コモンセンス

  日本には英国のようなコモンセンスが無いと教えられたことがある。それは自由と議会制民主主義にそぐわない事を認めない常識とも言うべき共通認識で、ボルシェビキやアナーキストを危険だと感じる感覚とも言い換えられるものだった。

 ここであるブログを見てみる。

 Little Tales of British Life 「英国人のふところの深さはコモンセンスから」

※ https://www.british-made.jp/stories/lifestyle/2015021800260

 ***(引用)***

コモンセンスの「コモン」とは共通や共有を意味しますが、「common : 共同で使う用地」という意味もあります。

見識の高い人を褒める表現として“He has a plenty of common sense” と言うことがあります。

常識という言葉の扱い方は、日本語の場合「それは常識ですよ」と、やや否定的に使われますが、英語の場合「彼はコモンセンスが豊富な人だ」と、褒め言葉で使われるのです。その実、コモンセンスとは、必ずしも「常識」とは訳せないのです。

Common Senseの原義を辿れば、「共通の感覚」です。翻って「社会生活をする上で、誰もが知っているべき共通の認識、あるいは、思慮、分別、良識など倫理的な事柄」ということになります。したがって、上の英文を訳すなら、「彼は(判断力に長けた)教養溢れる人物です」あるいは「彼は見識の高い人だ」という意訳も可能であると思うのです。

***(引用ここまで)***

 ”He has a plenty of common sense”とは、教養人であるだけでなく機知に富む思慮、分別、良識を併せ持つ人なのだろう。さしずめ理路庵先生のような人のことと想像する。

・・・

 話を元に戻して、私がコモンセンスを知ったのは随分昔のことで、今では何に書いてあったのかを思い出せないのだが、日本人にもコモンセンスがあれば、いや無いので本当の民主主義が育たないのだと書いてあったと記憶している。

 ここで財務省のホームページに面白い文章があったので紹介したい。

危機対応と財政(番外編-最終回)

民主政治の原点…受益と負担

国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇

※ https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/202105/202105g.html

***(引用)***

5.民主政治への信頼

ここまでお読みいただいて、何やら前途多難という印象を受けられたかもしれないが、それは筆者の本意ではない。筆者は、日本の財政民主主義は、それでも進歩していくと考えている。本稿第5回にご紹介したチャーチルの言葉「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」が、財政民主主義にも当てはまると考えるからだ。この点に関しては、この翻訳で「民主主義」とされているものが「政治体制」(制度)としての「民主制」だということを指摘しておきたい。民主制(Democracy)は、貴族制(Aristocracy)や君主制(Monarchy)などと対置される政治体制で、「制度」なのだから、臨機応変に工夫していけばいいのだ。最悪の政治といえるが、試行錯誤しながらよりましなものに変えていけばいいのだ。「民主制」におけるリーダーシップも同じことだ。それを、「主義」と考えるから、何か本来あるべきところからずれてしまっているとして悲観的になってしまうのだ。「主義」というなら注目すべきなのは、今日の「民主制」の根底にある「自由主義」(Liberalism)であろう。それは社会主義(Socialism)や共産主義(Communism)、帝国主義(Imperialism)などに対置されるもので、その「自由主義」を保証しているのは、言論の自由や独立した司法権による令状がなければ身体を拘束されないといった基本的人権である。

