濫觴を尋ぬれば 第3回 神道指令

 日本IBMの企業冊子『無限大』WEB版から前回は『西洋人の神道理解』を見たが、今回は同じく『無限大』にあった『ハーンと日本 一つの解明の試み』を紹介したい。

  https://www.mugendai-web.jp/archives/1762

 プリンストン大学のアール・マイナー教授の書いた文章だが、読んでいて目頭が熱くなるのを覚えた。

(引用)

 ここに描き出された人間像は、どの国をも自分の故国だと全面的に言えない人の像であるが、このことがハーンの限界と同時に彼の偉大さを生む理由だと思う。西洋における故国の不在は彼の日本を故国とする下地を築いた。となると問題は、日本は彼にとって何だったのかということになる。それが何であったのかを証する最も優れた証拠は彼の妻が語った思い出であろう。ハーンをからかいながら、彼女は次のように言った。

 「あなた西洋くさくないでしょう。しかし、あなたの鼻」などと冗談申しますと「あ、どうしよう、この鼻、しかしよく思うて下さい。私この小泉八雲、日本人よりも本当の日本を愛するです」などと申しました。

 実際、ハーンは日本を全身全霊を捧げて愛しました。しかし、彼の日本に対する真摯な愛情は、日本人にはあまり理解されませんでした(56)

 この最後の一文「しかし、彼の日本に対する真摯な愛情は、日本人にはあまり理解されませんでした」は重大な意味を含んでいる。ハーンが日本人ではないという、まさにそのことをこの文は示唆している。そしてそのことに関する限り、この回想は話し手である妻自身もまた完全な日本人であることを止めたということを示唆している。彼女もまた一箇所に自分を留めていた文化の鎖から解き放たれ、夫同様、大陸と島々の間を行き来する船となったのである。夫が日本に近づき、妻が夫に近づき、双方が接近し合って互いの内をあたかも霊のように通過し合う姿には、深く心を動かすなにかがある。彼の妻に対する愛情を云々するまでもない。さらに重大な点は彼の日本に対する愛情である。彼に共感を抱く読者もまた、日本を愛すること、文化の鎖を尊重し、どこの国の旗も掲げずに、西洋の大陸と日本列島との間を行き来することを学ぶであろう。ハーンの道を進む者は、西洋と日本についてしばしば痛ましい思いを抱くだろうが、「東洋的」や「西洋的」を、チェンバレンの用いる意味にではなくて、ハーンの用いる意味で考えることによって変わらぬ忠誠を保つことであろう。

 この論文は、ここで終りにするべきかもしれない。だがハーンに関して、誠実かつ率直であろうとするならば、私は自分自身に対しても誠実であるべきであろう。私はハーンのことをいまここで述べたような複雑な態度でいつも感心して考えてきたわけではないのである。この時点でも彼の著作の題にはばら色のかすみがかかっているように思えてならない。そのばら色の題は、秘められ、失われ、慈しまれたものに対する憧れを伝えている。彼のスケッチは他人に日本を説明しようする努力の結果であり、同時に日本を自分に回復しようとする努力の結果でもあった。彼の浦島太郎のように、彼は全てが煙となって消えてしまうかもしれないという危険をみつめていた。それは、彼が人生の終りに近づき、また『日本―一つの解明の試み』を仕上げようと奮闘していた際に、日本がやがて迎えるであろうと彼が予見した危険なのである。この題は彼の著作すべての題として相応しいものであり、また謙遜な題ではあるが、彼が心の底からこれを書く必要にかられていたことを隠せない。ハーンが松江に着いてから百年後、日本は彼が起きることを予見した変革を、たとえどういう結果をその変革がもたらすかを彼が予測できなかったにせよ、経験したのである。

