三者三様

  懐かしい動画があった。昭和43年8月28日放送NHK『人に歴史あり』の一コマ。

 晩年、脱疽で両足を無くしたエノケン(榎本健一)は、それでもテレビ出演を続けていた喜劇界の重鎮だった。この放送の翌々年の正月に亡くなっている。

 私の知っている人は、24秒に出てくる『私の秘密』の司会者だった八木次郎アナウンサー、31秒に一瞬映る柳家金語楼は『ジェスチャー』や『お寅さん』で有名な元落語家の喜劇役者、33秒~34秒の坊屋三郎は『クイントリックス』のCMに出ていた喜劇役者、35秒にはエノケンの隣にいる『上を向いて歩こう』の坂本九も見える。52秒に出てくる前列二人目の眼鏡の女性が武智豊子で『チロリン村とクルミの木』のアスパラガスのおばさんの声や『お笑い三人組』のおふで婆さん役で良く知っていた。他にも顔を知っている人は何人もいるのだが名前を思い出せない。名だたる喜劇人たちが一同に会しているのは、いかにエノケンの存在が大きかったかを如実に表している。

折角なので、坊屋三郎のCM『クイントリックス』

今見ても可笑しい。

 『人に歴史あり』の後半1分30秒を過ぎたあたりからエノケンが右手の方を気にする仕草を見せ始める。1分45秒に坂本九の右隣の人がエノケンに合わせないで大声で歌っていることが分る。周りの人々も笑っているのは、この空気を読めない人物が『田谷力三』だったからだ。

 私が小学生の頃、田谷力三は国立に住んでいた。正妻ではなく元芸者の女の人と暮らしているという噂だった。父親と知り合いだったので、私を見かけると蜜柑をくれたり頭を撫でてくれる優しい人だったが、田谷力三さんから蜜柑をもらったと言うと父親からたしなめられた。母親の話では『お金にルーズな人だから、高い蜜柑になっちゃうのよ』と言っていた。

 小学校の校庭で『狂犬病の予防接種』が行なわれて、注射待ちの人が行列を作っていた中に田谷力三を見つけた。皮のコートを着て黒い大型犬をつれている。周りの人とは違う雰囲気を持った人だった。昔は有名な人だったというが何をして暮らしているのか分からなかった。

 昭和40年にNHKで『風雪/浅草オペラ誕生』という番組が放送された。日本のオペラ草創期に来日していたイタリア人演出家に『日本一のテナー』として見出された田谷力三は浅草オペラの花形スターとなった。しかし、浅草の賑わいも映画という新しい娯楽におされて衰退していく、番組の最後は『田谷力三は日本の何処かで生きている』というものだった。

 その時私は『田谷力三』がどんな人か漸く理解した。昔の大スターが今は不遇の日々を送っているのだ。『田谷力三』を生きる事の大変さが分るような気がした。

 テレビの力は凄い、『田谷力三』は再び脚光を浴びることになった。その数年後にエノケンの『人に歴史あり』が放映されたのだ。この番組を何となく覚えているが、あの空気を読めない『田谷力三』は、喜劇王エノケンにとっても扱いの難しい先輩だったのだろう。

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 私は若い頃一度だけ『帝国ホテル』に泊ったことがある。名古屋に用事があった帰りの新幹線で知り合いになった男と意気投合したのだが、東京に着いたら今夜一晩付き合え帝国ホテルに泊めてやると言う。半信半疑でついていくとレセプションカウンターで何やら交渉している。そして『おい、今夜はここで泊りだ』と私を呼んだ。

 長崎出身だというが印度人との混血で浅黒く堀の深い顔立ちでとても日本人には見えない。シンガポール航空のパーサーをしていたとか、旅行会社のエージェントをしているとか名刺をいくつも出して話すのだがよく分からない。カウンターで交渉していたのは旅行会社のエージェントだから格安で泊めろといったらしい。信用してはいけない人物だと薄々気付いたのだが、ここで逃げ出す訳にも行かないので一緒に泊ることになった。

 その晩はホテルからタクシーで六本木まで出かけた。ラーメン屋で腹ごしらえをして『ガスライト』というバーへ行く。私は東京郊外で生まれ育ったが、都心の繁華街とは無縁の生活だった。夜の東京を走るタクシーから見る夜景や『ガスライト』という外人ばかりいるバーの雰囲気に酔っていた。その男はしっかり者で『ガスライトは雰囲気を楽しめば良いのだ。』とビール一杯で長居する。

