ベラ・チャフラフスカ

 1968年の8月21日にチェコスロバキアの首都プラハにワルシャワ条約機構(実質はソ連軍)の戦車が押し寄せて占領し、チェコの人々が狂喜した『プラハの春』は無残にも打ち砕かれた。ドプチェク書記長は解任され小さな公園の管理人にさせられ『二千語宣言』(民主化宣言)に署名していたベラ・チャフラフスカは行方不明になった。

 あの夏、16歳の私は毎日新聞を読んでチェコで何が起きているか心配していた。状況は日を追う毎に悪くなり遂に軍事占領される事態になった。言いようの無い怒りと無力感を感じていた。

 元々、ソ連は大嫌いだった。根室の漁民は貝殻島周辺でソ連の国境警備隊に拿捕されたり銃撃されて毎年のように殺されていた。終戦間際に日ソ不可侵条約を一方的に破って参戦し終戦後も北方領土に侵攻を続けて9月2日に米国に制止されるまで殺戮を続けただけでなく、満州からシベリヤに40万人以上抑留して7万人以上を飢え死にさせた。

 そんなソ連が東欧諸国を共産化して衛星国とし、ワルシャワ条約機構という軍事的な縛りをかけて民主化を抑え込んでいたのだ。

 10月に開催されたメキシコオリンピックに、出場が危ぶまれていたベラ・チャフラフスカが登場して体操競技で4個の金メダルをとった。

そして『床』で金メダルをソ連の選手と分け合った表彰式で彼女は無言の抵抗をした。
 私はこの中継を見ながら、東京オリンピックの華だったチャフラフスカが体操王国だったソ連の選手を相手に見事に戦う姿に胸打たれていた。

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 その前年だから1967年、中学生だった私のクラスで、誰かが『Hero』という中国製の万年筆を持って来た。数百円で買えるという。『造反有理』の赤い小さな毛沢東語録も持っていた。当時、日本は蒋介石の中華民国(台湾)と国交を結んでいて、毛沢東の中華人民共和国とは国交が無かったので、物珍しくクラス中で話題になった。

 大陸の情報と言えば『文化大革命』と『紅衛兵』ぐらいしか知らなかった。今でこそ毛沢東が大躍進政策で数千万人、文化大革命でも数千万人を死なせたということが既成の事実として認知されているが、当時は毛沢東は偉大な革命家であり周恩来首相はバンドン会議の立役者として有名だった。

 ここに岩波映画『夜明けの国』がYouTubeにあったので紹介したい。YouTubeにはこの映画を三分割してUPしてあり、ここに紹介するのは最後の第三部。それでも長いので見て欲しい部分を指摘すると18分43秒からで撫順炭鉱万人杭(墓)が映っている。

 『夜明けの国』は当時『竹のカーテン』と言われた中国の国内をルポルタージュしている貴重な映画で1967年に作成された。当然のことながら中国共産党の許可を得なければ作れなかったものだ。岩波がこの頃から中国共産党に寄り添っていたのがよく分かる。

 中国文学者の竹内好はこの映画を観て涙を流し、文化大革命を礼賛したという。これに関して専修大学の土屋昌明教授(中国文学)の文章がPDFファイルでWEBに公開されている。( 竹内好と文化大革命―映画『夜明けの国』をめぐって file:///C:/Users/Owner/Downloads/3011_0539_04%20(1).pdf )

 撫順炭鉱は満鉄が経営した東洋最大の炭鉱で、ここで多くの中国人労働者が働いていた。中国共産党は万人杭を日本人によって生き埋めにされた中国人の墓だと言っているが、客観的に証明されない主張だ。(Wikipedia『万人杭』を参照して欲しい)

 この映画の万人杭はLiao yuan(遼源)と字幕にあるので撫順では無いのだが、映画は撫順炭鉱で殺された中国人の墓として映し出し日本軍国主義の犠牲者という印象操作がされている。1972年から朝日新聞に連載された本多勝一の「中国の旅」の5年も前に同じ構図で映画が作られていること。そしてそれが岩波であったことに今更ながら唖然とする。

 勿論、当時少年だった私はそんな背景があるとは知らなかった。

 全共闘がゲバ棒を持って暴れたのも『造反有理』という文化大革命の影響を無視できない。多くの左翼系文化人が『文化大革命』を『永久革命』などと礼賛していたが、彼らが『プラハの春』が弾圧されたことにベトナム戦争ほどの関心を寄せなかった理由を知りたいと思う。

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 島田洋一という人のブログで知ったのだが、クラシックの作曲家で世界に認知された唯一の日本人作曲家と言っていい武満徹が、ロシアの作曲家のシチェドリンとの対話の中で

共産主義の理念の良さには同情的な武満が「しかしなぜ共産主義には独裁が出てきてしまうんでしょう。ひどい矛盾ですよね」と聞くと、「それは共産主義が本来無謀な理論だからですよ。無謀な理論を理性で説得するわけにはいきませんからね。結局、力と恐怖で押さえるしかない。だから独裁しかありえない」

 島田洋一第2ブログ 「共産主義にはなぜ独裁が」

 ―武満徹の疑問とシチェドリン、ハイエクの答え (https://archive.md/20140817012333/http://island3.exblog.jp/22030553/)


そんな武満徹が谷川俊太郎の詩に作曲した『死んだ男の残したものは』

死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった

死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着もの一枚残さなかった

死んだ子どもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった

死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった

死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない

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 素晴らしい『反戦歌』で非の打ち所がない。しかし、ここにあるセンチメント(感傷)が覆って隠してしまうものを感じる私はひねくれ者なのだろうか。