そもそも、政治体制としての民主制は暴走しやすいもので、近代にいたるまで、一般的に暴力的で混沌とした状態から、民衆の扇動、そして専制へと転じやすいものだと考えられてきた。だから、チャーチルは「民主制は最悪の政治といえる」と言ったのだ。そのように、暴走しやすい不完全な政治制度を守り育てていくのが政治家のリーダーシップであり、マスコミの役割のはずだ。草の根民主主義という観点からしても、市民とそのリーダーが公共の利益のために、喜んで協力し合うためにどうすればいいかを考えて臨機応変に工夫していくことが求められるのだ。かつて、わが国で1990年代に政治学者が主張していた小選挙区制などの政治改革が、今日ほとんど実現されているのに、それが政治不信の払しょくにつながっていないと嘆く向きがあるが、それも民主制を試行錯誤の過程と考えれば嘆くようなことではない。財政民主主義についても同じことで、今日、巨額の財政赤字という「最悪」の事態を招いているが、試行錯誤しながら直していけばいいのだ。いろいろと批判されるが、わが国の明治維新以来の財政民主主義の歴史には、西欧諸国と比べても、けして見劣りしないものがある。かつての戦争に至る一時の不幸な時期を除けば、高橋是清をはじめとした多くの人々の努力で、着実な歩みを進めてきたのだ。そもそもの日本の民主制も、江戸の自治以来のしっかりとした歴史を持っている。前回ご紹介したように、第1回の帝国議会議員選挙では、「われから進んで候補者として名乗りを上げる人間などは、品性劣等、士人のともに遇すべからざる者として排斥され、かえって選挙されることを迷惑がるような立派な人物を、無理やりに選挙民が担ぎ上げるという有様」だったのである。

民主制は試行錯誤の過程だということに関して、ここで政治とは何かについての筆者の考えを述べておくこととしたい。それは、アリストテレスがニコマコス倫理学で言っていることである。アリストテレスのニコマコス倫理学は、何が人間にとって善であるかを探求した書物だ。人間にとって最高の善とは幸福だとしている。富や快楽ではなく、幸福だというのだ。そして、善を目的する活動が政治だとしている。ちなみに、アリストテレスは、若き日のアレクサンダー大王の家庭教師をしていた人物で、単なる学者ではなかった。筆者が官房審議官の時に受けた人事院の3泊4日の合宿研修(日本アスペン研究所による)で指導教官だった今道友信先生は、国際形而上学会の会長も務めた方だったが、哲学とは魂の世話だとされていた。人間の魂が、どうやったら幸せになれるかを探求するのが哲学だというのである。今日、IT技術などが飛躍的に進歩していく中で、新たな人間の魂の世話が求められるようになってきている。それを、エコエティカ(生圏倫理学)という考え方でとらえようとしておられた。日本の哲学は、これまで西欧や中国から入ってきたものばかりだったが、今日、日本からの哲学が求められているとしておられた。先に紹介した「絶望を希望に変える経済学」の中では、経済学者は手段や効用という概念をひどく狭く定義する傾向があるが、豊かな人生を送るために私たちが必要とするのは、それだけではないはずだ。家族や友人が幸せに暮らしているといったことなどが必要なのだとしている。何が人間にとっての善であるかを探求したニコマコス倫理学の問題意識に通じるものと言えよう。それを、試行錯誤しながら実現しようとするのが政治であり、多くの政治家がそれを目指しているのである。

6.コモン・センス

以上、いろいろと述べてきたが、最後に筆者が述べておきたいのは、コモン・センスを大切にするということである。受益と負担が表裏の関係にあるというのはコモン・センスだ。「稼ぐに追いつく貧乏なし」や、「よく学び、よく遊べ」、「嘘つきは泥棒の始まり」「信なくば立たず」などもコモン・センスといえよう。

「絶望を希望に変える経済学」では、昨今、官僚や政治家は無能だとか金に汚いと決めつけるのが大流行だが、こうした風潮は百害あって一利無しだとしている。そのようなイメージが定着すると、人々は政府の介入があきらかに必要な場合であっても、いかなる政府介入にも反射的に猛反対するようになる。政府で働こうと志す優秀な人が減ってしまい、政府はますます非効率になる。政府は腐っていて無能だと言い続けていると、市民はそのうち政府の行動に無感覚になり、注意を払うことさえしなくなる。メディアが小さな腐敗探しに熱中していると、大規模な汚職の余地を生むことになりかねないとしている。「官僚や政治家は無能だ」と決めつけることは、「人は褒めて使え」というコモン・センスに反することだ。社長が「うちの社員はダメだ」と決めつけているような会社で社員が育つはずはない。「信なくば立たず」なのである。主権者である国民が、コモン・センスを大切に、政治や行政の場で人材を生かして使えるようになれば、日本が今日の低成長を脱却して豊かな社会を築いていくことは難しいことではないと思う。明治維新期の経済成長も、戦後の焼け野原からの経済復興も、とんでもないところから始まった。世の中、希望がなくなることはない。そして、そのような希望の実現を目指す政治家やそれを手助けをする官僚は素晴らしい仕事なのだ。

