がCCD(民間検閲局)・PPB(Press, Pictorial &Broadcasting)の手先となって働いた。昭和22年3月現在のCCD構成人数は、将校88人・下士官80人・軍属・370人・連合国籍民間人554人・日本人5,076人の総員6,168人であった。日本人のうち少なくとも1,500人以上がPPBで新聞雑誌等の検閲に当たったとされている。また、CCDで検閲に従事した約5100人の日本人のリーダー格が戦後の初代NHK会長に就任する社会統計学者かつ社会主義者の高野岩三郎であった。言論と報道の自由の中心であるはずのNHKの会長が、占領軍による検閲という言論弾圧に加担していたのである。
 CCD職員の求人は「タイプライター係募集」の名目で行われ、高い給与水準に惹かれ、経済的な目的で優秀な日本人が多く応募した。CCDで勤務した人の多くは退職後にその職歴を隠し、日本社会に溶け込んでいった。PPBにおける日本人検閲官の役割は、新聞・雑誌等の校正刷りの内容を吟味し、チェックの必要ありと判断した個所にマークをつけるというものであった。日本人検閲官がチェックを付けた個所を日系2世の文官が英訳し、それを将校が検討するという形であった。(略)
  
 想像を絶する言論統制が行なわれていたことに今更ながら驚く。『媚びへつらい』は『拝啓マッカーサー元帥様』と手紙を書いた50万人に止まらず日本の各階層ありとあらゆる分野に伝播していたのだろう。

・・・
 曲学阿世の徒と吉田茂は南原繁東大総長を批判したが、吉田自身も自主憲法制定の芽を摘んでいる。確かに困難な時代だったと思うが、『一身独立して一国独立す』の精神があれば占領が終了した後でも自主憲法制定に努力すべきだったのでは無いだろうか。
  
 極東委員会の中に天皇の戦争責任を問う声があったことや天皇制廃止の声があることをGHQが日本政府に示唆(suggestion)している時に、マッカーサー草案を拒絶する選択肢などは無かっただろう。終戦の詔勅に『國体を護持し得て』とあるようにポツダム宣言の受諾が遅れたのも『國体の護持』が約束されているかの確認に手間取ったほど守るべき一線だったのだ。
 占領下の日本ではGHQは天皇の上位に君臨していた。国民主権と言いながら昭和27年4月までは主権はGHQが持っていて憲法自体が有名無実だった。こうした実情をもってして何故『八月革命説』などが憲法学の主流となってしまうのか。
 そもそもポツダム宣言には交戦権を剥奪するなどとは書いていないのだ。マッカーサー三原則の内の『戦力不保持・交戦権否定』の項目は、当時の日本人の誰も思いつかなかったもので自発的に湧き出た条項では無い。これは明らかに日本に対する懲罰規定で極東委員会でさえ自主憲法に疑いありと考えたのだ。
 私は『押し付け憲法』とは言わない。天皇の裁可を受けて国会で議決した事実は重い。しかし、事実関係を見れば自主憲法とは言えない。鶴見俊輔が言うように『貰った憲法』と言うべきだ。あの時はそうするしか無かったのは分かる。しかし何故それを『平和憲法』などという言葉遊びにしてきたのかが問題だ。

・・・
 ここで昭和22年の流行歌を聴いて欲しい。
 菊池章子『星の流れに』
 従軍看護婦だった女性が奉天から東京に帰ってきたが、焼け野原で家族もすべて失われたため「夜の女」として生きるしかないわが身を嘆いていたという手記が東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った。これを読んだ清水みのるは、こみ上げてくる憤りをたたきつけて戦争への告発歌を徹夜で作詞し、作曲の利根は上野の地下道や公園を見回りながら作曲した。
 テイチクはブルースの女王として地位を築いていた淡谷のり子に吹き込みを依頼した。しかし、「夜の女の仲間に見られるようなパンパン歌謡は歌いたくない」と断られた。
 そこで、会社は同じくコロムビアから移籍していた菊池に吹き込みを依頼した。彼女は歌の心をよく把握し、戦争の犠牲になった女の無限の哀しみを切々とした感覚で歌い上げた。
 完成した際の題名は『こんな女に誰がした』であった。GHQから「日本人の反米感情を煽るおそれがある」とクレームがつき、題名を『星の流れに』と変更して発売となった。
<長田暁二著 『歌でつづる20世紀 あの歌が流れていた頃』より>

 ポツダム宣言の第12条には『日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、聯合国の占領軍は、直に日本国より撤収せらるべし。』とあり、第13条には『日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、且右行動に於ける同政府の誠意に付適当且充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す。』とあって、日本は宣言受諾後直ちに武装解除して義務を果たし、GHQの越権行為にも目をつむり『日本国憲法』を国会で可決成立させた。
 ならば、連合国は直ちに日本より撤収する義務があったはずであるし、日本はそれを要求する権利を持っていたはずである。
 しかし、その後も占領は続いたのである。それは占領政策がポツダム宣言を超えた目的を持っていたからに他ならない。その意図を隠し日本人の報復感情を恐れたからこそ流行歌のタイトルにまで検閲が及んだのだ。

 街娼だけでも5,000人以上が東京の街を彷徨っていたという時代。そんな時代に『ギブミー・チョコレート』と言っていたのは子供ばかりでは無かったのだ。貧困にあえぐ女たちは街娼に身をやつした。しかし占領政策の手先となって生き延びた多くの日本人の精神は彼女達を卑下できるほど立派だったのだろうか。

