濫觴を尋ぬれば 第2回 ラフカディオ・ハーン

  1984年(昭和59年)にNHKで『日本の面影』という小泉八雲のドラマが放送された。画質も録音も悪いが貴重な映像がYouTubeにUPされていたので見ていただきたい。

 番組の後半で小泉八雲が日本の将来を心配している様子が描かれている。

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『神国日本』(平凡社・東洋文庫)に以下の記述がある。
 この国のあの賞讃すべき陸軍も勇武すぐれた海軍も、 政府の力でもとても抑制のきかないような事情に激発され、 あるいは勇気付けられて、 貪婪諸国の侵略的連合軍を相手に無謀絶望の戦争をはじめ、 自らを最後の犠牲にしてしまう悲運を見るのではなかろうか

 なぜ小泉八雲がこのような心配をしたのか、歴史は彼の心配を杞憂とはせず現実のものとしてしまったのだが、そこには神道をめぐる欧米人の無理解についての危惧があったのだと私は思っている。

 ラフカディオ・ハーンは日本のよき理解者ではあったが、学者として日本学を立ち上げ権威者となった人たちからは批判されていた。

 ここで、明治期の3大ジャパノロジストと称されるアーネスト・サトウとB・H・チェンバレン、W・G・アストンとはどのような人達かというと

 アーネスト・サトウ(1843~1929)は幕末にイギリス公使館付通訳生として来日し、その並外れた語学力で、日本語を会話だけでなく自由に読み書きできるまで習得した。サトウの日本研究は外交官として必須のものだったが、さまざまな分野にわたって日本研究を進め大きな成果を残した。通訳生として始まった外交官人生でも異例の昇進を果たし1895年に駐日公使に、1900年には駐清公使に任じられた。その生涯は萩原延寿の『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』に詳しく書かれている。

 W・G・アストン(1841~1911)はサトウより2年あとの1864年に同じく通訳生として来日し、やがて長崎と神戸の領事をつとめた後、朝鮮総領事に転出した。86年に日本語書記官に昇進して再来日、89年に病のため外交官を辞めて帰国した。日本時代に『日本口語小文典』や『日本文語小文典』などを発表し、帰国後、ロンドンで出版した『日本書紀』の英訳はジャパノロジスト、アストンの名を決定付けた。

 B・H・チェンバレン(1850~1935)は1873年にお雇い外国人として来日し、海軍兵学寮で英語を教えた。83年に代表的研究と称される『古事記』の英訳を出版。86年に帝国大学文科大学(後の東京大学)で外国人ながら日本語学と言語学を教え始め、多数の日本研究書・案内書を著した。その時の生徒にかの佐々木信綱がいる。

 これらの権威者がどのように神道を理解し西洋に紹介したのか。遠田 勝(神戸大学助教授)の『西洋人の神道理解/ハーン、タウト、マルローの場合』  https://www.mugendai-web.jp/archives/1775 にはそのあたりの事情が詳しく書かれている。

 是非一読願いたいのだが、その中からハーンの神道理解がどのようなものか物語る一文をご紹介する。

 ここでハーンの「生き神様」という作品の一節を引かせていただきます。というのは、これが英語で書かれたもっとも素晴らしい神社の描写であるばかりか、この文章を読んでいくと、彼の特異な神道理解の有様がよく分かるからです。

 いかなるものであれ、純粋な神道の社は、正しく古式を守って建てられている。典型的な神社は彩色のない白木でできた長方形の建物で、窓がない。その上に大きく張り出した急勾配の屋根がのっている。切妻があるのが正面で、その正面の永遠に閉ざされた扉の上半分は、木製の格子造りになっていて、普通、何本もの角材ががっちりと直角に組み合わされている。……正面から見ると、なんとも妖しく尖った屋根と、まるで西洋の甲胄の兜にある面頬(めんぼお)のような格子の闇と、切妻の先端から高々と突き出た千木(ちぎ)は、ヨーロッパからの旅人になにやらゴシック様式の屋根の出窓を思わせるだろう。

