日本的な情緒

  七五調はなぜ心地良いのだろうかと疑問に思っていたら面白いブログを見つけたので全文引用する。

『えいご★かいご★まいご』

 七五調が気持ちよい理由 Why are we comfortable with verses in the seven-five syllable meter?

(http://home.wako.ac.jp/user/nonaka/mt/2010/11/why-are-we-comfortable-with-verses-in-the-seven-five-syllable-meter.html)

なぜ俳句が五七五で、短歌が五七五七七で、都都逸が七七七五なのか、不思議だなあとはずっと思っていたが、坂野信彦『七五調の謎を解く』(大修館書店、1996年)に出会って、だいぶ目を開かされた。これもまた、謎を満たしていたから、偶然の出会いが通り過ぎずに生まれたセレンディピティである。

音1つが2つにまとまるのが基本。2と2がまとまって4音。そして、さらにその倍の8音が基本単位だということから理が説かれる。たとえば、

びんぼう 暇なし

なるほど、2音単位でリズミカルに連続する8音は、スムーズだし、これを繰り返しても(演奏しても)ぎくしゃくしない。8音を重ねて、8+8とすると

たしかな健康 たしかな幸せ

なんてのも、なるほどね、と思える。これは「打拍」でいうと、4+4打拍になる(2音で1打拍)。だから4拍子文化論が登場するのもむべなるかな。4音(2打拍)が具合がよいから、「スポコン」「マザコン」「生コン」なんて、4音略語がはびこり、果ては「プレミアム」なんて、カナで書けば5音なのに、わざわざ1音だけ落として「プレミア」などとご無体な切り落としが決行されるわけで、その説明に、私の理系回路は納得してしまった。

さて、ここまでは分かっていても、8ではなく、7なのはなぜ? 5なのはなぜ? という部分の理路がまったく想像できず謎のままだった。詳しい話は上記の本を読んでいただかないと、私も未消化なので、うっかりした要約はできないが、要は、休止(無音)を置き、それを含めて8音(4打拍)にしているということだ。短歌形式についてまとめた部分を読むと

「短歌形式」とは、四・四・四・四・四の打拍を基本とし、五・七・五・七・七の音数を標準とする詩型である。各句とも、基本的には8音ぶんの音量をもつのです。そして、各句とも、8音に満たないぶんの音量が休止符となります。

と説明されていて、この休止符が律読の重要な要素であることが指摘されている。8音ではなく7音だと、1つ休止符が入ることになるわけだ。そうしてその7音の多くは、4+3の形に切れる場合と3+4に切れる場合とがあり、この休止という余裕が、打拍のぶざまな切れ目を防ぐのを容易にする。4+3の場合には最後に1つの休止府、後者の場合には先頭の3の前に1音の休止府をおけばいいことになる。

三味線とともにリズミカルに唄われる都都逸は七・七・七・五だが、この七・七・七・五はさらに(三・四)・(四・三)・(三・四)・五という音律数に分けられることが多い、とされる。そうすると、8音単位のまとまりの途中で休止をおかず、しかもうまく前後の休止でリズムをつくりながら、スムーズに4拍子で唄えるというわけだ。たとえば、

恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす

 であれば

 △こいに こがれて なくせみ よりも△ △なかぬ ほたるが みをこがす△△△ (△が休止府)

 となるわけで、これを

 こいにこ がれて△ △なくせ みよりも なかぬほ たるが△ みをこがす△△△

 のように唄っては、言葉が千切れてガタガタになるので、調子よく唄おうとすると、自然に最初に休止府を入れるようになるはずだ(私は気づいていなかったけど、たぶん、無意識にそうやってしまうだろう)。

 8音が基本だから、少々破調で七七八五になってもあわてることはなく、休止府を入れなきゃ、とりあえず問題ないことになる。たとえば、

惚れて通えば 千里も一里 逢えずに帰れば また千里

△ほれて かよえば せんりも いちり△ あえずに かえれば またせんり△△△

というわけで。

このほかにも、なぜ五七調ではなく、七五調が多いのか、といった説明にも、なるほどねえ、と目を開かされることが多い本だった。さすが言語学者。なんだ、言語学者って理系じゃん、と思った次第である(<だから、そういうコメントが無用な理系/文系の垣根をつくっているんだってば)。