 東京大空襲で10万人を一晩で焼き殺し、二発の原爆で数十万人を殺し、合計80万余の民間人を殺戮した挙句、事後法で戦犯を裁いて約1,000人を絞首刑にし、5,000人以上を有期刑に処し、その上で国の根幹である憲法を自分達の意向で作らせ、一切の批判を許さぬ徹底した検閲を続けたという事実。
 これを冷静に振り返れば、こんな非道はあってはならないと思うのが自然だが、未だにその事実を事実として伝えることさえしないのは日本人自身の問題ではないだろうか。

 8月15日に全てが終わったのではない。そこから始まった占領政策がどれほど恐ろしいものだったのかを知ろうともしない日本人の行く末を思う。

 令和三年八月十五日 終戦記念日

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 本稿も理路庵先生が読めば、まだまだ未熟のそしりを免れないだろうと思いながらも実際に起きた事実を記録する必要を強く感じて書かずにはいられなかった。
 そんな私がお勧めするのは理路庵先生のブログ『CEBU ものがたり』。
 ここに孤高の人がいる。
 

コメント

  1. 多くの知恵と労力と時間を使って、有益なブログを掲載し続けていくことは、書き手の立場からすると、なかなか骨が折れることだと思いますが、ひとりの読者としては大変ありがたく、大いに参考になります。
    今回もまた、首肯する部分多々ありました。

    ご承知のとおり、戦後の日本占領政策は、ドイツのそれとは違って、アメリカ単独によるものでした。ドイツは連合国による分割占領政策で、良くも悪くも、各国の国益が衝突したりして、一筋縄ではいかなかった。
    ところが、日本の場合は、悪くも悪くも、アメリカのやりたい放題、独壇場、ハーグ条約違反のオンパレードでした。

    日本は、戦勝国のなかでも、特にアメリカから見て、地政学的に非常に重要な要石で、他の戦勝国には指一本触れさせたくはなかった。他の連合国にしてみれば、日本などはどうでもいい、ドイツの占領政策の方が地政学的に有用だと計算したこともあったのでしょう。

    アメリカの対日占領政策を、一つひとつ挙げていくときりがありませんが、何故あそこまで徹底して日本人の心を壊滅したのかを考えると、やはり、アングロアメリカンの頭の底には、除去不可能な、有色人種の日本人に対する蔑視・差別感情があったことは否定できない事実だと、私は確信しています。

    アングロアメリカンと日本人を個人間で、例えば、経済政策にしても政治政策にしても、単純に比較してみると、残念ながら、私たちは少しばかり劣っていると言わざるを得ません。
    アングロアメリカンの個人の頭脳明晰さは、総じて、日本人のそれを凌駕しています。何よりも、頭脳の質の「スタミナ」と体力の「スタミナ」に、歴然とした開きがあります。
    キッシンジャーさんひとりの頭脳は、日本人の超優秀者の100人分に相当する、と当時言われていました。

    私たちの武器は、集団の力でしょう。世界一だと信じています。

    余談ですが、有色人種の「雄」である中国。強圧的な対外政策にもかかわらず、どうして中国に追随する国々が今でも相当数あるのか。
    中国をある意味で頼りにしている国々はすべて有色人種国家です。彼らはかつて、あるいは今後、アングロサクソン系や白人の国々から受けた、あるいは、将来受けるかも知れない不当な圧力に戦々恐々としているのです。
    同じ圧力なら、同じ有色人種の「雄」である中国の方がましだ。アメリカに正面切って物が言える国は、中国しかない。

    世界にはいろいろな思いもよらない国益のあり方があります。

    戦後76年も経って、未だに私たちは、アメリカの占領政策の呪縛に囚われています。もう、無理でしょう。このまま行くのでしょうね、日本は。

    ヒットラーのユダヤ人に対する、Holocaust。トルーマンの日本人に対する、Genocide。
    この二つは人類が地球上に存在する限り、人類史上もっとも残忍な犯罪として、私たちは許してはならず、忘れてはなりません。
    アメリカによる対日占領政策は、将来の史実のなかで、原爆投下を正当化するためだった、と言っても過言ではないかも知れません。

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  2. 理路庵先生、コメントありがとうございます。
    今回は先生の予言どおりGHQの占領政策をテーマにしました。
    先生の『アメリカの対日占領政策を、一つひとつ挙げていくときりがありませんが、何故あそこまで徹底して日本人の心を壊滅したのかを考えると、やはり、アングロアメリカンの頭の底には、除去不可能な、有色人種の日本人に対する蔑視・差別感情があったことは否定できない事実だと、私は確信しています。』に全てが語られていると思います。
    日本を一歩も出たことの無い私は、アングロアメリカンの差別感情を知りませんでした。韓国人の反日感情は彼らの嘘で固められた歴史教育がその源だと理解することが出来ましたし、救いようのない話だと突き放してみることも出来るようになりましたが、アングロアメリカンの心の底に潜む差別感情を改めて突き付けられると心底恐ろしくなりました。知れば知るほど現実の世界を直視することに躊躇してしまいそうになってしまいます。
    それでも前回先生が『ひとりの日本人として、日本人の誇りをもって、これからも生きていく。私の唯一の気持ちのよりどころです。』とコメントされた事を思い出し、先生のようにどんな現実にもたじろがない透徹した精神を持ちたい。そんな境地になれたら人生を全うしたと思えるかも知れないと思った次第です。

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