 ここで初めて私たちは、神社がヨーロッパの人々にとって必ずしも単純過ぎるわけではないことを知ります。ここに描かれた神社は、ただ古さを誇るだけの原始的な掘ったて小屋ではありません。なぜなら、その屋根の勾配は異様にきつく、まるで天と結びつこうとするかのように、千木が高々と聳え立っているからです。しかも、その「甲胄の兜の面頬」のような格子扉は、外敵を睨みすえるように、内奥の闇を「永遠に閉ざ」しています。

 「彩色のない」というのが、三人のイギリス人研究者の描写を思わせる唯一の言葉ですが、それさえもハーンはこの後で注意深く言い換えています。

 彩色は一切なく、檜の白い木肌は、雨と陽にさらされ、すぐに灰色になる。それは自然界にだけ見られる色合いで光と水の作用によって、樺のような銀灰色から、まるで玄武岩のような薄墨色に至るまで、千変万化の彩りを見せる。

「雨」「陽」「樺」「玄武岩」という言葉にご注意下さい。明らかに彼は自然と神社の親しい関係に気付いています。それでハーンはこんなふうに文章をしめくくります。

 そういう色と形だから、人里離れた田舎にぽつりと在る神社など、到底、大工が建てた人工物とは思えず、すっかり風景に融けこんでいるから―岩や樹木と同じ自然の一部のように見えることがある。まるでこの国の古の神である大地神(おおつちのかみ)がそのまま姿を顕したように思える。

 これは単なる田舎の神社の描写ではありません。そうではなくて、ここに描かれているのは一つの神道の理念、神道の大切な要となる考え方なのです。

 神社は大地神の顕れのように見えるとハーンは言います。その神とは大地、つまりは自然の顕現に他なりません。そして彼は、この三者―神と神社と自然の間にきわめて密接な関係を見出しました。実際、あまり似すぎていて、見分けがつかないほどだと言うのです。いや、それどころかこの国の人々にとって、神と神社と自然はもともと一つのものであって、初めから区別するつもりなど毛頭ないのかもしれません。

 それではなぜハーンだけが、この神道における三位一体とも言うべき特別な考え方に気付いたのでしょう。一つの理由として考えられるのは、他の三人の学者とは違って、彼が詩人であり、ことさら感受性に恵まれていたからでしょう。もう一つは―こちらの方がもっと大切だと思いますが―ハーンが宗教的な事柄に対して、柔軟な視野をもっていて、宗教を教理や倫理といったものに抽象化してしまうよりも、広くそれを信仰する人々や社会全体から捉えようとしたからだと思います。彼は同じ作品の中でこう説いています。

 幾百万もの人々が幾千年にもわたり、このような社の前で彼らの偉大な神々を拝んできた、そして全国民が、いまなおこうした建物には目に見えぬ意識を持った人格が住み給うと信じている―この事実を思い起こせば、このような信仰を馬鹿げたものと笑うことがいかに難しいか、お分かりいただけると思う。そう、それが西洋人にとっていかに性にあわなくても……その瞬間、あなたはきっとその可能性に対しては敬意を払わねばと思うに違いない。

 ハーンが言っているのは、非常に簡単なことです。宗教を作り上げているのは―宗教であるか、ないかを定めるのは、複雑な教義や権威ある聖書の存在ではなくて、それを信仰する人々の心だ。もし何百万もの人々が何千年にもわたりそれを信仰してきたのなら、それは立派な宗教であり、それを否定しようとするのは、傲慢以外のなにものでもない。いかにそれが西洋の宗教とは異質に見えても、それに西洋の基準をあてはめて馬鹿げたものだと証明しようとしてはならない、と彼は言うのです。

 ハーンはそんな態度を戒めながら、東洋の信仰の違いをそのまま素直に愛し味わおうとしました。その共感の姿勢はひじょうに徹底していたので、彼は「神社」という言葉を安易に英語に移し変えることにさえ、違和感を覚えました。

 私たちの英語にはこうした不思議な建物を言い表せる良い言葉が見当たらない。……神社や宮といった言葉を、私たち西洋人はテンプルだとかシュラインだとか適当に訳しているが、こうした言葉に日本人が抱く考えは、実のところ完全には翻訳できない。……「神の社」は、むしろ「憑かれた部屋」(ホーンティッド・ルーム)、「精霊の部屋」(スピリット・チェインバー)、あるいは「御霊屋」(ゴウスト・ハウス)といったほうがいいだろう。……ゴウスト・ハウスならば宮や社がもつ不思議な性格を、おぼろげながらも西洋人の心に伝えることができるかもしれない。