 ライトが設計した帝国ホテルは明治村にいっていしまい、帝国ホテルはリニューアルされていたが、私たちが泊ったのは新設された新棟ではなくて裏側に残された古い旧館の部屋だった。それでもベッドや羽根枕の寝心地は最高で流石は帝国ホテルだなと感心した。

 翌日、部屋を退出してエレベーターに乗ると先客がいて『藤原義江』だった。立派な風貌の人だったが想像していた大柄な人ではなかった。東洋のカルーソーとも呼ばれ世界的にも有名な『藤原義江』は帝国ホテルで暮らしていた。彼が作った『藤原歌劇団』は日本の歌劇界の総本山だった。

 ホテルをチェックアウトする時に例の長崎の男が『悪いが持ち合わせがない』と言い出した。やはりそんなことだったかと思ったが、レセプションカウンターの前で言い争う訳にもいかず私が支払う羽目になった。何とか持ち合わせで間に合ったが冷や冷やさせられた。男は今後も連絡を取り合おうと言ったが、こんな男とは願い下げだときっぱり断った。結局、長崎の男の狙い通りに事は運んだのだ。

 世の中には『寸借詐欺』のように他人の懐をあてにして生きている輩がいることをその時初めて知った。高い月謝を払って世間の一端を教えてもらったのだ。その後も似たような人物に出会うことがあったが、皆同じ臭いがする。私はその度に『こいつもまた同じムジナか』と心の中で思ったものだ。 

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 それから暫くして帰宅するため中央線に乗ると『田谷力三』がいた。相変わらず革のコートを着ている。私は近づいて『お久しぶりです。』と声をかけた。子供の頃に顔見知りでもかなりの年月が経っているので直ぐには気が付かない。『国立の○○の息子です。』というと『ああ、○○ちゃん、大きくなったね。』と思い出してくれた。『田谷力三』は甲高い声で饒舌だった。地声も大きいので周りの人は話の内容から革のコートの人物が声楽家だと分かったことだろう。

 エノケンの出たテレビの話もした。『彼もねえ、惜しい事をした。』と残念がっていたが、言葉の端々から先達としての自負が窺えた。

 私は『藤原義江』に会った事を話した。『元気そうでした』と言うと『藤原君も初めはね、海の物とも山の物ともという感じだったんだ・・・』と言ってそれ以上は話そうとしなかった。私は意地の悪い話題を持ち出してしまったと後悔したが、話は続かなくなってそのまま別れた。

 これが『田谷力三』と話をした最初で最後の出来事だった。

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 『田谷力三』は日本オペラのパイオニアでテノールの歌手として生涯努力した人だという。『田谷力三』に憧れて浅草オペラに入った藤原義江は楽譜も読めなかったが持前の容姿と稀代の女たらしが幸いしてのし上がっていく。

 『藤原義江』は父親の遺産で洋行して成功を収め帰朝後に『藤原歌劇団』を設立する。それは本場のオペラを見分したことで感じたレベルの差がその理由となっている。上野の音楽学校出が主流になっていく時代背景もあった。

 三越百貨店の少年音楽隊出身の『田谷力三』は、そうした風潮に背を向けて浅草を拠点に活動を続けた。これが二人の人生を分けていった。

 世の中は移ろい易いものである。浅草オペラは日本オペラの草創期に一世を風靡したが、本場のオペラとは比べ物にもならない代物だったろう。本場を知る人がより本格的な歌劇を目指すのは当然のことだが、それは浅草の聴衆とは無縁の世界だった。

 浅草オペラはオペレッタが中心で、次第に音楽付きの軽演劇、喜劇に聴衆の好みは変わっていく。そこに登場したのが榎本健一(エノケン)だった。

 昭和9年、浅草松竹座を拠点に活躍していたエノケン劇団に映画の話が持ち込まれ、榎本健一が監督に楽譜の読める山本嘉次郎を招いて作られた『エノケンの青春水滸伝』。アメリカ映画の影響を受けたモダンな映像は当時の雰囲気をよく伝えている。

