濫觴を尋ぬれば 第4回 太平洋戦争

どうしてこんな悲劇が起きたのだろう。

当時の状況をまとめたNHKの『映像の世紀』という番組があった。

 

この動画には以下の記事が付いている。

◯ラルフ・タウンゼント(元駐カナダ/駐上海・米国副領事)

 対ドイツ敵愾心沸騰の原因の一部をなしたものは、ドイツの法律がユダヤ人と非ユダヤ人との結婚を禁止した、とのニュースであった。

 アメリカの或る地方にはそれと同様の法律(例えばフィリピン人等とアメリカ人との結婚を禁止されている)が存していながら、それに対して大袈裟な戦慄的反感を煽り得たのは何故か。それはこの厳然たる事実について全く言及を避けたからに他ならない。

 我がアメリカ各地に於ける黒人に対する禁令の厳しさは(例えば駅の待合室等を白人と区別してあること等)ドイツがユダヤ人に課しているもの以上である。アメリカの西部諸州では、支那人或は日本人の血統を引いた人間には、住宅の購入を禁じている。日本人に関するカリフォルニア州の土地法は、ユダヤ人に関するドイツのそれよりもさらに制限的である。ドイツの町々では、ユダヤ人は可成りの広さに上る地所や家屋を、未だに所有しているのである。

 米国連邦政府は人種的差別を認めていない、と記者、政治家が叫んでいるのは、もとより全くの宣伝的欺瞞である。それは1924年の移民法その他を読めば忽ち分明する。

 異民族の相融和し難き点に就き、ヒトラー政権の言ったことと、アメリカの有力な記者、政治家たちが、1924年日本人排斥の法律を制定せんとして言ったこととは、実質的に何等異なっていない。

 ヒトラーの人種差別的法律は、アメリカ財界の有力者たるユダヤ人に関するものであったが、我が人種差別的法律は、アメリカの財界に対して重きをなして居らず、新聞やラジオの有力なる広告依頼者でもない日本人支那人フィリピン人黒人等に関するものであった。故に我が人種差別的法律は、記者や放送者の一大痛恨を惹起するに至らなかったのである。(1938年)

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◆1904(明治37)年 2月8日 日露戦争開戦

◆1905(明治38)年 5月7日 サンフランシスコで日本人排斥大会が開かれ「日本人排斥同盟」が結成される

◆1906(明治39)年 3月7日 カリフォルニア州が日本人移民の制限を決議、4月1日 サンフランシスコ市学務局が、市内小学校に通う日本人学童を退学させ隔離学校へ収容することを決議

◆1907(明治40)年 1月22日 日本人労働者200人が米国サンフランシスコで上陸を拒否される。3月14日 学童隔離命令の廃止と引き換えにハワイ、メキシコ、カナダからの日本人移民の米国本土入国が禁止

◆1908(明治41)年 2月18日 「日米紳士協定」により日本人移民の米国入国が禁止(すでに移民した日本人の家族は入国可)

◆1911(明治44)年 3月23日 カリフォルニア州上院が日本人の土地所有禁止法案を可決(日本人の土地所有及び3年以上の賃借禁止)5月18日 アリゾナ州で日本人の土地所有禁止法案が制定される

◆1913(大正2)年 1月12日 ワシントン州で外国人土地法案の提出、 1月17日 ワシントン州上院で白色人種と有色人種の結婚禁止法案が提出される

◆1919(大正8)年 1月18日 パリ講和会議で日本代表団が国連規約に『人種差別撤廃条項』を加えるよう提議 → 賛成11反対5であったが議長ウィルソン米大統領が否決

◆1920(大正9)年 3月1日 日本人移民による写真や手紙での見合い結婚が禁止される 11月2日 米国カリフォルニア州議会が排日土地法を改正(日本人移民の借地及び子供名義の土地購入禁止)

◆1922(大正11)年 11月13日 米国最高裁判所が日本人の帰化権を否認

◆1924(大正13)年 7月1日 米国連邦議会において「排日移民法」が成立(あらゆる日本人の米国入国が完全禁止)

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 この動画から分かる事は、白人の抜きがたい有色人種への差別感情だ。これが、日本の占領政策に反映されている。拙ブログの『7人の孫』で取り上げた『家族計画』運動をGHQが仕掛けた理由は、この動画の2分経過したところで『このような外国人が異常な程たくさんの子供を産んでいる。』というコメントから読み取れるだろう。

