拒絶反応

  身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるはこれ、孝の始めなり

 子供の頃よく親から聞かされた言葉だが、40代になって腰部椎間板ヘルニアの手術を受ける時にこの言葉を思い出していた。厄年とはよく言ったものだが、働き盛りの頃は週に数回の徹夜もする仕事中毒だった。それが神経痛で歩けなくなってしまい職場を長期に離脱する羽目になり焦った。

 地元の総合病院の整形外科に通っていたのだが、これが躓きの始まりだった。触診で足を上げたり横になったりしても特に痛みは無く、担当医は特に問題は無いという。しかし、下肢に神経痛が出て歩行が困難だと言うと、ブロック注射を打ちましょうと事務的に言いう。腰に注射を打ってもらい20分ほど安静にしていると『もういいですよ』と病室を追われるように出されるが直ぐに神経痛が出て歩けない。

 神経痛をこらえながら通院していたが、有給休暇を使い果たしてしまい担当医に診断書を願い出た時に不承不承書いた病名が『腰部筋肉痛』だったから私は怒った。神経痛の原因は何なのですかと聞くとMRIで調べてみましょうかと呑気な事を言う。お願いしますと言うとここでは出来ないので○○病院で調べて貰って下さいという。

 兎に角原因を調べなくてはと○○病院でMRI検査を受けた。結果は腰部椎間板のヘルニアだった。徹夜で座り続けて仕事をした結果、椎間板が潰れてしまったのだった。これには担当医も手術が必要ですねと言う。それではやって下さいと言うとここでは設備が無いので手術が出来ないという。私は一瞬この無表情な医師に殺意を感じた。今まで何か月もの間痛みに耐えながら通院していたのは何だったのか、こんなへぼ医者に付き合ってあたら時間を無駄にしたものだ。腸が煮えくり返ったが極力平静を保って手術が出来る病院に紹介状を書いてもらった。

 紹介されたのは所沢にある防衛医大だった。良かったここまで来ればもう安心だと思って診察室に入ると、医師から申し訳ないが検査入院が三か月待ちになっていると告げられた。これには参った、既に二カ月も休んでいるのだ。その上に三か月も待てない。

 するとその医師は、週に一度私が通っている病院がこの近郊にあります。そこなら直ぐにでも手術が可能ですという。所沢近郊の小高い丘の上にその病院はあった。大学病院の勤務医は薄給なので、地域の個人病院に通って高い報酬を得る仕組みになっている。ここもそうした病院の一つでプロパーの医師など一人もいなかった。

 直ぐに3日間の検査入院をすることになった。人間ドックのようにありとあらゆる検査をして最後に脊椎に造影剤を入れてCT検査をした。これが非常に苦しい検査で強い麻酔をして行う検査だったので、病室に戻っても意識が朦朧としていた。

 たぶん夜になっていたのだろう。防衛医大から駆けつけて来た医師が病室に入って来て検査の結果や今後の手術について説明をしているのだが、意識が朦朧としてよく分からない。断片的に理解できたのは、椎間板の損傷が大きいので全摘出して固定する手術をしましょうということだった。私は『お願いします』と返事をして深い眠りについた。

 後から分かったことなのだが、椎間板の手術にはいくつかの方法がある。背中を2cm程切り開き飛び出た椎間板を除去する手術と椎間板を全摘出して上下の腰椎を癒着させる手術などだ。余程の事が無い限り椎間板を全摘出することは無いという。

 翌週、手術が行われた。浣腸で腸内を空にして手術室に運ばれた。通路をストレッチャーで運ばれる時に妻が心配そうな顔をしていたので『大丈夫だよ』と声をかけた。手術室の眩しい光源の横から医師が顔を出して自己紹介をして来る。『麻酔医の○○です。今日はよろしくお願いします。貴方のお名前は・・・』私は気を失っていた。

 目が覚めるとICUだった。医師が手術は成功したと言いに来たが『血圧が低くて大変だった』と私を責めるような口調だった。私はそんなことより足の甲に釘でも刺さっているかのような激痛に苦しんでいた。医師は足を触って『何にも起きていないよ』と言いながら難しい顔になった。

 翌日、医師が掻爬(そうは)をしましょうと言い出した。背中の肩甲骨辺りに穴をあけ点滴を流し込み腰に開けた穴から流し出すという。これで術後の感染を防ぐという。医師は友人の専門医に来てもらうと嬉しそうに言った。