 一方で、

 チェンバレンは彼の主著である『日本事物誌』のなかでこう述べています。

 神道は、しばしば宗教と見なされることが多いが、ほとんどその名に値しない。体系的な教義もなければ、聖書もなく、道徳さえも欠いている。……神道はいわば根無し草で、その中には何もないから、人々の心を捉えることができない。……

・・・

 欧米人にとっての日本学の権威者たちが、神道に関して否定的な態度であったことが1945年(昭和20年)12月15日の『神道指令』(SCAPIN-448)に禍根となって現実化する。

 国会図書館文教科学技術調査室の春山明哲氏の論文『靖国神社とは何かー資料研究からの視座』https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_999824_po_066603.pdf?contentNo=1&alternativeNo=

にはチェンバレン系譜の神道に批判的な学者の説が『神道指令』の根拠を形作った経緯が書かれている。これを小泉八雲が読んだら『だから言ったじゃないか』と憤慨したかも知れない。

・・・

 私は小泉八雲がなぜ日本人の心に寄り添うことができたのかを考える。そしてその一因に彼がギリシャ人であったことと何らかの繋がりがあるように感じるのはこじつけだろうか。

 ギリシャ神話には伊弉(イザナギ)伊弉冉(イザナミ)の国産み神話とよく似た話が出てくる。

 グルックのオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」は、毒蛇にかまれて死んだ妻エウリディーチェを取り戻すため、冥府(死者の世界)に下ったオルフェウスの物語を題材としたオペラ作品となっている。

「冥界から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という愛の神との約束だったが、出口まであと少しのところで、不安に駆られたオルフェウスは後ろを振り向いてしまった。

 原作のギリシア神話ではバッドエンディングとなってしまうが、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』では、自害しようとするオルフェウスを前に、愛の神は「お前の愛の誠は十分示された」とエウリディーチェを復活させ、ハッピーエンディングとなる。

 オペラ「オルフェオとエウリディーチェ」から『精霊の踊り』

 日本人にとっても『神道とは』と言われて答えられる人は少ないだろう。確固とした『これが神道』と言うべきものが無い。ところが『言霊信仰』という言葉があるほど我々日本人には人の話す言葉にさえ霊が宿るという『怖れ』『畏怖』があって、小泉八雲の言葉をもし聞いていたら『思っていても口に出してはいけません。』と言わずにいられなくなる心情が湧いてくる。
 これは遺伝子に組み込まれたとしか言いようのない感情で、西欧人に理解してと言っても無理なのは仕方がないのかも知れない。
 しかし、幕末から明治期に来日した欧米の知識人にとっては、ギリシャ神話は教養の一端であったかも知れないが、日本人の『神道』はアメリカインディアンの神々とさして変わらぬ土着文化と映ったのでは無いだろうか。

 『濫觴を尋ぬれば 第3回 神道指令』に続きます。

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 ボクシングの英雄マニー・パッキャオが次期大統領選に立候補するというフィリピン。そのフィリピンのセブ国際空港のあるマクタン島にはその昔、服従を要求するマゼランを討ち取ったラプラプ王という英雄がいたという。
 最近、そんな話を耳にして『世間は狭いな』と思ったトッポジージョ。なぜならセブ島には理路庵先生が住んでいるからだ。リゾート地にも秘められた歴史あり、フィリピン人の自負心を思った。
 そんなトッポジージョが読んでいるのが『CEBU ものがたり』理路庵先生の蘊蓄が読んでいて嬉しい。
   


 

コメント

  1. 今回のブログを拝見して、今さらながらに、日本(人)の有り様、有り方について考えさせられました。

    特定の教義・聖典を持たず、したがって異宗教を排斥することもなく、自然と人間を含む万物を崇める神道の存在は、「宗教」と名のつくもののすべてを信奉しない私にとっては、この上なく親しみを持つことができる対象です。