 この頃『田谷力三』は浅草の舞台ではまだ人気者だったというが、時代は既に変わっていただろう。エノケンは浅草にとどまらず全国的な人気者になっていく。

 この年の6月7日に日比谷公会堂で記念すべき藤原歌劇団第1回公演「ラ・ボエーム」が上演されている。日比谷公会堂には当時の紳士淑女が出かけた。オペラは大衆のものでは無くなりつつあったのだ。『田谷力三』は浅草の大衆に向けて精一杯の精進を続ける他に道はなくなっていた。

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 それから幾星霜、私はこれらの人達とほんの僅かな接点を持った。そして老境に至った今彼等を思い返し彼等が人生を全うした姿に改めて敬意を表したいと思う。
 最後に藤原義江のフラ・デァポロ (1931)をお聴きいただきたい。
 洋の東西を問わず女性をうっとりとさせた歌声。
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 与えられた人生を生ききるということは、どんな人生であれ素晴らしいことだと改めて思う。それを教えてくれたのが理路庵先生だ。
 セブ島に住む理路庵先生のブログは
『CEBU ものがたり』
一読をお勧めする。


 

  

 

コメント

  1. 顔は人の有り様を如実に物語ることがあります。

    たとえば、上の YouTube にあるエノケン。65歳で生を全うしたそうですが、早死にでしたね。
    エノケンは、実に「いい顔」をしています。いつの時代にも、社会のさまざまな分野には、いい顔をした人たちを多く見受けることができるものです。
    人の顔立ちは生まれてから、若年、中年、高年、老年と年を経るにつれて変化していきます。

    数十年後に、子供のころの友人に再会して、一目で見分けがつくほどに、全く変わっていない人もいれば、あまりの変貌ぶりに、別人になってしまったかのような人もいます。
    人によって顔貌の変化が異なる要因は、何なのか。その人の生きてきた人生の中味によって、大きく左右されるのでしょう。

    ひとりの人物を例に挙げます。青木功というプロゴルファーがいます。千葉県出身で、日本で頭角を現してきたころの青木氏の顔は、こういっては失礼ですが、短髪角刈りで、そこらの、ややもするとチンピラのような風貌でした。
    全米オープンでジャック・ニクラウスと激闘を演じて、惜しくも優勝は逃してしまいましたが、そのころから青木氏の顔は、次第に「いい顔」へと変わっていくようになりました。
    日本だけでなく、世界の風を身に受けるようになったことと、自身のゴルフへの一身の努力が、今現在ある青木氏の顔をつくり上げたと、私は確信しています。

    エノケンも同じように喜劇役者として、ぶれることなく、全身全霊を捧げて喜劇役者の第一人者にまで上り詰めたのでしょう。
    これと決めたら、まっしぐらに、その目標に向かって、精進する。政治家、芸能人、スポーツ選手、芸術家ーー、などなど。
    今の時代には、残念ながら、「いい顔」をした日本人をあまり見かけなくなってしまったような気がします。「いい顔」をした人々の共通点は、彼らの目の表情には、一点の濁りもない、ということです。

    どの分野でも、「いい顔」をしている人とその人の才能・力量・芸などは正比例すると思っています。

    今回のブログを拝見して、人の顔について考えさえられました。

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  2.  理路庵先生、コメントありがとうございます。
     ここ数回は固い話題が続いたので、気分を変えて『懐かしい人』に題材をとってみました。
     天才エノケン、努力の人である田谷力三、それにひきかえ藤原義江は女たちが育てた歌手で、持って生まれた容姿と女好きが幸運をもたらした。まさに三者三様の同時代人たちですね。
     
     先生が『いい顔』と書かれたので、思わず鏡で自分の顔を見てしまいました。リンカーンが「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言ったとか、締まりのない自分の顔に唖然としてしまいました。(笑い)
     
     ところで菅総理は自民党の総裁選に立候補しないことを決断しました。地元の横浜で腹心の小此木元国家公安委員長が市長選で負けたことから、菅の元では選挙は戦えないという当落線上の若手議員の突き上げに屈した形です。
     振り返れば誰もついて来なかったという事実を前に菅総理の目には確かに精気がありません。

     誰がやっても批判されるだけの損な役割をよくやったと思います。立候補を目指している面々の顔ぶれを見ると衆議院選に負けても菅のままの方が良かったのではないだろうかと思ったりしています。人様の顔のことは言えないけれど国の舵取りを任せる気にさせるような精気ある顔つきの人物がいません。

     
     
     

      

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