 人には人それぞれの松江到着の経験があるはずである。到着が早過ぎたと感じる人もまたいることだろう。自分の到着は遅すぎたと感じる人は確実に多いに違いない。ハーンは彼にとって実に適切な時期に松江に着いた。私たちが自分たちを―少なくとも私が私自身を―見直してみると、問題は私たちが今の時代のかすみを見透かして、日本(その他のいずれの国でもよいが)をそのまま受け入れつつしかも厳密に解明を試みることができるかどうかということなのである。いつの日か誰かがハーンの著作とトクヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』とを比較するであろう。その日が来るまで、私たちはトクヴィルとハーンの足跡を辿る。私たちの視力は、ハーンの必要と洞察が彼にもたらした視界そのものを形成することはできない。しかしながら、彼の来日から一世紀が経った今日、私たちが小泉八雲という名で生涯の漂泊を終えた流浪者の精神にのっとって、日本についての我々流の解釈を試みないとするならば、私たちは人間としてより貧しい者となるであろう。(平川節子訳)

(56)Life and Letters of Lafcadio Hearn, Elizabeth Bisland編、全四巻、(Boston and New York: Houghton Mifflin, 一九二三)、第一巻、一四〇ページ。Things Japaneseの中に、少なくとも一九〇五年の版にはすでに出ている、チェンバレンの説明もある。そのクライマックスにはつぎのように書かれている。「ラフカディオ・ハーンは他のどの作家よりも、現在の日本を理解しているし、私たちにも理解させる、なぜなら、日本を私たちより愛しているからだ」。言い得て妙である。そしてこの記述の締め括りは他の根拠を示している。「異論を唱えたいことがただ一つある。それは、彼が日本人を正しいと弁護するに際に絶えず彼自身の属するヨーロッパ人を悪者としているように思われる。…しかしながら、ヨーロッパ人は、自分のことは自分で始末をつけることができるのである。もしもこれが、文学と民族学のかくも素晴らしい天才の代価ならば、私たちは不平を言わずに払うべきだろう」。(六五ページ)ハーンを叙述すると同時に、チェンバレンは、無意識のうちに、正確に彼自身のことも述べている。

 なお、ここに引かれている個所はビスランドが節子夫人の思い出として英訳しているが、前掲の『思い出の記』には見当たらない。(訳者注)

(引用ここまで)

 ここでハーンの予言が的中した事をもって教授は論文を終えている。そこにはチェンバレンとの対比も含めた感慨がある。私はここでトクヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』に比肩するものとしてラフカディオ・ハーンの著作を取り上げていることに思わず目頭が熱くなったのだ。

 余談だが、ハーンが「世界で最も賢い人」と呼ぶハーバート・スペンサーについて面白い記事がWikipediaにあったので紹介したい。

日本におけるスペンサーの受容

1880~90年代の明治期日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、「スペンサーの時代」と呼ばれるほどであった。たとえば、1860年の『教育論』は、尺振八の訳で1880年に『斯氏教育論』と題して刊行され、「スペンサーの教育論」として広く知られた。その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた。板垣退助は『社会静学』(松島剛訳『社会平権論』)を「民権の教科書」と評している。 1883年、森有礼の斡旋で、板垣退助がスペンサーと会見した時、板垣が「白色人種の語る自由とは、実質としては有色人種を奴隷の如く使役した上に成り立ってる自由であり、これは白人にとって都合の良い欺瞞に満ちた自由である」と発言したことに対して、スペンサーは、「封建制をようやく脱した程度の当時の未だ憲法をも有していない日本が、白人社会と肩を並べて語るには傲慢である」と論を退け、板垣の発言を「空理空論」となじり、尚も反論しようとする板垣の発言を制し「NO、NO、NO…」と席を立ち喧嘩別れのようになる一幕があった。このようなことがあった事から、日本では欧米諸国に追いつくよう、社会制度の研究が緊急課題となり1886年には浜野定四郎らの訳によるスペンサーの『政法哲学』が出版されるようになった。

(引用ここまで)

 余談ついでに、日本の国語を英語にするように主張した森有礼の「神道の中心思想は死者に対する敬虔な崇拝だ。日本の現絶対主義的政権を維持するために政府が巧みにこれを政治利用したことは実に正当だったと考えるが、日本の初期の歴史記録とされている書物は信頼に値するとは到底言えない」という発言がアーネスト・サトウの『神道論』で紹介されている。これがチェンバレンやアストンの『日本アジア協会 会員』に与えた影響の大きさを思うと迂闊なことをしたものだと思う。