***(引用ここまで)***

  財務省のホームページなので財政が話題の中心なのだが、日本の統治機構には財政民主主義が無いという指摘から説き起こしているので、気になる方はネットで本文を確認して欲しい。

・・・ 

 さらにコモンセンスと言えば、トマス・ペインの『コモンセンス』が有名でご存じの方も多いと思うが念のため。

***(引用/コトバンクより)***

イギリスとアメリカ両国で活動した著述家トマス・ペインが 1776年1月フィラデルフィアにおいて匿名で出版した 47ページのパンフレット。アメリカ独立戦争がすでに始っていた当時,依然独立革命に反対する者の多い情勢をみて,アメリカの進むべき道を示すために書いたもの。政府の起源と意図,イギリス君主政治と世襲制の害悪,アメリカの現状と,独立を可能とするアメリカの実力の分析から成るこの政治パンフレットは,発売3ヵ月で 12万部を売り,大きな影響力をもってアメリカ独立運動の進展に貢献した。

***(引用ここまで)***

 こうなると自分の主張が『コモンセンス』であると宣言しているのかも知れないし、結果としてこの主張がアングロアメリカンの『コモンセンス』になったのかも知れない。

 やたらと引用が多くて恐縮だがミュージカル『ハミルトン』に関するブログがあったので紹介する。

アンジェリカの知性が光る英語訳詞①

※ https://love-performing-arts.com/the-schuyler-sisters-6-12953.html

 ここでは『コモンセンス』を読んでいるアンジェリカの知性を取り上げている。なおこの物語の主人公ハミルトンはアメリカ独立戦争を戦った実在の人物でアメリカ人ならだれでも知っている人らしい。日本ならさしづめ西郷隆盛といったところだろうか。

 さらに『アンジェリカの知性』でブログ内検索するとアンジェリカの知性が光る英語訳詞がシリーズで6件もUPされていて『コモンセンス』と共に『独立宣言』がアメリカ人にとっての教養となっていることが分る。ついでに福沢諭吉が訳して紹介していたり日本国憲法に引用されたりしていることも書かれているので興味のある方は本文に当たって見て欲しい。

Schuyler Sisters from the Hamilton Musical.

 ここにアメリカの『コモンセンス』がある。娯楽作品にも出てくる『コモンセンス』にアメリカの背骨を見る思いがする。

・・・

 前振りが長くて申し訳ないが、それでは日本では『コモンセンス』と言えるものがあるのかという本題に入りたい。松元崇氏の文章では日本的な『コモンセンス』が述べられているが、少し論点がずれているのではないかと私には思える。

 氏の文章にも『民主制」の根底にある「自由主義」(Liberalism)であろう。それは社会主義(Socialism)や共産主義(Communism)、帝国主義(Imperialism)などに対置されるもので、その「自由主義」を保証しているのは、言論の自由や独立した司法権による令状がなければ身体を拘束されないといった基本的人権である。』とあるとおり、我々の依拠している『議会制民主主義』に相容れないものを見分ける『コモンセンス』を持っているかということである。

 特に『無政府主義』についての無防備ともいえる寛容さを見聞きする度に『コモンセンス』無き国民という気がしてならない。

 ベルリンの壁が壊されソビエト連邦が崩壊して、いわゆる左翼は否定されたと思われた。社会主義や共産主義のいう『人民』は専制政治の指導に従うだけの存在で革命の主人公などではなかったことが明白となった。