 翌週、また手術台に乗った。この病院の衛生管理に問題があるのではないかという危惧を感じながら早く退院したいと願っていた。ICUで激しい痛みで目が覚めた。体は横向きにされて管が体の前にも後ろにも付いている。看護婦に痛み止めを打ってくれと懇願するが、担当医が不在なので処置できないと言う。当直医が呼ばれてきたが、インターンあがりのまだ若い医師で判断できない。私は激痛の中で気絶していた。

 私のヘルニアの手術は後部固定術というもので、第三腰椎と第四腰椎の間の椎間板を全摘して腸骨の一部を切り出してそこへ埋めて金属棒を二本腰椎にネジで留めて固めてしまうというものだった。

 その内容を詳しく知ったのは術後だったが、医師は説明をつくし私が同意したので行ったと言う。事実関係はそうだったのだろう。そして、3時間程度の予定だった手術が11時間もかかったのは、私の血圧が急激に下がったからだという。確かに私には身に覚えがあった。若い頃、帰宅途中で立ち眩みをすることが時々あった。すると反射的に身の安全を図ってしゃがむのだが暫くは立てなかった。

 日常的には血圧が80~105程度で少し低めだったが問題になることは無かったので医師に申告しなかったが、検査入院で必要以上の検査をして分からなかったことを棚に上げて私を責めるような口調の医師に身を預けていることに不安は増すばかりだった。

 掻爬をして数日すると痛みは薄らいで来たが、背中に何リットルもの点滴液が溜まってるのでじわじわと床が濡れてくる。看護婦が時々バスタオルを敷き替えてくれるが、ほんの気休めだった。その内に横を向いた下側の肋骨あたりに褥瘡が出来て痛み出した。

 体の向きも変えられず、絶対安静なので、肩が決まっていて腕の血行が悪くてしびれる。こんな苦行を3週間も続けるのかと溜め息をつく毎日だった。尿は導尿管が私の息子に入れられていたので尿袋に自然に溜まっていたが、横向きで排便することがどうしても出来なかった。その内に看護婦が排便しろと何度も言いにくるようになって遂に手袋をして肛門に指をいれて固くなった便をほじくり出した。その時の情けなさは表現のしがたいものだった。

 2週間もすると褥瘡が大きくなってきたので、医師にもう我慢が出来ないと訴えた。すると友人の専門医に相談して『もういいでしょう』といって管を外してくれた。

 私はようやく横向きの体勢から解放され仰向けになることが出来た。術後三週間が経っていてほぼ腰椎は固まっているだろうからと寝返りも許可された。気絶するほどの激しい痛みは嘘のように無くなっていた。

 それから、ベッド周りのカーテンが閉められ、あの肛門に指を突っ込んだ看護婦が不敵な笑みを浮かべて入って来た。私の顔にタオルをかけて、我が息子に挿入された導尿管を抜く作業に取り掛かった。初めの手術から3週間も付けられていた導尿管は一部で癒着していたので、それはとても痛い作業だった。しかし導尿管の抜き取られる最後の瞬間、何とも言えない感覚に思わず『ああ~』と声を出してしまい笑われた。

 しかし、この病院の恐ろしさはこの導尿管にも現れた。数日後に尿道狭窄が起きて尿が出なくなったのだ。すると泌尿器科の医師が小さな四角く黒い箱を持って現れた。そしてまたカーテンが閉められた。

 医師が四角い箱を開けるとそれはまるでカテトラリーセットのように銀製の器具が綺麗に並んでいた。棒の先端は鍵のように曲がっていて細くなっている。それぞれ番手があり先端の太さを表していた。一番細い番手から始めて徐々に太くしていくという。癒着した尿道にそれを突き立て無理やり1センチほど入れる。医師と看護婦の二人がかりで行うのだが、恥ずかしいという気持ちなど無くなるほどの痛みが走る。これを、およそ三十分おきに繰り返し番手を上げていく。何時間もかけて尿道が開き、排尿した時には血尿とともに痛みが走った。それ以来、今日まで私は泌尿器科のお世話になり続けている。

 それから何日後だったか、ベッドを少し起こしてくれた。初めは15度、翌日は30度と角度が上がった。これはずっと横になっていたのでいきなり起こすと貧血が起きるためだ。そして歩行器が持ち込まれた。私は歩行器に掴まりながら病院の廊下を歩いた。ヘビースモーカーだった私は1階の売店まで歩行器で行き、煙草を買った。

 久しぶりの一服は効いた。初めて煙草を吸った時と同じように一瞬気が遠くなる感覚があった。二服目からはただの惰性だった。自然に禁煙していたのにまた禁煙できない自分に戻っていた。