・・・

 又しても前置きが長くなってしまったが本題に入りたい。

 昭和20年12月15日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は日本政府に対し、SCAPIN-448『国家神道・神社神道ニ対スル政府ノ保証・支援・保全・監督及ビ弘布ノ廃止ニ関スル件』を発した。

 これは覚書の体裁をとっているが、対日指令としての命令書であり『神道指令』と言われたものである。

 詳しい内容は以下のブログを参照して欲しい。

 風社 【神道指令】原文(英語文)・日本語文・現代語訳

 https://kaze-yashiro.com/shinto-directive/

 一部を引用すると

1.

国家が国民に対して、「信仰する宗教の指定」や「祀りごとにおいての形式の選択」を強制することから開放するために

戦争犯罪・敗北・苦悩・困窮等の現在の悲惨な状態を招いた、イデオロギー(政治的・社会的思想)による強制的経済負担を取り除くために

神道の教理や信仰を歪めて、国民を騙し侵略戦争に加担させるために軍国主義的・過激な国家主義的宣伝に利用するようなことが二度と起こらないように

新たな教育によって国民生活の永久的平和と民主主義という理想の、新たな日本の建設を実現するための計画に対して国民を支援するために

ここに指令を発する

(中略)

c.

神道の教義・慣例・祭式・儀式・礼式については、軍国主義的・過激な国家主義的なイデオロギー(政治的・社会的思想)の宣伝や流布に利用することを禁止し、即刻停止を命ずる

また、神道に限らず他のいかなる宗教・信仰・宗派・信条や哲学においても、同じく軍国主義的・過激な国家主義的なイデオロギー(政治的・社会的思想)の宣伝や流布に利用することを禁止し、即刻停止を命ずる

(中略)

e.

内務省の神祇院じんぎいんは廃止とする

また、政府の他のいかなる機関も、神祇院の現在の機能・任務・行政的な権限を代行することは認めない

そして、税金によって成り立ついかなる機関も同様とする

(中略)

全面的部分的を問わず、公的資金によって成り立つすべての教育機関において、現在使用しているすべての教師用の教科書・参考書は調べ改める

そして、その中よりすべての神道教義を削除する

また今後、こうした教育機関において使用するために出版されるすべての教師用教科書・参考書においては、神道教義が含まれてはならない

(中略)

(2)

全面的・部分的を問わず、公的資金によって成り立つすべての教育機関において、神道神社参拝や神道に関連する祭式・慣例・儀式を行ってはならない

また後援してはならない

(中略)

k.

全面的や部分的に限らず、公的資金により運営される役所・学校・機関・協会などの建物の中に、神棚や国家神道として象徴となるすべてのものを設置することを禁止する

また、それらのものを直ちに除去することを命令する

(中略)

m.

日本政府・都道府県庁・市町村の国家公務員・地方公務員は、その資格を得たときに神に報告するために神社を参拝してはならない

また、政治の現状を神に報告するために神社を参拝してはならない

また、政府や役所の代表として、神道のどんな儀式や礼式であっても、これに参列するため、どこの神社にも参拝してはならない

(中略)

2.b

この指令は、神道に関するあらゆる祭式・慣例・儀式・礼式・信仰・教え・神話・伝説・哲学・神社・物的象徴に、同じ効力を持って適用する

2.c

この指令において国家神道とは、日本政府の法律と命令により区別された神道の一派である

これは、宗派神道・教派神道と区別される

そしてこれは、一般に国家神道・神社神道として知られる、非宗教的な国家的祭祀さいしとしての神道の一派である

2.d

宗派神道・教派神道とは、一般民間においても法律上の解釈によっても日本政府の法令によっても宗教として認められてきた(十三の公認宗派として)神道の一派を指すものである

(引用ここまで)