・・・引用ここまで・・・

 坂野信彦『七五調の謎を解く』からの叉引きになってしまって申し訳ないのだが、二拍子四拍子のリズムが日本人には合っているという。欧米の三拍子(ワルツ)が日本には無かった理由も日本の手拍子文化と関係してるらしい。

 七五調と言えば多くの歌が思い浮かぶが四季折々の歌を集めてみた。

 まずは『早春譜』

 何とも文語調の歌詞が素晴らしい。

 暦の上では春でも風は冷たく鶯も鳴きたくても鳴けず、氷が解けて葦が芽を出してきたのでそろそろ田植えかと思いきや雪空にもどる。春だと聞かなければ知らなかったのに聞いてしまったから気がはやることよ。

 歌の意味はおよそこんな感じなのだが、吉丸一昌の歌詞は言葉の意味以上の抒情性があって日本人の感性に訴える。

 次に『夏は来ぬ』

 『夏は来ぬ』は『夏が来た』と意味だが『夏が来た』では語呂が悪い。やはりここは『夏は来ぬ』でなくてはならない。歌人佐々木信綱の感性が嬉しい。
 一番の『忍び音もらす』は和泉式部の「ほととぎす世に隠れたるしのびねをいつかは聞かむ」 からきていて『ほととぎすの初音』を意味している。
 三番の『蛍飛びかい おこたり諌(いさ)むる』は、『蛍雪の功』から来ていて『蛍の光』が愛唱歌だった時代には誰もが『怠り諫むる』意味を味わえたことだろう。今では卒業式でも歌わなくなったというからチンプンカンプンなのかも知れない。

 そして『里の秋』

Wikipediaの説明によれば

1945年(昭和20年)12月24日、ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。
放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われた。
1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、
2番では出征中の父親を夜空の下で思う様子、
3番では父親の無事な復員(ここでの椰子の島、船という言葉から父親は南方軍麾下の部隊にいることが窺える)
を願う母子の思いを表現している。

という歌で思わず涙がこぼれてしまった。

名曲『冬景色』

 はいだしょうこさんの妙なる歌声が素晴らしい。
 これも文語調の歌詞で『世界の童謡・民謡』から引用すると

一番の歌詞の意味
「さ霧」とは、霧のこと。秋の季語。狭霧とも書く。「さ」は語調を整えるための接頭辞。「さ霧消ゆる」で秋の終わりを意味している。
「湊江(みなとえ)」とは、港になっている入江のこと。

二番の歌詞の意味
「麦を踏む」とは、秋播きの麦が発芽した後に足で踏みつける「麦踏み(むぎふみ)」のこと。芽を踏むことで茎の伸び過ぎを防ぎ、根の張りをよくして、より多くの実がつくようになる。11月~2月に毎月一回程度行う。
「げに」とは、「本当に、いかにも」。
「小春日(こはるび)」とは、晩秋から初冬にかけての、暖かく穏やかな晴れの日。冬の季語。小春日和(こはるびより)。現代の暦では11月頃になる(陰暦10月)。
「のどけし」とは、天候が穏やかでのどかな様子。
「かへり咲(ざき)」は、ツツジやサクラ、ウメなどの春の花が小春日和に誘われて時季外れに咲くこと。冬の季語。「返り咲き」、「二度咲き」、「帰り花」などと呼ばれる。
「花も見ゆ」の「見ゆ」は、「見える」の文語形(終止形)。

三番の歌詞の意味
「雲は落ち」は、雲が低く垂れ込めること。
「時雨(しぐれ)」は、秋の末から冬の初めごろに、降ったりやんだりする小雨。
最後の2行の意味
日暮れと悪天候で真っ暗になってしまったため、里の集落もほとんど見えず、もし家の明かりが漏れ見えていなければ、そこが集落だとは分からなかっただろう(「それと分かじ」)という意味。