 そしていきなり明日退院だと告げられた。予後はどうするのか説明も無いままに病室を空けなくてはならないという説明だけを聞いて退院した。病院の駐車場に駐車していた車はパンクしていた。JAFを呼んで補助タイヤに替えてもらい、ディーラーまで運転してタイヤ交換をしてもらった。朝、退院して自宅に着いたのは夕方だった。

 散々な目にあったが、これも『身体髪膚之を父母に受く、あえて毀傷せざるはこれ、孝の始めなり』を護れなかった報いかも知れないと思ったりしたが、それでも何とか神経痛からは解放されたのだと思い直して、伊豆の温泉に三日ほど逗留して英気を養ってから職場に復帰した。神経痛が始まってからおよそ一年が経過していた。

 腰には今でも金属が入っている。スチィールなのでMRI検査は受けられない。術後数年間にわたり手術の糸が皮膚を下から突き抜けて出て来た。抜糸は表面の糸だけで体内に残った糸は体に馴染んでしまうことになっているが、拒絶反応が強い人は稀にこうした事がおこるらしい。背中の皮膚をちくちくと下から突き上げて、皮膚を破ると化膿する。それでも引き抜けるほど突き抜けるまで待てないので病院で切開して抜いてもらった。十回以上も切開してもらっただろうか、一度まともな医者に診てもらおうと新宿の社会保険中央病院に行ってみた。

 日本でも有名な整形外科の医師が診てくれた。結果は3番と4番の腰椎は完全に一体化して固まっているので、固定していた金属はもう必要では無くなっている。痩せると金属が当たって痛く感じるのが嫌であれば手術して取り除くことは可能だという。しかも金属の寿命は約20年らしい。だが、医師は手術を積極的に勧めることは無かった。『やってあげても良いけれど』と言いながら薄笑いを浮かべていた。それは、あの七転八倒の痛みをもう一度経験してみるのかという意味だった。

 私は多少の違和感を感受しようと心に決めた。それ以来、前屈しても膝までしか手が届かない固くなった腰と付き合って生きて来た。そしてこんな体になるまで身を粉にして働いた職場もパワハラで辞職する羽目になった。それでも新しい職場で素晴らしい上司にめぐり逢うことが出来て何とか再起できたのは、まさに人間万事塞翁が馬ということだろう。

 それが、最近になって腰痛と大腿部の神経痛が弱いながらも感じられて整形に行ってCTスキャンをしてもらったところ、金属が折れていて4番と5番の間の椎間板が若干ながらつぶれ始めていた。金属の寿命はとっくに過ぎているのだから仕方が無いし、コルセットが必要になったが何とか仕事は続けられているのだからこれはこれで善しとしよう。

・・・

 拒絶反応といえば、父の体から金属片が出て来たことがあった。二の腕の中に何か異物があるのは何となく分るのだが痛みも無かったので放置していたのが、私が小学生の高学年になると皮膚の近くまで浮いてきて痛みが出てくるようになり手術して取り出してもらった。

 その時、父が話してくれたのは戦争体験だった。北支を転戦していた父は病気になり野戦病院に入院した。退院後に浜松の航空隊に転属になり、爆撃機の機関銃士となった。夜間に硫黄島まで飛んだこともあると言っていた。

 敗戦濃厚となり出撃機会も減り兵舎の廻りの塹壕堀りなどをする日々が続いたある日、兵舎で休憩中に警報が鳴ったが誰かが「こんなもの平気だ」と強がりを言ったので兵舎の二階に留まってしまった。するとP-51が兵舎の正面から機銃掃射をして来た。慌てて外に出ようとした時には窓ガラスが割れ同僚の背中から銃弾が貫通して内臓が飛び出した。その場の全員が非常階段に向かったがそこへ爆弾が落された。父は兵舎の裏の畑まで吹き飛ばされたが芋畑で土が柔らかったせいか一命をとりとめた。

 その後何年もの間、体からガラス片が幾つも幾つも出て来たという。そして最後の大物が二の腕の金属片だった。父はその金属片を桐の小箱に入れて大切にしていた。そして毎年靖国に詣でていた。

・・・

 拒絶反応。

 私の体の中の金属も父の物と同じよう拒絶反応と戦ってきたのかも知れない。ただネジで腰椎に埋め込まれているので出るに出られないのだろう。私の拒絶反応の強さは父譲りの遺伝に違いない。