 国会の三分の一の勢力を持っていた日本社会党は議席数が激減、社民党と党名を変更したものの現有議席は2議席になってしまっている。

 それではアカデミズムの世界では何が起きたのだろうか。そこで参考にしたいWebページがあるので以下に引用する。

季刊現代の理論 

論壇 

日本アカデミズムのなかのマルクス経済学

分岐と変貌   摂南大学 八木 紀一郎

※ http://gendainoriron.jp/vol.16/rostrum/ro02.php

***(引用)***

 過去に「近経」「マル経」が「対立する二つの経済学」とみなされていたとしても、両者はいずれも経済理論あるいは理論経済学に属するので、講座あるいは学科目のポストがはじめから配分されているのではない。かつては同じ「経済原論」科目について「近経」「マル経」の2教授による講義が並行しておこなわれていた(競争講義)のが、「近経」の方では国際基準に沿って「ミクロ」「マクロ」他のポストの整備が必要になり、マル経「原論」を不要とみなすようになる。守勢に立った「マル経」の側は、「経済原論」の名称・ポストを維持できない場合には、「政治経済学」「社会経済学」に名称を変えて存続をはかるか、あるいは「経済学入門」・「経済思想史」・「(各論)マルクス経済学」のように周辺に追いやられるようになったというのが多くの大学で起きた事態であろう。

***(引用おわり)***

 つまり『マルクス経済学』はメインストリートから周辺へ追いやられたのである。当然ながら『唯物史観』も同じ運命をたどったことだろう。

 政治の世界では、左翼は保守への対抗として『革新』を標榜してしていたが、『革新』=『左翼』となるために使われなくなった。

 ところが、いつの間にか『リベラル』と名乗る政治勢力や『リベラル』を自称する人がマスコミに出てくるようになったが、『リベラル』とは自由主義のことで自民党も自由主義なのだが、どうもそれとは違うらしい。これについて解説している記事を次に掲げる。

DAIAMOND ONLINE

日本で「リベラル」の定義が曖昧になる背景

仲正昌樹:金沢大学法学類教授

※ https://diamond.jp/articles/-/148907

 引用はしないが、つまりはかつての『革新系』が『リベラル系』に名称変更しただけに過ぎない。詳しく知りたい方は記事を読んで欲しい。

 彼らに共通しているのは、国家権力を市民を抑圧するものとしてとらえていることだ。松元崇氏の『受益と負担が表裏の関係にあるというのはコモン・センスだ。』は彼らには通用しない。菅総理が『自助・共助・公助』と至極当たり前の事を言うと弱者を切り捨てると批判する。

 彼らは『国民』を嫌い『市民』を好んで使う。

 グローバリズムには反対するが国境を超えたコスモポリタンには憧れを持ち『世界市民』などという実体のない言葉を使う。国境や民族、政治体制を個人を縛るものと考え個々人を縛るあらゆるものから自由でありたいと願い、ジョン・レノンの『イマジン』に共感する。愛だけが共通言語の世界など現実世界には存在しない。

 愛国心やナショナリズムを忌み嫌う。当然ながら国旗国歌にも反対である。優劣を競うことを弱者への配慮が無いと主張し運動会の徒競走から着順を無くしてしまった。だから国を代表して競技するオリンピックに至っては大反対である。機会の平等を求めるのではなく結果の不平等に異議を唱え、全体の利益よりも一部の不利益を無くせと抗議する。

 死刑廃止を訴えるのも国家権力が人命を断つ行為と捉えているからで、非常事態に私権の制限をするための法制度化には脊髄反応で反対である。コロナ禍で感染症予防法を改正してロックダウンが出来るようにしようとすると猛烈な反対をする。集団の生命の安全や公共の福祉の為であっても個人の自由を制限することを認めまいとする意識が強く、これを『リベラル』(自由主義)と勘違いしている。

 反米で沖縄の米軍基地に反対し集団的自衛権にも反対で安全保障は外交努力の一点張り。当然ながら護憲派で靖国参拝に中韓と一緒になって反対する。

 彼らに共通するのは、歴史や文化的背景を持たない空想的机上論に酔いしれる傾向だ。つまりバックボーンが無い『軟体動物』のようなものである。

 鳩山総理は地球温暖化対策として二酸化炭素の削減目標を達成するため原子力発電の比率を50%に引き上げると国連で演説して世界中に約束したが、福島で原発事故が起きると一転して菅直人総理が原発廃止を主張する。

 阪神神戸の震災の時には村山首相が自衛隊の出動を躊躇ったため4,000人以上の焼死者が出た。10年後、東北大震災が発生すると菅直人総理は30万人に満たない自衛隊に連日10万人の出動を何か月も続けるという暴挙に出る。