 宗派神道と教派神道とは同義語で出雲大社教、黒住教、御嶽教、實行教、神習教、神道大成教、枎桑教、神宮教、金光教、神道修成派、天理教などの神道系宗派を指す言葉で、これらは新興宗教を含む小さな信仰集団で国民一般に受け入れられていたものではないが、これら神道系宗派を保護する一方、それ以外の古来から存在する神社神道=国家神道について一切を認めないと読める内容になっている。

 つまり、神社神道を国家神道であると規定し軍国主義の根本であると決めつけているのだ。

・・・ 

 ここで神道指令が発せられた三日後の帝国議会議事録を見てみる。

 昭和20年12月18日 第89回帝国議会 衆議院

 昭和二十年勅令第五百四十二号(ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件)(承諾を求むる件)委員会 第6号 議事録

010 江口繁

 三點に纒めて總理大臣に質問したいと思ひます、・・(中略)・・・第三は、日本國民の信仰の問題であります、成程國家神道が行過ぎたる所の軍國主義者に依つて國家民族の運命を誤つたと云ふことに付ては、我々大いに反省しなくてはならぬ、併しながら我々民族三千年の神ながらの大道と云ふものは、決して眞意を世界に誤解せしむべきではないと私は信じて居る、此の我々の神ながらの道と云ふものは、萬邦共榮、世界恆久平和を目指して、眞に人類の幸福を齎すと云ふことが、我々の神ながらの道であると私共は確信して居ます、之を誤つて國家神道なるものをして覇道的なる軍閥者流に依つて、今日の悲運に際會せしめ、非常に誤解を、生ぜしめて居る、之を拂拭して、本然の姿に於ける日本國民の信仰を確立しなければならぬと思ふ、此の信仰は成程各民族自由であります、各國家自由でありませうが、正しい信仰が益益高められて行く所に、人類の本當の理解と同情と平和と云ふものが出來て來ると考へる、此の正しい民族信仰を益益指導助長せらるべきであると思ひますが、此の點に關する政府の所信を御聽きしたい

012 前田多門(文部大臣)

 尚ほ第三に御指摘になりました、國民が信念を失つてはならないと云ふ點に付きまして聊か補足申上げたいと思ひます、それは御説の通りでありまして、斯う云ふ新事態に直面して清算致さなければならないものは澤山ございますが、清算すべきものは夾雜分子でごさいまして、本當の日本人の氣持、其の氣持の中に世界の平和と兩立し得べき又日本ならではないやうな特殊の國粹とも言ふべき所の良き精神があるのでございますが、是は益益培養致さなければならないと考へるのでございます、御指摘になりました神ながらの道と云ふのも解釋次第に依りましては、非常に獨善的な夜郎自大的な思想に依つて解釋をする向もあのでございまするが、恐らくは御述べになりましたやうな、神ながらの道と云ふのは、所謂清明心、清き明かなる所の心、和魂と云ふやうなものに因由して居るものであらうと思ふのでありまして、それ等の點に付きましては、之を益益育成致しますると共に、其の持つて居りまする意味を諸外國に能く理解して貰つて、外國に能く理解の出來るやうな道で我々は立つて行かなければならぬと思ふのであります、さう云ふ方面に付きましては、今後も努めて努力致したいと考へて居る次第でございます

・・・

 前田文部大臣はまるで小泉八雲のような答弁をしているので、GHQの真意をよく理解していない事が分かる。結局、前田文相は公職追放の憂き目に合ってしまう。

 事態はそんな悠長なことでは無かったのだ。

『神道指令』第2項 c.において

The term State Shinto within the meaning of this directive will refer to that branch of Shinto (Kokka Shinto or Jinja Shinto) which by official acts of the Japanese Government has been differentiated from the religion of Sect Shinto (Shuha Shinto or Kyoha Shinto) and has been classified a non-religious cult commonly known as State Shinto, National Shinto, or Shrine Shinto.