    万物に「祈り」を捧げるという考えは、日本(人)と日本語の成り立ちにも当然の如く影響を及ぼしてきました。
    すでに書きましたが、西洋人は他との分離によって自己の「個」を際立たせるのに対して、日本人は他とのつながりの中で自己の「個」を成立させ、日本語を生み出してきました。

    「西洋人の神道理解/ハーン・、タウト、マルローの場合」の中で、ハーンは言います。
    「神道には哲学もなければ、倫理もない。また形而上学も欠いている。そのまさしく「無いこと」によって西洋の宗教思想の侵略に抵抗できた。これは東洋のいかなる宗教もなしえなかったことである」

    他の3人ーーサトウ、アストン、チェンバレンーーの視線の先を見通していると思います。これこそが神道だ、という説明は、私にはできませんので、ハーンのこの部分に特に強い共感を覚えます。

    トッポジージョさんのご賢察のとおり、ハーンはギリシャ人であったことが、日本(人)を理解する大きな礎となったことは間違いないでしょう。

    神道は日本の軍国主義の根源だとして、GHQは「神道指令」を発令しました。対日占領政策下で、神道への締めつけも画策されはしました。
    たとえば一例として、天皇による神道祭祀の問題。天皇としてではなく「私人」としての「祭祀」を、GHQは日本政府に求めたそうです。GHQにしてはあまりにも愚案で、結果的には、有名無実となって、天皇というお立場で「祭祀」を執り行うことができたと、確か、記憶しています。

    神道は宗教ではなく、単に「無いこと」という概念が、神道を今日まで生き長らえさせた所以ではないかと思うばかりです。

    非常に貴重なハーンのドラマ映像をありがとうございました。


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  2.  理路庵先生、コメントありがとうございます。
     『神道は宗教ではなく、単に「無いこと」という概念が、神道を今日まで生き長らえさせた所以』との先生の言葉こそ事の本質だと思います。
     
     明治5年に日本アジア協会(Asiatic Society of Japan)という学術研究団体が立ち上げられていてアーネスト・サトウ、ウイリアム・アストン、バジル・チェンバレンが日本を研究し欧米に発信し始めました。
     中でもチェンバレンは、明治19年(1886年)に森有礼の推薦で帝国大学日本語学および博言学(後の言語学)の初代教授に就任、『日本言語学の父』と言われるほどの影響力を持ちます。
     しかし、チェンバレンは英国に戻ると「日本事物誌」を著して日本文化をこきおろしています。
     私はここにこそ濫觴があると思っているのです。それは、理路庵先生が以前に書かれていた白人の抜きがたい偏見が底流にあると思ったからです。
     チェンバレンが『神道』を理解しなかったこと。ラフカディオ・ハーンが学者として彼ら特権的研究者から認められなかったことが、日本の不幸では無かったかと思います。
     これは欧米から見た日本の姿の基本的問題で今日まで続いていると思うのですが、一方で日本の内側でもチェンバレンを権威としてラフカディオ・ハーンを低く見る傾向があり、それが極端に現れているのが『神道』なのだという問題意識が私にはあります。
     今朝、秋篠宮眞子内親王の結婚報道がありました。お支えするべき宮内庁が小室圭なる人物の内部調査を御座なりにしたことや上皇様の教育係だった小泉信三のように皇室に対しても苦言を呈する人物の不在が言われていますが、内親王の結婚に際して儀式も行わず一時金も支払われないことの重大さに言葉も出ません。
     それが『国民の理解が得られない』という秋篠宮がいうところの理由で政府決定を暗黙の裡にしてしまった菅内閣は、将来の皇室に大きな禍根を残してしまったと思います。今後は内親王の結婚の度に『一時金を受け取るのか』『国民の理解が得られるのか』という言葉をメディアが徒に使って報道する道を開いてしまった事を意味していて、左翼系メディアの『してやったり』という顔が見えるようです。
     神道は『皇室』と不可分の関係にあり、神道をカルトとして断罪するのは皇室への崇敬を前時代的なものとして国民の潜在意識に植え付けていく効果が大きいと思います。
     戦後70有余年を経て、ついにここまで来てしまったかとの思いにただただ立ち尽くす思いが致します。
     『神道は宗教ではなく、単に「無いこと」』という深い意味を日本人が噛みしめることが出来る日が来ることを祈りたい。
     
     

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