 スーパー堤防などの100年に一度の災害に備える国土強靭化事業を無駄な出費と糾弾したその同じ口で1000年に一度の東北の津波からの復興事業に土地のかさ上げを主導し何兆円もの税金をつぎ込んで土地造成を行なって海岸の景観を壊し海岸線から住居を遠ざけ人の住まない街をあちこちに作ってしまう。

 「性別」「国籍」「年齢」「障害の有無」など、多様な属性や個人の価値観に配慮しろと訴えて、夫婦別姓や戸籍法の廃止運動をするがその行き着く先は日本の家族制度そのものの否定だ。

 ここには『コモンセンス』には程遠い衆愚ともいうべき政治の荒野が広がっている。そもそも『コモンセンス』が無いから呆れた主張に『ナンセンス』という事も出来ない。日本人が安全に暮らす前提として国境があり国家の保護があるという事実。つまり国民国家という前提を認めなければリベラルも何も絵に描いた餅でしかない。

 私が『コモンセンス』という言葉で教えられたのは、そうした『国民国家』と『議会制民主主義』を否定する響きを持つ主張を『ナンセンス』と言える共通認識だ。名誉革命や清教徒革命を経験した英国や独立戦争を戦った米国に備わっている『コモンセンス』から謙虚に学ぶべきことがあるのではないだろうか。

・・・

追伸 福沢諭吉による独立宣言の翻訳を検索していて『翻訳通信 ネット版』というホームページを見つけました。 http://www.honyaku-tsushin.net/

 山岡洋一氏の『翻訳の歴史』/「アメリカ独立宣言」の翻訳(1)は、 http://www.honyaku-tsushin.net/ron/bn/independ-1.html

 資料3/ 福沢諭吉訳の「アメリカ独立宣言」と原文は、               http://www.honyaku-tsushin.net/bn/200812Ex.pdf

 久しぶりに読んで嬉しくなる文章だったので『翻訳の歴史』/「アメリカ独立宣言」の翻訳(1)から少し引用させて頂く。山岡洋一氏に感謝。

<引用>

 ではいま、どのような翻訳が好まれているかというと、一般には、「読みやすく分かりやすい翻訳」、別名「こなれた翻訳」でしょう。「読みやすく分かりや すい翻訳」とはどういう翻訳なのかは、かならずしもはっきりしているわけではありませんが、いま、新聞や雑誌の書評で翻訳書が取り上げられるとき、「訳文 はこなれている」とか「読みやすく分かりやすい」などの表現が決まり文句になっているのをみれば、これが常識になっていることが分かります。

 この常識が正しいと思うのであれば、翻訳者や編集者は、「読みやすく分かりやすい」翻訳を目指して、日夜努力すればいい。歴史を振り返る必要などありま せん。しかし、これが正しい方向だとなどと考えられるのでしょうか。じつのところ、「読みやすく分かりやすい翻訳」というのは、読みにくく分かりにくい翻 訳調はいやだと駄々をこねているだけなのです。過去の規範を否定しているだけで、新しい方向は何も示していません。新しい方向は何もみえていないのです。 これでは翻訳の質は高まりません。幼稚さにお墨付きを与えるだけです。翻訳に真剣に取り組もうとするのであれば、「読みやすく分かりやすい翻訳」なんぞを 目指そうとは考えません。もっと上を目指します。

<中略>

 マスコミでは、日本にオバマ氏のような力のある政治家がいないと嘆く論調が目立っています。ですが、翻訳者という立場からは、もっと気になることがあり ます。翻訳者は日本語を書く仕事をしていますから、政治よりも日本語にはるかに強い関心をもっています。その立場からいうなら、いまの日本語では、どれほ ど力のある政治家が登場しても、1回の演説で人びとに感銘を与えられるとは考えにくいと思えます。いまの日本語には、そのような力がないと思えてならない のです。