 ここでアメリカによる対日封鎖と経済制裁のあらましを記すと
1937年(昭和12年)10月5日 ルーズベルトによる「隔離演説」
1939年(昭和14年)7月 日米通商航海条約破棄を通告
1939年(昭和14年)12月 モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)として航空機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出を停止するよう通知。
1940年(昭和15年)1月 日米通商航海条約失効
1940年(昭和15年)6月 特殊工作機械等の対日輸出の許可制
1940年(昭和15年)7月 国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)
1940年(昭和15年)7月26日 鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立
1940年(昭和15年)8月 石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制
1940年(昭和15年)同8月 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸
1940年(昭和15年)9月 屑鉄の全面禁輸
1940年(昭和15年)12月 航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制
1941年(昭和16年)6月 石油の輸出許可制
1941年(昭和16年)7月 日本の在米資産凍結令
1941年(昭和16年)8月 石油の対日全面禁輸
 
 こうした状況下で、日本政府は合理的な選択が出来なくなっていく。人間は得をした時の喜びよりも、損をした時の失望を強く感じ、意思決定の多くが損失回避的な感情によるバイアスがかかっている中で下されてしまうというプロスペクト理論のまさに見本のような光景が展開される。

 国立公文書館・アジア歴史資料センターの『公文書に見る 日米交渉~開戦への経緯~』というWEBページから一部を編集してお示しする。

 昭和16年9月6日の第6回御前会議において「帝国国策遂行要領」が決定される。これは(1)日本は「自存自衛」を全うするためにイギリス及びアメリカとの戦争を辞さない覚悟で、10月末を目処として戦争準備を終えること、
(2)戦争準備と並行して対アメリカ交渉を続けること
(3)10月上旬頃までに日本の要求が通らない場合は、直ちにアメリカ(及びイギリス・オランダ)に対する開戦を決意すること
という決定をし、戦争の準備をしながらも外交に一縷の望みをかけることになった。
 この会議において異例にも昭和天皇は明治天皇が日露開戦にあたり戦争回避の願いを込めて詠まれた御製『よもの海 みなはらからと思う世に など波風のたちさわぐらん』を読まれている。
 この時点で軍も政府も『対米戦争は必敗』という現実を理解してるのだが、「自存自衛」の方策を見出すことが出来ずにいた。時間の経過は日本にとって致命的であり、決断を迫られていたが戦争を辞さない覚悟を放棄することは建前上誰にも出来なかった。

 10月12日に近衛文麿内閣総理大臣が、豊田貞次郎外務大臣、東条英機陸軍大臣、及川古志郎海軍大臣、鈴木貞一企画院総裁を私邸に集め、おもにアメリカ・イギリスと戦争をすべきか否かについての話し合いを持つ。
 このとき、近衛や豊田が中国からの撤兵を含め諸々の問題の解決の可能性を指摘したのに対し、東条は強い反対姿勢を示す。
 資料1は、会談における東条大臣の発言を中心とした記録です。まず、豊田大臣が「日米交渉妥結ノ余地アリ」と述べ、駐兵問題への対処によっては交渉は成立するであろうとの見解を示しています。また、近衛大臣も、日本側の提案に揺らぎがあるためにアメリカの誤解を招いているのではないかと指摘し、この点に対処することで交渉は成立し得るとしています。また、及川大臣は明確な意見は述べず、近衛大臣の決断に委ねるとの姿勢を示しています。これに対して、東条大臣は「妥結ノ見込ナシト思フ」と述べ、アメリカに譲歩の姿勢が見えない以上は交渉は成立しないであろうと指摘しています。以降、東条は、10月上旬(9月6日の第6回御前会議で、10月上旬までに交渉が成立しない場合には開戦を決意する、と決定されています)を迎えて軍が既に準備を始めつつあることを述べつつ、交渉成立(戦争準備打ち切り)を決するならば確実な根拠が政府と統帥部(陸海軍の指導部)との間で共有されることが不可欠であることを強く主張しています。ここで東条が見せている姿勢は、9月6日の第6回御前会議における決定にあくまで従うというものです。
 資料2の『機密戦争日誌』でも、この会談について大きく触れられています。会談でのやり取りについては、上記の「杉山メモ」の記録とほぼ同様の説明がなされ、交渉成立の可能性を論じる近衛・豊田の2大臣と、これに反論しながら、御前会議決定に従う方針を主張する東条大臣との、姿勢の違いが明確にされています。こうした状況についてここでは、明確に意志を述べない及川大臣に対しては「全然責任回避」、「戦争ヲヤルト云フナラバ自信アル方ガヤリナサイ」と述べた近衛大臣に対しては「無責任ナル言語道断」、と厳しい批判が述べられています。