 の中で a non-religious cult を『非宗教的ナル国家的祭祀』と政府の発表文では翻訳されているが、実際は天皇の「皇室祭祀」は、宗教の範疇に入らない遅れたアニミズム、未開社会の風習なので「非宗教的ナル国家的カルト(non-religions national cult)」と切り捨てたものではないかという指摘がある。(GHQの宗教政策―「神道指令」と「皇室祭祀」をめぐる諸問題―  日大総研大学院(院) ○岡崎 匡史 日大生産工 森山 茂)

 翻訳の妥当性は私には分からないが、現実にはそれに近い認識がGHQにあったことは事実だろうと私は思っている。マッカサーは靖国神社を焼き払うことを本気で考えていたのだ。

 さて『国家神道』という日本人一般が知らなかった名称の使用と『国家神道』と『神社神道』の混同があることから分かるのは『神道指令』を作成したバンス博士が参考にしたホルトムの神道研究に影響を与えた加藤玄智の思想を日本政府の基本政策と見ていた可能性が高いことを裏付けている。

 その間の事情は 新田均(皇學館大學)の『加藤玄智の国家神道観』において詳細に述べられている。

 参照:http://religiouslaw.org/cgi/search/pdf/199508.pdf

 あまり知られていないことだが、戦前には東京帝国大学文学部に『神道講座』がおかれていた。

 この講座の宗教学講師として活躍したのが加藤玄智である。だが、加藤は学究の徒というよりも運動家に近い側面を持った人物で政府の神道を非宗教として扱う施策に対して批判し、国教としての『国家神道』確立を唱えていた。

 しかし、これは一度として国の方針となった事は無く、それ故に加藤は自分の思想を広めようと多くの著書を世に送り出していて中には英文の著書もあり、チェンバレン系列の宗教学者ホルトムの研究対象ともなっている。

 『日本人の国体信念』(昭和8年)から一部を引用すると

「日本では、皇道即神道、神道即皇道と云うことになるのである、なんとなれば、日本の道は皇道の道であり、同一天皇を人と見奉れば君即ち皇の道、即ち皇道と云うことになり、之を神と見奉れば、神の道、即ち神道と云うことになる・・・但し皇道即神道と見ることの出来るのは、神皇奉戴という我が建国の根本精神から由来するのであるから、詳しく云えば之は国家的神道と呼ぶ可きものであって、その本質は我が建国の精神、国体そのものに淵源している。此の故に、その無形の本質、形而上的方面は国体神道と云って然るべきものであるし、その形而下の具体的表象は神社の建物に於いて表されてをるので、此の方面は神社神道と称して差支無く、此神皇教国体神道が具体的に表れた神社の好典型は、古い所では伊勢皇大神宮であり、新しい所では明治神宮である、その他国弊社より府県郷村社の末に至る迄、皆この国体神道を、多かれ少なかれ、象徴してをるものである。」

(引用おわり)

 これは先の新田均教授によれば、昭和7年に起きた上智大事件に代表される神社参拝問題等、神社対宗教の問題が頻発する中で、それらの解決を目指して書かれた。本書の基本的な主張は、こうした神社をめぐる問題の頻発する状況を政府が従来とって来た神社神道非宗教論の破綻と捉え、国家的神道を正々堂々と国民誰もが信仰すべき国教であると宣言せよというものであった。

 東京帝国大学でおよそ学問とは縁遠いこのような国粋的アジテーションが行なわれていることに驚くが、このような時局に流される一派はいつの時代にも必ずいる。問題はこのような『浮かれ者』が思いもよらぬことに、関東軍の暴走を止められなかった石原莞爾等の陸軍将校に大きな影響を与えてしまうことだ。陸軍が『統帥権干犯』を侵しておきながら、内閣に対して『統帥権干犯』を持ち出して政治の局外に軍部を置いてしまう。(注)

 これでは米国から見れば統治機構としての日本政府の不全さの原因が『神道』にこそあると考えたのはある意味必然かも知れない。

 明治憲法の起草者である井上毅が『信教の自由』を近代国家の基本と捉えていた歴史的事実が奇しくもこの加藤玄智なる人物から反射的に浮かび上がってくるのだが、それは改めて述べることとして、米国における日本研究、取り分け『神道』研究者のホルトムには加藤玄智の『国家神道』が都合の良いアイテムになってしまった。つまり、E・H・カーが言うところの記述者の主観にとって待ちかねた資料を提供してしまったことになる。