 日本人の心の琴線に触れる抒情歌の数々。それが七五調と結びついている事を実感できると思う。
 しかし、これは日本の近代化の過程で生み出されたもので、その根底に日本的な要素があるという事なのだ。それでは近代以前から続いているものにはどんなものがあるだろう。

 例えば、『祇園小唄』

 こんこんちきちん こんちきちん と繰り返すリズムが心地よい。これは文句なし、天下無敵だと思う。

 それから『阿波踊り・女踊り』のお囃子は
 
 お囃子が左右に分けられて女踊りが登場するまで5分を要している。
 準備が整うと満を持して女踊りの行列が進み出る。
 一糸乱れぬ群舞は壮観だ。
 どどんと すっとんとん の繰り返しリズムに合わせて笛の旋律が無限に繰り返される。夜通し見ていても飽きないだろう。女踊りの踊り手が全て笑顔なのはこのお囃子にのせられている心地良さの表れだ。

 これが江戸に下るとどうなるか『火事と喧嘩は江戸の華』、短気者の多い江戸っ子に歌舞伎の開幕を告げるお囃子がある。
『長唄・着到』

 『さあ、お待ちかね』と語りかけてくるようなお囃子で、最後に能管の甲高い一節で締めるところが様式美を極める歌舞伎らしい。

 江戸の庶民のもう一つの素顔を見てみたい。
『端唄 お江戸日本橋』

 これは何とも色っぽい歌で、
 二番の「お馬」とは、セックスをさす。「細工の松茸」とは、大森の宿でもとめた、「大人のおもちゃ」ということ。四番で平塚に来ると、この地の女たちはどんな客でも引っぱる。そして小田原評定とは、長い時間をかけてもてなしてくれる、の意である。五番の箱根の関所では、通過人の性別をたしかめるために裾をまくって検分していたので若造ではなく御新造(人妻・女)とばれてしまう三島(の女郎)。とまあ東海道色町ガイドになっていて近世の風俗が窺える。
 私もこれまでこんな歌だとは知らなかった。

 これも日本あれも日本で、日本趣味も幅があることが分る。そして最後に民謡の世界をのぞいてみたい。数多くある民謡の中で今回は『秋田音頭』を

秋田音頭(あきたおんど)は、秋田県の民謡。1663年(寛文3年)、久保田藩(秋田藩)主佐竹義隆に上覧した時に成立したといわれる。
『音頭』の元祖のような歌で様々な歌詞があるが、ある一節に

『コラ、時勢はどうでも 世間は何でも踊りッコ躍らっせ(アーソレソレ)日本開闢天の岩戸も 踊りで夜が明けた』

と底抜けに明るい歌になっている。

 ともすれば、抒情的な歌謡が日本趣味と思いがちだが、近代以前の日本は案外『底抜け』に明るい民族だったのでは無いだろうか。明治政府の行った日本の近代化は日本人の情操に大きな変革をもたらした。抒情性豊かな七五調の唱歌は音楽における『教育勅語』のようなものだ。

 江戸時代、お伊勢参りの大流行が60年周期で起きている。Wikipediaからの引用で申し訳ないが概略以下のとおり、

 お蔭参り(おかげまいり)は、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣。お蔭詣で(おかげもうで)とも。数百万人規模のものが、およそ60年周期(「おかげ年」と言う)に3回起こった。お伊勢参りで抜け参りともいう。
 お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これが、お蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しを受けることができた時期でもあった。

1650年(慶安3年) 
 慶安のお蔭参りは、記録が少なく、詳しいことはわかっていない。「寛明日記」によると、江戸の商人が流行らせたと言う。箱根の関での調べによると、正月下旬から3月上旬までで一日平均500-600人が参詣し、3月中旬から5月までで平均2100人が参詣したという。参詣するものは皆「白衣」を着ていた。
当時の日本総人口:1781万人(1650年)
発生地域:江戸