 10月18日に近衛内閣は総辞職。東条英機に大命降下。

 11月5日第7回御前会議でアメリカに対する2種類の要求案(甲案・乙案)が決定され、『甲案』を提示し受け入れられない場合はより譲歩した『乙案』を提示するという対処方針が決定された。
 乙案では、(1)日本・アメリカ両国は仏領インドシナ以外の東南アジア及び南太平洋地域に武力的進出を行なわないこと、(2)両国は蘭領インドシナにおいて物資獲得が保障されるように相互協力すること、(3)両国は通商関係を在アメリカ日本資産凍結以前の状態に復帰させること、(4)アメリカは日本・中国の和平の努力に支障を与える行動をしないこと、の4点が成立すれば必要に応じて南部仏領インドシナに駐屯する日本軍は北部仏領インドシナに引き揚げることを示しています。

 しかし11月26日(日本時間11月27日)『合衆国及日本国間協定ノ基礎概略』いわゆる『ハル・ノート』を手交される。
 その10項目の具体的措置は以下のとおり
第二項「合衆国政府及日本国政府の採るべき措置」
1.イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
2.仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
3.日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵
4.日米がアメリカの支援する蔣介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認
5.英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
6.最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
7.アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除
8.円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
9.日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない(日独伊三国軍事同盟の実質廃棄)
10.本協定内容の両国による推進

 ハル・ノートを受け取った野村・来栖両大使は難色を示してハル国務長官と応酬したが、ハルは「何れも立ち入つては何等説明も主張もしない。全体の態度が殆ど問答無用といった風で、俗にいう取り付く島のない有様であった」という。

 そして昭和16年(1941年)12月1日、第8回御前会議が開かれ、アメリカ・イギリス・オランダに対する開戦を決定してしまう。
 資料2は、東条内閣総理大臣による説明案です。ここで東条は、アメリカは主張を一歩も譲らず、外交手段によって日本の主張を貫徹することが不可能になり、現状を打開するためにアメリカ・イギリスに対して開戦止む無き事態に至ったと述べています。
 資料3は、御前会議の決定案です。「帝国は米英蘭に対し開戦す」と記されています。
 資料4は、御前会議の決定文書です。「11月5日決定の帝国国策遂行要領に基く対米交渉遂に成立するに至らす」「帝国は米英蘭に対し開戦す」と記されています。

・・・
 以上の交渉経過を見れば『太平洋戦争』に至る外交努力が日本の片思いに過ぎない事がわかる。戦争回避は大陸における44万人に上る戦死者という犠牲を無にする決断であり、経済的な対米従属を意味していた。

 日本は日露戦争のような局地戦の勝利で早期講和に導こうとする微かな希望にすがっていたと言えるが、米国は対日戦争の勝利を開戦前から確信していて、日本を無条件降伏に追い込む終末戦争の考え方が大勢だった。それは維新以来、近代化にいそしんできた日本を根本的に変え、太平洋や東アジアにおける米国のプレゼンスを確立するための戦争だったので、日本の『自存自衛』など一顧だにするものでは無かった。
 その無慈悲な戦いぶりは三年余の間に300万以上の日本人戦没者を積み上げて日本を屈服させるまで手を緩めることは無かった。

 私は、この米国の政策決定は、明らかに『Manifest Destiny(明白なる使命)』という自己正当化理論に依拠しているものだと思っている。先住インディアンを迫害して居留地に追いやり、穏健なハワイ王国を軍事的圧力で併合し、米西戦争でフィリピンを植民地とした米国にとって、第一次世界大戦の結果赤道以北の南太平洋の島しょ国が日本の委任統治領になっていることや中国大陸の門戸開放(米国にも利権の獲得機会を与えること)を日本に求めているにもかかわらず満州国を建設した日本は『Manifest Destiny(明白なる使命)』の障害であった。 