 そう言えば、私がパワハラに遭ったのも心理的な拒絶反応が相手に感じ取られてしまったからだろう。原因は私自身にあったとも言えるのだ。

 最後に養老孟司先生のお話し。これも一種の『拒絶反応』かも知れない倫理感について

 いつになく先生がお怒りモードになっているので何かの『拒絶反応』かも知れない。この動画はNHKの番組を切り抜いたものでいつ迄見られるか分かない。直観的に許せないことを倫理感と説明している貴重な映像だ。

・・・
 理路庵先生が『直観』を大切にされている事の意味を考えていたら『拒絶反応』に思い至りました。何か不思議な取り合わせですが、倫理感の根源はこれかも知れないと思うのは牽強付会と言われればそれまでなのですが、養老先生の話を聞いていると私の考えていることも結構的を得ているのかと勝手に思ってしまいます。
 結局は奥深い理路庵先生の森の中を彷徨っているトッポジージョがブログの再開を心待ちにしているのが理路庵先生の『CEBU ものがたり』
 養老先生がお好きな方ならきっと堪能できます。



コメント

  1. 「人生100年時代」という言葉が日本や他の先進国で数年間から折々に言われるようになりました。
    「身体髪膚、之を父母に受く、敢て毀傷せざるは、考の始め也」
    そのとおりです。
    寿命が延びることは、ほとんどの人にとって、好ましいことではあるのでしょうが、医学が進歩したとはいえ、人はいつ思いもよらない病気にならないとも限りません。

    このまま行けば、長寿大国の日本に、100歳を迎える老人が、雨後の竹の子の如く、ワンサカワンサと増える可能性は大いにあると思います。とはいえ、他人の手を煩わせながら、単に100年という時間を生きてきたというだけなら、少なくとも私は、そんな人生はまっぴら御免被ります。心身ともにある程度まで自立できているうちに旅立ちたいと願っています。

    腰痛の痛みはよく分かります。40代からぎっくり腰や原因不明の腰痛に悩まされてきて、近所のアホな中国人の整形外科医との縁が切れなくなりました。50代後半のある時、激痛で夜も寝られない日が一週間ほど続きーートッポジージョさんに比べれば私の場合はまだまだ御の字でしたが――やっと歩けるようになって医者に行ったところ、「腰椎椎間板症」による坐骨神経痛だと診断されました。
    治療と言っても痛み止めの薬を処方されるだけで、手術をするほどの症状でもなく、その後2回ほど坐骨神経痛で歩けなくなりましたが、中途半端なまま今日までなんとか過ごしています。
    移住を決意したときに、持病の腰痛はひとつの心配の種ではありましたが、お陰様でその後は腰痛も出ることなく、セブは一年中暑い気候のせいもあるかも知れませんが、小康を保つことができています。(「腰・首・ひざ」の痛みの9割は自分で治せる! 永岡書店・酒井慎太郎 の本にある「テニスボール」の体操を以来続けているおかげではないかと思います)

    上の画像。養老孟子の面目躍如といった感があります。
    A = B であるのなら、(この世に)B は必要なくて A だけでいいのではないか、ところが現実は、A = B で成り立っているのが世の有り様で 、こうした「世の中の成り立ち」に拒絶反応を示す人は、少なからずいるでしょう。
    人間関係にしても何にしても、人は、大げさに聞こえるかも知れませんが、生きていくうえで、自分なりの「美意識」を持たなければなりません。その美意識に、ザラッと気味悪く触れてくる相手とか対象に対しては、理屈ではなく、感覚的に拒否反応が働きます。これは大切なことだと思います。美意識は直感という言葉に言い換えることもできます。自分の美意識を持つことは、自分が自分らしく生きるということにつながります。



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  2.  理路庵先生、コメントありがとうございます。
     『人間関係にしても何にしても、人は、大げさに聞こえるかも知れませんが、生きていくうえで、自分なりの「美意識」を持たなければなりません。その美意識に、ザラッと気味悪く触れてくる相手とか対象に対しては、理屈ではなく、感覚的に拒否反応が働きます。これは大切なことだと思います。美意識は直感という言葉に言い換えることもできます。自分の美意識を持つことは、自分が自分らしく生きるということにつながります。』
     先生のこういう文章を読むと嬉しくなります。私がだらだらと書いたブログについて、すぱっと気持ち良く一刀両断していて気持ちが良い。このきっぱりとした物言いが出来る先生を尊敬します。
     トッポジージョの内なる拒絶反応が先生の言われる美意識にまで高められるように精進したいと思いました。

     

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