1705年(宝永2年)
 宝永のお蔭参りは、本格的なお蔭参りの始まりで、2ヶ月間に330万~370万人が伊勢神宮に参詣した。本居宣長の玉勝間の記載によると、4月上旬から1日に2~3千人が松阪を通り、最高は1日23万人である。
参詣者:330万~370万人
当時の日本総人口:2769万人(1700年)
発生地域:京都

1771年(明和8年)
 4月11日、宇治から女・子供ばかりの集団が仕事場の茶山から無断で離れて、着の身着のままやってきたのが明和のお蔭参りの始まりと伝える。
ピーク時には地元松阪では、自分の家から道路を横切って向かいの家に行くことすら困難なほど大量の参詣者が町の中を通っていった、と当時の日記にかかれている。参詣者らは「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら歩いてきた。集団ごとに幟を立てていたが、初めは幟に出身地や参加者を書いていたが、段々と滑稽なものや卑猥なものを描いたものが増えてきたという。お囃子も、老若男女がそろって卑猥な事々を並べ立てるようなものになった。
参詣者:200万人
当時の日本総人口:3110万人(1750年)
発生地域:山城の宇治 
期間:4月~7月(5ヶ月間)

1830年(文政13年 / 天保元年)
 文政のお蔭参りでは、60年周期の「おかげ年」が意識されていた。伝播地域は、明和よりも狭かったが、参加人数は大幅に増えている。
何故か参詣するときに、ひしゃくを持って行って伊勢神宮の外宮の北門で置いていくということが流行った。阿波の巡礼の風習が広まったとも言う。
参詣者:427万6500人
当時の日本総人口:3228万人(1850年)
発生地域:阿波
期間:閏3月初~8月末
経済効果:86万両以上

1867年(慶応3年)
 ええじゃないか。厳密にはお蔭参りには入らないがお蔭参りの影響を受けている。

 明治に入り、明治天皇が伊勢神宮へ行幸したのをきっかけに伊勢神宮の性質が変容し、さらに、明治政府が御師の活動を禁じたために、民衆の伊勢神宮への参拝熱は冷めてしまった。『おかげ年』にあたる明治23年(1890年)の新聞には、「お蔭参りの面影もなし」という内容の記事が掲載された。

 明治期になるとこうした爆発的な『お陰参り』は無くなるが参拝客は一貫して昭和二十年まで増え続けた。GHQの占領下では極端に落ち込みを見せたものの講和条約が発効して回復し、昭和28年には200万人を超えてその後も増加し続け、2013年にお伊勢参りをした人は1400万人に達した。(観光の原点としての伊勢参宮についての経済的・統計的考察/明治大学 政治経済学部教授 新田功より)
 
 『お江戸日本橋』という俗謡にある庶民の風俗は、特殊なことではなく一般的に受容されたもので、例えば明治政府は混浴を禁止するために躍起になるほど大らかな情景が日常だった。
 参考 日本の混浴文化はなぜ廃れてしまったのか 
    https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/8146/
 
 こうした風俗を明治政府は日本近代化の障害と考え綱紀を粛正した。戦前の『道徳教育』は大きな成果をもたらした。あの抒情歌の数々はその一助になったことだろう。
 しかし・・・
 昭和30年代まで続いた公娼制度は近世日本の名残であったし、『お上』の規範には逆らえないものの、頭では分かっていても心の底にはもっと開放的な血が躍動しているというアンビバレントな存在が人間というものだろう。

 秋田音頭の一節をもう一度
『コラ、時勢はどうでも 世間は何でも踊りッコ躍らっせ(アーソレソレ)日本開闢天の岩戸も 踊りで夜が明けた』 

 私は理路庵先生の『CEBU ものがたり』の愛読者だが、フィリピンがスペインの植民地にならず土着文化を守れたら、案外近世の日本と同じような風俗でもっとアジア的な親和性があったのではないかと想像したりする。その意味でスペイン統治の罪深さ、特にキリスト教の悪しき影響を悲しむ。