 米国空軍大学教官・上院軍事委員会専門委員のジェフリー・レコードの『日本の戦争決断一九四一年:その今日的教訓』(渡辺惣樹=訳 草思社文庫)の研究テーマは『何故、日本は無謀な戦争をしたのか』という彼らが言うところの『狂気の決定』の原因を探ることだったのだが、無謀な戦争を決断した日本は追い詰められて『窮鼠猫を嚙む』ことになったという結論を導き出している。
 そして、その教訓として
『潜在敵国の歴史や文化を深く理解することの重要性である。互いの文化に対する無知、無理解が一九四一年の開戦につながった。駐日大使グルーを例外とすれば、わが国の外交政策決定に携わる者には、日本および日本人についての知識が決定的に欠けていた。
(中略)
コリン・グレイは(中略)分析する。
「アメリカ人の一般的な思い込み、つまりアメリカは政治的にも道義的にも他の国とは違うものを持っているとか、マニフェスト・ディスティニー(明白なる宿命)観であるとか、神に託された使命を持つ国であるといったことは、アメリカは偉大な国であるという信念の形成に多層的にかかわっている。こうしたアメリカの状況を念頭におけば、アメリカ人は他の文化にあまり敬意を払わない理由がわかる。この傾向は昔もあったし今も続いている。これは戦争という局面においてひどく不幸な状況を生み出す」

 私は、理路庵先生が再三語っていたアングロアメリカンの真実についてその裏付けを漸く手にした思いがする。 
 米国がそうした意識でいる時に日本(日本人)の中にこれを客観的に冷静に分析する者がいなかった。しかし、現在でさえ難しいことなので当時としては無理からぬことなのかも知れない。
 『自存自衛』とは聞こえは良いが、その方策が無い時に何を為すべきだったのか。結果論になるが、ポツダム宣言の受諾で悩んだ『国体の護持』、焦土となったなった日本で『国体の護持』さえ叶えば、あとはどのような艱難辛苦も耐えがたきを耐えて日本再建を目指すことが出来ると考えたことを今一度思い起こす必要がある。
 
 これは『たら・れば』だが、昭和16年の時点で、日米戦争必敗の現実を直視し、アングロアメリカンの思考の恐ろしさを熟知していたら、三国干渉の時のように『国体の護持』さえあれば臥薪嘗胆と戦争回避に議論をまとめる方向性が出ていただろう。もちろん内閣の一つや二つは潰れただろうし、首謀者とみなされた人は暗殺されたかも知れない。しかし、300万予の命に代えられるものなどない。

・・・・・・・

 かくして日本は負けるべくして負けたのだが、進駐軍の巧みな間接統治によって、明治以来積み上げて来た日本の営為は『暗黒史』のレッテルを貼られてしまう。

 アメリカ国務省のグルー達の知日派は、日本が全体主義化したのは開戦前の約10年間なので軍部を解体して国内のリベラル勢力を再興すれば『自主的に民主化する能力』を日本は持っていると主張していたが、親中派の台頭で彼らの声は届かなくなっていた。

 問題は『マニフェスト・ディスティニー』の副産物であるGHQの占領政策を崇め奉って『日本国憲法』を『平和憲法』と言い換える非現実的な曲学阿世の徒が日本人の中から湧き出て世論の大勢に影響を与え、国柄を変えてきてしまった事だろう。

 私は、彼らが言うところの『復古主義者』では無い。しかし喧嘩両成敗で戦いの双方に正義はあるものだ。自国の歴史を占領軍の言う通り無批判に『暗黒史』としてしまう彼らの主張に欠けている世界情勢を客観的に俯瞰する視点を強く指摘したい。

 次回『濫觴を尋ぬれば 第5回 大日本帝国憲法』に続きます。

・・・

 今回も長過ぎるブログをお読みいただきありがとうございます。
 これではそのうちに理路庵先生からお叱りを頂戴するのではないかと心配になります。
 理路庵先生のブログは
 『CEBU ものがたり』
 トッポジージョをブログの世界に導いて下さった恩人のブログを是非訪ねて欲しい。

コメント

  1. 白人であれ有色人種であれ、人間社会には、悲しいかな差別はつきものですから、白人による有色人種差別だけを無思慮に批判することは不適切になります。
    しかしながら、白人による有色人種差別は、被差別者の人間の存在にかかわるほどの、極めつけの差別と言えるのではないか。
    「美醜」の問題です。有色人種は外見からして、白人に遠く及ばない劣等民族だ。

    動画のコメント。「このような外国人が異常なほどたくさんの子供を産んでいる」
    こうした表現が使われる感情の源にある差別は、あたかも、さかりがついたイヌ・ネコが交尾をした結果として、ウジャウジャと子供が生まれてくる、という意識に近いと言えます。多くの白人に共通した差別感だと、私はほぼ断言します。

    1919年、(上述の)日本が発議した「人種差別撤廃条約」がウイルソン大統領の独断で否決された件などは、アングロアメリカンの有色人種に対する差別の顕著な一例ですね。国際会議の席上で、平然とこのような暴挙をするのですね。