 歴史の皮肉を想うのは私一人では無いだろう。東京帝国大学は戦前『神道指令』を準備し、戦後は『超国家主義』批判の急先鋒となった。ラフカディオ・ハーンを追い出したこの大学の罪深さにため息が出る。

 第二次大戦中の1943年(昭和18年)4月24日、昭和天皇靖国神社御親拝。

ニュース映像のアナウンスは以下のとおり

大君に命捧(ささ)げた尽忠興亜の英霊19987柱を、新祭神として斎(いつき)参らせる招魂の儀は4月22日靖国の神域においていと厳かに執り行われました。

神苑に夜の帳(とばり)深くたれこめる定刻、庭燎(ていりょう)既に消えて聖域を包むぬばたまの浄闇のうちに、神々しい警蹕(けいひつ)の声、柏手の嵐、あふるる涙ぬぐいもあえず、瞳をこらす遺族4万。今ぞ御羽車は粛々と進む。

招魂式の感激今だ覚めやらぬ、臨時大祭第2日の24日、かしこくも天皇陛下には聖域に行幸あそばされ、今は靖国の神として神鎮まる新祭神の前に親しく御拝あらせらる。

至尊の竜顔を咫尺(しせき)の間に拝する遺族はただただ感泣、寂として声なく感激の涙をのむ。

次いで皇后陛下には新緑の若葉萌え競う大路の下、父を、夫を、子を大君の醜(しこ)の御盾と捧(ささ)げまつった誉れの民草奉拝のうちを神苑に行啓あそばされ、親しく尽忠護国の英霊に御直拝あらせらる。

この光栄の前日23日帝国陸海軍部隊は戦友の神前に勇戦奮闘を誓う。大祭の花火青空にこだまして、一億の真心はひたすら九段へ、靖国の森へとひきもきらず、英霊よ安かれと祈り奉る。

・・・
 チェンバレンやホルトムがこの光景を見れば、おぞましいカルトと感じるかも知れない。そして現在の若い日本人も軍国主義が前面に立って見えてしまうだろう。
 それはこの国の戦後の歩みが戦前を全否定した事の結果なのだが、その端緒となった『神道指令』に対して前田多門文部大臣が『神道に対する誤解』が原因だと心底思っていたことに当時の一般的な日本人の心情を見る。
 心の中で『誤解だ』と思いながらも逆らえない中で、『皇室』も『神ながらの道』も守ろうと右往左往した当時の為政者たちの狼狽は想像に難くない。何とかこの危機が去るまで首を縮めて厄災が過ぎるのを待ったのだろう。
 しかし、誤解が元であったとしてもアメリカが数年かけて準備して来たことは徹底していた。
 日本国際情報学会誌に掲載された『銅像の行方』(増子保志、加藤香須美)によれば、①GHQは銅像等の非軍国主義化のため、様々な調査に基づき占領政策への悪影響を防ぐために表面に出ずに日本政府の背後で政策を遂行する。
②日本政府の役人は銅像を残すことに懸命で、GHQ は監督を強化しようと考えているが、日本国民への GHQ に対する悪感情を醸成することを嫌い、指令を出せない。
③しかし、役人が残置に懸命になっている銅像は殆ど日本国民の関心を呼んでおらず、識者も反対していない。
④日清・日露戦争を現す銅像・記念碑を撤去するなど、ロシア・中国への配慮が見られる。
⑤あからさまに軍国主義的な銅像・記念碑は撤去されたが、当時の人々にとって「どうでもいいもの」は残置された。
 その結果、1950年のCIEの報告書で、軍国主義的な疑いがあるとリストに載った「5613 点の記念碑、彫像のうち、354 の彫像は撤去され、890 の記念碑と 17 の彫像はあまり目立たない場所へ移動され、908 の記念碑と 29 の彫像の外観は変更されるか、あるいは銘が変更された」。
 『神社』もこれらの銅像・記念碑と同じ認識の元にあったと言える。何故なら『神社神道』=『国家神道』=『超国家主義』=『軍国主義』という単純化された構図がGHQの根本にあったからだ。 