 オバマ演説を聞くと、英語が日本語といかに違うか痛感させられます。演説を聞き、トランスクリプトを読んでみてください。一語一句を正確に記録したトラ ンスクリプトが、見事な文章になっています。力があり、リズムがあり、記憶に残る文章になっているのです。演説で使われる話し言葉が、文章で使われる書き 言葉と一致していて、どちらも力強いものになっています。もちろん、オバマ氏のように、あるいはクリントン元大統領のように、優秀な話し手であれば、とい う条件がつきますが、優秀な話し手あれば、力のある演説や講演がそのまま、力のある文章になります。いまの日本語でこれが可能かどうか、考えてみるまでも ないのではないでしょうか。いまの日本語では、書き言葉と話し言葉は乖離しています。そして、おそらくはその結果、どちらも力がなくなっている。これが日 本語の現状ではないでしょうか。

 いま、日本語の書き言葉でふつうに使われている文体は、口語体と呼ばれています。明治の言文一致運動からはじまったのが口語体ですから、言と文が一致し ているはずなのですが、事実は正反対です。話し言葉は文章にならず、文章は話し言葉になりません。原稿に基づいて話そうとすると、国会の演説のように、眠 気を誘うものになります。聞き手に感銘を与えられる演説や講演などできるはずがありません。

 それが翻訳とどういう関係があるのかと思われるかもしれません。しかし翻訳には、過去150年にわたって日本語を作ってきた伝統があります。いまの日本語はかなりの程度まで、翻訳によって作られてきたのです。ですから、いま、日本語を鍛え直す必要があるとするなら、翻訳者はそのための努力の一端を担うべ きだと思うのです。

<引用ここまで>

 理路庵先生の文章によく似た息遣いを感じます。内容も素晴らしく文意が明瞭で、とりわけ音読して心地良い。

 このような文章に出会うとある種の『生きる喜び』を感じます。山岡洋一氏も"He has a plenty of common sense"なのでしょう。


・・・

 私はplenty of common senseの持ち主である理路庵先生のブログを読むのをいつも楽しみにしている。

 ブログ『CEBU ものがたり』

 https://ba3ja1c2.blogspot.com/

 セブ島に住む日本男児の叡知と忍耐と孤高の精神に感銘する。

コメント

  1. 拝見するたびにいつも頭を働かさざるを得ないブログをありがとうございます。トッポジージョさんのブログがある限り、私は認知症とは無縁の余生を送ることができるでしょう。
    さて、蛇足ではありますが、
    You should say , " Thank you." when you receive a gift.
    That's common sense. それが(人としての)常識というものだ。

    Tokyo is the capital of Japan.
    That's common knowledge. そんなの常識じゃん。

    上記のように、日本語の「常識」という言葉をすべて common sense と英訳することには、少々無理がありますね。

    トマス・ペインの「Common Sense」も然りで、言うまでもないことですが、人によってコモンセンスのあり方は異なります。
    イギリスからの独立機運が高まっていた当時の北米13州の総意を決した大きな一因となったのが、ペインのコモンセンスであることは、周知の事実です。
    独立推進派の総意とペインの説くコモンセンスとが呼応して独立が達成された。これがもし、独立反対派の総意が勝っていたら、「Common Sense」は「Nonsense」になってしまいます。双方は表裏一体です。

    日本(人)になじむような民主主義は、もちろんあります。アメリカやイギリスのそれとは違う、日本(人)に今現在根づいている政治体制が、好むと好まざるとにかかわらず、私たちの「日本主義」です。私たち国民の総意が時間をかけて創り上げてきたものです。良くも悪くも、ですが。
    日本はもっと、あえて言いますが、世界からの眼を気にすることなく、「異常な国」であってもいいのではないか。欧米流に倣う必要はありませんから。彼らのように理論だけを徹底的に闘わせて法律を作って国を動かしていくという姿は、日本(人)にはそぐわないと思うのです。以前もブログに書いたことの繰り返しになりますが。

    社会主義も共産主義も資本主義もどのような「主義」も、SNSの今の時代がさらに進行していくと、いずれはほぼ均一化されて、なしくずしにされて行き詰ってしまい、「主義」という形態よりも、上記にある松本氏の論のように「制度」化にまで砕かれて行き、その国々の国民の総意に基づき、収れんされてしまう傾向が強くなるような気もします。