 私が子供の頃は乗り合いバスの中で堂々と授乳する若い母親がいた。これは微笑ましい光景であって羞恥心の対象では無かった。
 今更あの大らかさに戻ることなど出来ようもない。しかし、日本古来の『お囃子』にのせて踊る文化が私達に伝えている日本人のプリミティブな本質を守って行きたいものだ。

・・・
 セブ島で暮らす理路庵先生は気の向いた時にブログを更新してくれる。
『CEBU ものがたり』
 理路庵先生は正真正銘の『He has a plenty of common sense.』
 毎回の更新を首を長くして待っている。

 
  












コメント

  1. 私たちは普段、日々の営みの中で、生活のリズムを意識することは、ほとんどありません。生活のリズム、ペース、間(ま)、波長ーーーなどなどは、その時々に、私たちの感情や考えや行動を、律する、とまでは言いませんが、かなりの程度までに影響を及ぼしていることは事実です。

    2019年12月、セブ在住の日本人からのお誘いを受けて、クリスマス会に出席したことがありました。日本人が20名くらい、フィリピン人が30名くらいの集いで、和気あいあいとした時間が過ぎて、さあ、そろそろ締める時間になり、主催者の日本人が「三本締めで締めます」といって、まず、フィリピン人の前で3,4回デモンストレーションをして見本を示しました。
    「いよ~っ、パンパンパン、パンパンパン、パンパンパン、パ」これを3回繰り返したのですが、フィリピン人との間が合わずに、揃いの三本締めにはなりませんでした。そのときに、つくづく思ったものです。「国も民族も違うということは、身の回りのリズムも違うのだな」

    フィリピン人の音感は日本人以上といってもいい。その彼らにとっては、三本締めは身に沁みついたリズムではなかったために、詰まるところ、心地よい音律ではなくむしろ異音であり、変調であったと想像されます。

    日本人には、三、五、七などの奇数の方が生来、心身に刻み込まれているような気が強くするのですが、「びんぼう ひまなし」のように、偶数もまた心地いい。
    我流の強引な解釈になりますが、要は、奇数の拍の連なりの途中に偶数の拍が入り込むと変調をきたして、心地よさが減じられる。その逆もまた、同じ。

    たとえば、英語圏の人たちと話をしていて、時に、間が合わないことがあります。彼らの拍の短音・長音が、あるいは、彼らの「生活のリズム」が私たちになじんでいないからでしょう。こうした波長の違いは、日本人同士では、まず感じ取ることはありません。

    上記の「日本人の琴線に触れるーーー七五調と結びついているーーー日本の近代化の過程で生み出された」という個所は大切です。さもありなん、ということです。
    私たちに心地よさを与えてくれている今の「日本人のリズム」は、近代から現代へと世が移り変わるにつれて経済力を増強させる必要に迫られた日本人に弾みをつけるための大きな一助となった、「無意識の産物」であったに違いありません。

    今回もまた、見ごたえのある画像をありがとうございました。

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  2.  理路庵先生、コメントありがとうございます。
     『びんぼう ひまなし』でご返事が遅れ申し訳ございません。フィリピン人には『三本締め』はピンとこないのですね。我々には理屈抜きで自然に身についているリズムが所変われば異質なものになってしまう。そんな体験をしたことが無い私にはとても新鮮な視点で世界は広いなと思いました。英語圏の人と波長が合わないという話も興味深いです。
     そう言えば、先生のブログを読みながら思わず引き込まれてしまうのは、そうした文化的ギャップの海を航海しているような気分になるからだと思いました。(欧米人の書く紀行文のような)

     ブログに説得力を持たせようとYouTubeを使うのですが、良いなと思う映像は転載禁止になっている事が多く何度も張り直しさせられます。少しYouTubeに頼り過ぎかなと反省しています。
     妻が私のブログを途中まで読んで止めてしまいました。『長すぎる』の一言でした。これも反省しています。
     こんなブログにコメントを寄せてくださる先生の優しさに応えるためにも、精進して読みやすいブログにしていきたいと思っております。
     ありがとうございました。

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