    さて、戦争という国家の一大事においても、人種問題は重大な結果を誘発します。「日米大戦は人種差別戦争だった」と、あるインド人が言っていたのを思い出します。(そのインド人の名前を忘れてしまいました)

    日清、日露戦争に勝利した日本は、世界の覇権主義の列強国の一員となり、満州での日本の権益確保と拡大に突入していきました。やがて日本は満州国樹立という挙に出たことこそが、アメリカという「虎の尾を踏ん」でしまい、日米大戦の引き金のひとつになったといえます。日本にとっては致命的な勇み足でした。これは現代を視点としてみた場合の私見です。

    ある時代の出来事の是非は、その時代の時間軸の中の社会環境で判断しない限り妥当性は得られない、とよく言われるとおりで、当時の日本の一連の対処は当時としてはほぼ大勢の一致としての結果だったのでしょう。

    日米大戦はアメリカ側の台本では、ハナから「対日戦争」ありきだったと言っても過言ではありません。アメリカの周到な策謀に、日本はまんまとはまってしまったのです。

    「ハル・ノート」の「3」は、日本にとって、到底呑める措置ではありません。それこそ、「Prospect 理論」の格好の見本のような要求です。事実上の「宣戦布告」とも言えるものです。
    「Manifest Destiny」という白人崇高主義の大義名分を引っ提げて、上述のとおり、アメリカは先住民インディアンを虐殺し屠ってきました。(「Soldier Blue」という映画は必見です。「Dances with Wolves」という映画も見ごたえがあります)

    負け戦と最初から分かっていた日本が何故、超大国・アメリカと戦火を交えてしまったのか。アメリカの要求を全て受け入れて隷属するのか、一擲乾坤を賭して戦うのか。独立自尊を目指す日本にとっては、敢然と戦いを挑むことこそが、当時の国民の総意では無かったのかと思案せざるを得ません。

    人類で初めての原爆被害を受けて、日本は敗北しました。300余万という甚大な犠牲者を出してまでも、戦う意義があったのかどうか。あったとは、胸を張って声高に叫ぶことは、正直なところ、私にはできません、今の時点で考えれば。当時に生きていたとすれば、そのようにしたことでしょう。

    毀誉褒貶、巷には多々ありますが、有色人種のアジアの小国日本が、ロシア・アメリカという白人国家に敢然と戦いを挑んだことは、アジア・中東・アフリカーーーなどの有色人種国家の人びとを奮い立たせたことは事実だと、私は確信しています。同時に、アジアでの白人による覇権主義の終焉にも寄与したことも、私は確信しています。300余万もの御霊は、これらをもってして、少しでも安らいでくれるでしょうか。

    アメリカ製の「日本国憲法」を「平和憲法」として崇め奉る日本人が半数前後いるようです。日本の基軸をひん曲げた「日本国憲法」は改正しなくてはなりません。日本(人)には日本(人)独自の「民族自決権」がなければなりません。

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  2.  理路庵先生、コメントありがとうございます。
     1964年10月10日、東京オリンピックの開幕式。父は大好きな足助さんと入場行進を見ながらビールを飲んでいました。アジアやアフリカの国々が独立して参加国が100か国を超えたとアナウンスしています。
     その時、足助さんが理路庵先生と同じような事を言っていました。父も『おっしゃる通り。』と感激に浸っていました。負けてしまったけれど無駄じゃなかった。そんな会話だったと思います。
     個人的な記憶で全てを語ることは危ないと思うのですが、戦争に行った父たちの世代が現役だったあの頃までは日本人としての誇りが確かにあったのに、いつから戦前を『全体主義の侵略国家』だったと断罪する声が勝るようになったのだろうという素朴な疑問がブログを書く動悸となっています。
     令和の大嘗祭に国費を使うことに秋篠宮が批判的な発言をされた。これはご学友に毎日新聞の記者がいて『国民の声』を届けているのが影響しているという噂があります。多分にこの記者は自分が『国民の声』を代弁しているつもりなのでしょう。誠に畏れ多いことで、皇室の瓦解に繋がりはしないかと心配になります。
     岸田内閣は、皇統の安定的な継承についての方向性を定め皇室典範の改正をしなくてはならない宿命を背負って誕生しました。どんなに時代が変わろうとこれだけは護って欲しいと願っているのですが、戦後の宿題の一つに結論を出す時が迫っていると思うとハラハラしてしまいます。
     



     

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