 『神道指令』は講和条約が発効した時点で無効となっている。だからこそ、GHQが居なくなった昭和27年から昭和50年の三木総理の『私的参拝』まで静かな8月15日が続いたのだ。
 しかし、彼らの占領政策の成果は戦後30年の間に見事に育っていた。

・・・
 私は三木の『私的参拝』にある種の違和感を感じたことを思い出したのがこの稿を書く動悸になったのだが、あの日の事を回想している新聞記者がいた。
『日本記者クラブー取材ノート』記者たちの夏1975年:三木首相靖国「私人参拝」ぎりぎりの決断(髙橋 利行)2015年8月
https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/34757
 
 私は結婚する直前、靖国神社にお参りし「英霊の尊い犠牲のおかげで結婚します。幸せになります」と誓っている。なぜ、これほど大騒ぎするのかと思っていた。

・・・ 

 この前の年、自民党は靖国国家護持法案を初めて提出している。だが、成立させることはできなかった。だから遺族会は現職首相の「公式参拝」を強く求めていた。

 5月には稲葉法務大臣が自主憲法制定国民大会に出席した件で社会党から追及を受けて『私人』と逃げたが逃げきれず社会党の意向に沿った答弁をしている。

 6月、佐藤栄作元総理を『国葬』ではなく『国民葬』に格下げした三木総理は、葬儀当日、葬儀会場の日本武道館の玄関で喪服を着て近づいて来た右翼(赤尾敏の大日本愛国党書記長 筆保泰禎)に2発殴られていた。

 右にも左にも『良い顔』をする人間の姑息な手段が『私的参拝』だった。私にはそう思えた。そしてこれが蟻の一穴になってしまう。

『濫觴を尋ぬれば 第4回 太平洋戦争』に続きます。

・・・

(注)若槻内閣が満州事変の戦線不拡大方針を決定しているにもかかわらず朝鮮軍が独断で越境してしまった時、若槻は『出たものは仕方なきに在らずや』と言い問題にしなかったが、昭和天皇は上奏する若槻に『不拡大方針を徹底せよ』と注意される。さらに金谷範三参謀総長が朝鮮軍出兵の追認の裁可を仰ぐと、天皇は極めて不機嫌な様子で『将来を慎め』と叱責した。

・・・

 今回も長いブログになってしまい申し訳ありません。前置きが長くなってしまったのは、アール・マイナー教授の論文を読みながら、異国の地で日本を愛して止まない理路庵先生が小泉八雲の精神と重なったからでもあるのです。

 理路庵先生のブログ『CEBU ものがたり』は

 https://ba3ja1c2.blogspot.com/

 先生の卓見に触れられることを強くお勧めします。

 


  

 

コメント

  1. 日米大戦で日本兵の勇猛果敢な戦闘能力を目の当たりにしたアメリカは戦後の対日占領政策の重要な柱のひとつに「神道指令」を掲げ、「神道」が日本軍国主義を助長したと断じ、日本人の精神性を改造しようと図りました。
    神道指令は昭和27年に日本が主権を回復した後に失効したとはいえ、日本(人)の心の核となる部分に傷をつけてしまうほどの影響を残したのです。

    我流の解釈になりますが、私にとっての神道は、国が管理する「国家神道」でもなければ、いわゆる「教派神道」でもなく、日本古来から在る「自然物への祈り」であり、素朴な民俗信仰を意味します。
    教祖も教義もない、私自身の心の中にある無形の「心根」あるいは「魂」そのものが、「神道」だと理解しています。(上述の前田多門文部大臣のような考えではありますが)
    神社に参拝する行為は、したがって、私にとっては、自分の心の中の「心根」あるいは「魂」と向き合って、祈りを捧げるということになります。