    民主主義は最悪の政治と言える、云々という、チャーチルの言葉にあるとおり、うかうかしていると、トッポジージョさんの言葉を拝借すれば、「衆愚」という名のある一団の総意の動きが増殖してきて、本来の日本人のコモンセンスが損なわれてしまいます。

    衆愚の社会状況の広がりを抑えるための特効薬のようなものはありません。衆愚の対極に位置する自分なりのコモンセンスを、ぶれることなく持ち続けていくことが、せめて自分にできることとして大切なのでしょうね。

    戦うことによって独立を勝ち取った国々もあれば、日本のように戦火を交えることなく悠久の歴史の中で生きてきた国もあります。

    ミュージカル「ハミルトン」のような優れた娯楽作品に、アメリカという国の成り立ちが織り込まれていて、全米の実に多くのアメリカ人がその内容に喝采を送った。アメリカの独立精神が今も強くアメリカ人の心に受け継がれています。これはこれでアングロアメリカンのコモンセンスの一端であり良心であり、異を唱えるつもりはありませんが、ひとつだけ難癖をつけるとすれば、ジェファーソン起草による独立宣言にある「自由・平等・幸福」という表現は、彼らアングロアメリカンだけのためのもので、先住民のアメリカインディアンやアフリカから連れてこられた黒人たちの利益になるものではありません。

    最後に山岡洋一氏の「翻訳論」の件。私たちの日本語が置かれている危機的な状況を述べておられます。5月9日のコメントで、「体言止めと用言止め」云々と書きこみましたが、これはほんの小さな言葉の形態論で、山岡氏の言われる根本的な弊害などではありません。
    ま、でも、悲観することなどありません。日本語は、英語の演説に比べて、歴史に残るような演説には不向きなのかということにはなりませんから。日本語は世界に類を見ないほどの美しい繊細な言葉です。



    返信削除
  2.  理路庵先生、コメントありがとうございます。
     今週は忙しくてコメントを頂いて有難く思いながらご返事が週末になってしまいました。申し訳ありません。

     毎回、先生の見識の深さや大きさに感服すると共に勇気をもらっていることに気付かされます。
     ふと思い出した『コモンセンス』、自分の頭の中にある『コモンセンス』にまつわる様々をブログにすることで、『そうだった、こんなことだった』と整理していくので、自分の至らぬことが嫌でも表現されてしまいます。
     それでも恥ずかしさを超えて『なんとなく曖昧』に考えていたことを自分なりに整理して置きたいという欲求が勝ってしまいます。
     それは理路庵先生の的確なコメントを期待しているからです。私は理路庵先生に『自由作文』を提出している生徒のような気分でいます。そして先生のコメントを心待ちにしています。
     自分の小さな器の中で完成させた一つの文章を毎回精読してくださり、コメントを寄せていただていることに深謝いたします。
     先生の言われる『日本主義』や『日本語は世界に類を見ないほどの繊細な言葉』を噛みしめています。不思議なもので自分の考えていることへの先生のコメントから学ぶことは、ハッキリと脳裏に刻まれる想いがいたします。
     私のように視野の狭い人間は、間違うと極論に走るきらいがある。そう自覚しているのですが、生半可な知識で結論を導いてはいけないと改めて自戒いたしました。
     それにしても理路庵先生は『深い』。
     
     夏目漱石の最期を看取った眞鍋という人は、松山の中学で漱石の生徒だった人で、新任の夏目先生を困らせようとウェブスターの英語辞典で予習して待ち構えていたそうです。そして授業の途中で「先生、二か所ほど間違っちょります。」と得意になって指摘したところ、夏目先生は辞書が間違っていると即答したので眞鍋少年はそれから夏目先生に心酔して勉学に励み日本を代表する医者になったという逸話があります。
     トッポジージョにも眞鍋少年の気持ちがよく分かります。少しでも理路庵先生がコメントに苦労するようなテーマでブログを書けたらと願ってもいるのですがいつも軽く一蹴されてしまいます。
     先生のコメントから察するにさしづめ今回は60点ぐらいの出来だったかなと思いますが、先生の頭の体操に多少は役立っていると知りとても嬉しく励みになりました。

    返信削除

コメントを投稿