 60年安保でデモに参加し、べ平連や全共闘に共感し『造反有理』に永久革命を夢見る人が『反戦』のポーズをとる時に、あの加藤周一や大江健三郎や鶴見俊輔の『九条の会』が戦争反対と言いながら、拉致被害者とは一切連帯しないのと同じ欺瞞を感じるのだ。

 平和とは何か。PEACEはPAXに由来していて古来パックス・ロマーナ(ローマによる平和)のように使われて来た。

 タキトゥス著『アグリコラ』には

強奪、破壊、殺戮を偽りの名で支配と、土地を砂漠へと変えることを、平和と呼ぶ。

とあり、平定されている状態を指し示すという趣旨の話を西部邁が言っていた。

 たとえ不自由であってもワルシャワ条約機構の縛りの中で生きている限りチェコ国民は平和の中にいたと言えるのだ。では『プラハの春』は否定されるのか、そうではあるまい。否定すれば彼ら自身が平和な日本で反体制運動を繰り広げているのだから自己撞着を起こしてしまう。

 『パックス・アメリカーナ』によって与えられた平和に安住し、こんなセンチメントにいつ迄浸っているのだろう。武満徹のような心情左翼が陥るある種の無感覚が、この国を覆っている。

 例えば女優の吉永小百合が夏になると『原爆詩の朗読』をする。そこには谷川俊太郎の詩と同じ原爆の悲惨さだけが表現されている。原爆は嫌だ、戦争は嫌だ、平和に代えられるものは無いのだと繰り返し繰り返し語り続ける。

 そこには物事の理非曲直を詳らかにしようとする事を忌避するがごとき思考停止がある。インドのパール判事は原爆碑の『安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから』を見て日本人が原爆を落としてしまったのかと訝しく思ったという。

 また村上春樹がエルサレム文学賞を受賞し、招かれたエルサレムで

『高くて固い壁があり、それにぶつかっていく卵がある、とすれば卵の側に立つ。爆弾、戦車、ロケット弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の人たちが卵です』と語った。

 2000年以上も争っているユダヤとアラブの対立を前に、この『常に弱者の側に立つ』という話は説得力を持たない。今はたまたまユダヤ人国家がアラブより強いが、第二次大戦前にはユダヤ人は国を追われて世界中に散って迫害を受け続けてきたのだ。そんな場所にのこのこ出かけて行って『常に弱者の側に立つ』というのは、吉永小百合や谷川俊太郎や広島の原爆碑と同じ『ただのポーズ』でしかない。

 『プラハの春』の後、苦難の人生を歩み続け二十年後にようやく自由を獲得したベラ・チャフラフスカは、このような『ポーズ』に共感し賞賛するだろうか。

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 1970年の安保改定に向けて『60年安保』の夢よもう一度と反対した社会党は、1969年末の総選挙で134議席から90議席に激減した。反対に自民党は16議席伸ばして288議席の安定多数を占めた。国民は現実的選択をしたのだ。

 この20年後、1989年11月10日にベルリンの壁が民衆によって壊され、東欧の民主化『東欧革命』が雪崩を打つように始まり、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウセスクは公開射殺される。2年後の1991年12月にはソビエト連邦も崩壊した。

 この時、共産主義は民衆によって否定された。1993年に行われた総選挙で日本社会党は1969年以来の大敗を喫し64議席減の70議席となり、1995年の参院選では16議席と大敗し翌年には『社会民主党』に改称するが現有勢力は衆議院1議席、参議院1議席となっている。

 東西冷戦の時代には、マルクス経済学や唯物史観という『科学的社会主義』を研究する『社会科学』学派は一定の勢力を持っていた。朝日新聞や岩波書店などに代表されるメディアもこれらの学者や評論家を重用して世論形成に励んでいた。『朝日ジャーナル』や『世界』はこうした進歩的文化人の牙城であった。

 しかし、丸山真男が世を去った1996年頃からだろうか、左翼の変節が始まった。つまり『社会科学』を堂々と主張できなくなった人達が生き残る活動を始めたのだ。それは、個別の問題に特化して活動するもので、平和憲法を護れと訴える『九条の会』、沖縄の基地反対闘争、『死刑廃止運動』、『原発反対運動』、家族制度を解体せよという『夫婦別性』運動、ジェンダーフリーや多様性社会を目指せと説く『LGBT社会運動』と多岐にわたる。いずれも吉永小百合のような平和教信者たちのセンチメントにポリティカルコレクトネスが結合した非寛容さがある。

 現在進行形の事柄の歴史的意味合いは何十年か後にならないと分からないだろう。だが、私の知る限り『社会科学』を標榜していた人達やその仲間たちが現実を見誤ったのは紛れもない事実で、彼らの後継が活動の真の目的を知ってか知らずにか行っている事はいずれ日本の社会に大きな禍根を残すと考えている。

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 私が『プラハの春』から受けた衝撃はとても大きかったが、日本で起きている左翼運動とこの事件を関連付けて報道するマスコミは無かったと記憶している。それぞれ別の話だったのだ。だが、少年だった私はそれが不思議でならなかった。武満徹の素朴な疑問は私の疑問でもあったのだ。

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 さて幼少期から書き始めたこのブログも思春期を過ぎようとしています。何ものにもならずこの世を去って行く前に、せめて自分の見聞きしたことを自分の言葉で書き綴りたいとの思いで何とか書き継いできました。

 そんな私が見に行くブログがあります。

 セブ島に住む理路庵先生のブログ

 『CEBU ものがたり』

 https://ba3ja1c2.blogspot.com/

 現在更新が途絶えていて少し心配しています。 

 

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