    総ての日本人とは言いませんが、実に多くの日本人にとって、教祖や教義を有する宗教は不要ではないか、と常々思っています。
    その理由のいくつかを挙げます。日本人は歩きながら唾を吐かない、下水溝にゴミを捨てない、ゴミをきちんと分別する、極めつけは、福島原発災害で放射能汚染を逃れるために避難してゴーストタウンと化した街町での略奪行為が非常に少なかったこと、ーーーなどなどです。

    それが、どうした? と思われる方が多いかも知れませんが、このような国(日本)は、世界広しといえども、ほんとうに少ないのです。誰に先導されたわけでもなく、命令・指示を受けたわけでもないのに、自らが考えて行動した結果なのです。外国ではめったに見られない風景なのです。なればこそ、多くの外国では、教祖・教義に従う宗教を必要とし、自分たちの生活を律しているのです。

    さて、日本人の多くは神道の風習を生活の一部として、たとえば、新年の初もうでや七五三などを、現代にいたるまで継承しています。神道の最もおごそかな祭祀は、皇室に於いて、今も脈々と息づいていて、私たちにとっての心のよりどころとなっています。

    神道指令は、思うに、GHQにとっては、完全に周知徹底することができなかった、という意味では、愚作であったかも知れません。神道とその関連神社・祭祀の全ての根絶を、当初GHQは意図していたはずなのですが、中途半端であいまいな結果を残したまま今日に至っています。(そもそも、人の心の中の、ハーンの言葉で言えば、「無いもの」を除去することは、所詮は無理な話です)

    とはいえ、神道指令の「置き土産」は、私たち日本(人)に今もって、そして、これからも、重い問題を突きつけていることに変わりはありません。
    またしても、靖国神社参拝問題。GHQによる半ばお仕着せの日本国憲法の20条にある【信教の自由 国の宗教活動の禁止】の条項は、解釈によっては、天皇、政治家・一般の日本人の参拝、また、御玉串料の奉納などは違憲とされかねない危険をはらんでいます。

    日本人が靖国神社に参拝することに、何の不都合があるのでしょうか。

    私たち日本人にとっての、今さらながらの、根本的な矛盾を抱えた問題です。




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  2.  理路庵先生、コメントありがとうございます。
     前田多門文部大臣の言う『清明心』を理路庵先生も日本人の根本と考えておられることに強く共感致します。
     清明心に反するのは「邪心」であり、「異心」「黒き心」「暗き心」「悪しき心」「卑しい心」「屈折した心」「人を侮蔑する心」「欺く心」などで、これらの邪悪な穢れたものから離れて『清明心』で神の前に立たねばならないというのが古事記や日本書紀以来伝えられた『日本人の情』だと思います。
     つまり八百万の神々の前に立つ時、斎戒沐浴とまではいかなくても手を洗い口を漱いで身を清めるのは、清明心で神の前に立たねばならないという一種の儀式だと思います。
     神道には何の教義も無いけれど古来より伝わる『清明心』という曰く言い難い『心根』『情』『和魂』のようなものを現在まで伝える媒介のようなものだと思っています。
     先生の言われるようにそこには『何も無い』ので、さすがのGHQも消すことは出来なかった。されど大きな『置き土産』を残していったのですね。
     前田多門は立派な人だったと思います。しかしGHQはには都合の悪い人だった。日本人の根本にある『和魂』は占領軍が考えているようなものでは無いのだと心底思っていたからです。
     井上毅が『神道』を宗教としなかったのは、近代化した西欧流に考えるとチェンバレンの言うように『宗教』とは言えないものだったからだと思います。私も先生と同じように信仰心の無い人間です。多くの日本人も無宗教でしょう。子供が生まれると神社に詣でて、結婚式はチャペルで挙げ、葬儀にはお経を唱えてもらう。こんないい加減な宗教観が日本人には違和感なく受け入れられている。
     しかし、我々日本人には心の何処かに『清明心』のようなものが確かにあります。西欧人には理解し難い、この『情』こそが日本人の根本だとつくづく思います。
     先生が、日本(日本人)は世界の異端児で良いと仰っていたのはこのことだったのかと今更ながら合点がいく思いがいたします。



     

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