サターンV型ロケット

 先週、金星蝕があったと聞いて、仕事帰り見上げた空に三日月がかかっていて宵の明星が月の右下に輝いていたのを思い出した。あれは金星蝕の直後だったのだ。金星の前を三日月が横切った直後にまるで月の雫が溢れたように宵の明星は輝いていた。それはとても美しい光景でバス停からしばし見上げていた。

 そう言えば、読み知らずの古歌に『月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月』という歌がある。仲秋の名月に満月を愛でるこの歌を謡ったという長閑な故事も月が遥か彼方の眺めるだけの存在だったからで、古来人々は月を見上げては心の中で物語を育んで来た。

 そんな月が手の届く現実になったのが、アポロ11号が月面着陸をした1969年7月21日で私は17歳になったばかりだった。

 1961年5月25日にアメリカ上院においてケネディ大統領が60年代に月に人類を送り込むと演説してから8年という短期間で達成された偉業だった。JFKは暗殺されたがNASAの天才フォン・ブラウンはその意思を継いでこの偉業を見事に達成した。

 アメリカの宇宙開発はソビエト連邦(現ロシア)の後塵を拝していた。1957年、ソ連がスプートニク1号を打ち上げ地球の周回軌道に乗せることに成功し、これが史上初めての人工衛星となった。米国は慌ててNASAを設立しマーキュリー計画をスタートさせるが、1961年4月12日にはソ連のガガーリンが人類初の有人宇宙飛行に成功してしまう。こうした状況下でJFKはアポロ計画の目標を月面着陸に変更させたのだ。
 
 NASAのフォンブラウンはアポロ計画の為にサターンV型ロケットを開発した。全長110m底部直径10mにも及ぶ史上最大のロケットで、第1段ロケット5基の総出力を馬力に換算すると、約1億6千万馬力に達し、マッハ8の速度で高度約300kmの低軌道なら120tにも及ぶペイロードを投入することができる史上最大のロケットだ。その威容は日本の誇るH-ⅡAロケットの全長50mに比べても比較にならない程の圧倒的なものだった。
 冒頭ドイツ語なまりの英語で説明している人物がフォンブラウン。私達の世代の男の子にとってフォンブラウンは憧れだった。子供の頃の夢を生涯追い続けて偉業を達成したからだ。ナチスの元でV2ロケット(世界初の大陸弾道弾)を開発した過去も知られていたが、彼の能力を必要としていた米国が彼の過去を問題にする事は無かった。
 何故こんな化け物のようなロケットを作ったのかと言えば、月に人類を送り込むのにステップを踏む時間を惜しんだからだろう。なりふり構わず目的に邁進する情熱やタフな精神と冷静で合理的な判断力を兼ね備えた人物でなければなし得ない事だったに違いない。
 この頃の日本はラムダロケットの時代、電柱ぐらいのロケットで小さな衛生を地球の周回軌道に乗せようと試行錯誤を繰り返していた。翌年の1970年に漸く打ち上げられた日本初の人工衛星『おおすみ』は長さ100cm直径48cm質量23.8kgという小さなものだった。GDP世界第二位に躍り出た日本でさえこうなのだから、このサターンV型ロケットの打ち上げ成功は唯一無二のスーパーパワーとしての米国の国力を世界に示したと言っても過言ではないだろう。

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 改めてサターンV型ロケットの威容を見る時、欧米人(キリスト教徒というべきか)の自然感がそこに現れているように思うようになった。

 私はデカルトの心身二元論が近代科学の発展を促したと考えていた。
 デカルトの『方法論序説』を読んだのはこの頃だった。私の理解では、デカルトは『われ思う、故にわれあり』と語り、人の本質は意識の主体である心にあるとして、心や心がからむ科学的に扱えない問題を科学の対象から切り離し、人の精神を除くすべての現象を科学の対象とした。この心身二元論が近代合理主義や近代科学をキリスト教の束縛から解放したと理解していた。

 ところが、リン・ホワイトJrという人が1967年に現在の地球環境が危機的状況に陥っているのは、『旧約聖書』「創世記」の記述によって、神は自然の支配を人間に許したからであり,それゆえ『キリスト教は、[環境破壊について]有罪という、非常に大きな重荷を負っている』と書いたという。
 ( 地球環境の悪化とユダヤ・キリスト教の人間中心主義/中央大学:中川洋一郎 https://core.ac.uk/download/pdf/229772007.pdf )
 
 『創世記』第1章28編より
 「神は彼らを祝福して言われた。『生めよ、ふえよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。神はまた言われた、『わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたにあたえる。これはあなたがたの食物になるのであろう』
 
キリスト教にかけられた“嫌疑”/日経XTECHより引用>
 ホワイトは『機械と神』という著作の中で、今日の環境問題の起源を歴史的・思想的に説き起こし、大本にあるのがユダヤ・キリスト教だと述べた。といってもキリスト教そのものを糾弾したのではない。ホワイトは今日の環境問題は科学や技術の無制限な研究・開発によってもたらされたと指摘。それでは何が根拠となって無制限な科学と技術の発達がもたらされたのかと問い、その起源が現在をはるかにさかのぼることを解き明かしたのである。

 近代科学は11世紀にギリシャ的な思考とキリスト教の教義とがうまく融合したことで発達し始めた。だが科学技術が発達するにしても、なぜ人間は特別な存在であり、自然を破壊してもいいのだろうか? 

 人間は神が泥をこねて創り上げた存在である。しかし人間は単なる自然の一部でもない。神に似せて作られたからである。人間はすべての動物に名前をつけ、動物を支配した。神は人間の利益と支配のために動植物を、否、あらゆる物的な創造物を準備したのである。それを象徴するのが先に掲げた『創世記』の言葉で、これを大義名分に人間の自然支配は成立した。人間が自然を支配することは神の意志に沿うことなのである。

 自然は人間と分離され、物事はすべて人間への有益性から判断されることになった。万物は人間から見て役立つかどうかで存在意義が決定するという人間中心主義の自然観。ここから、自然を酷使し資源を浪費させる科学技術の発達が始まった。科学技術の無限の発達は、人間に役立つ限りは善であり、自然を破壊することも容認される。

 キリスト教を批判したのだから、「ホワイトは反キリスト教なのか?」「何教の信者なのか?」と疑問に思われる方もいるかもしれないが、実は敬虔なキリスト教徒であった。だからこそ、かえってホワイトの指摘には、単なる勧善懲悪の構図ではない奥深さが潜んでいる。

<引用ここまで>

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 キリスト教ではこんな事もあった。

 < 日本のキリスト教化に失敗したマッカーサー元帥/クリスチャンプレス https://christianpress.jp/n210126/ より >

ダグラス・マッカーサーさんはアメリカの軍人で、第二次世界大戦で敗北した日本を1952年まで統治したGHQの最高司令官として1951年まで日本の実質上の最高権力者であった人物です。

自身も熱心なプロテスタント信徒だったこともあり、日本を統治するために、また、その後も長く平和路線を保たせるためには、日本をキリスト教国化することが必要だと考え、その統治中に2500人もの宣教師を日本に入国させたり、1000万冊の日本語訳聖書を配布したりと、多くの予算と人材をこのプロジェクトに投入しました。このことは「信教の自由」や「政教分離原則」に反すると、アメリカ本国からも日本のクリスチャンからも批判されもしましたが、マッカーサーさんは「特定の宗教に弾圧を加えているわけではない」と、反対意見を一蹴しました。

しかし、それで彼の統治中に日本のクリスチャンが増えたかと言うと、むしろ1947年には戦時中よりも減少してしまいました。1951年には戦時中と同じか、少し多いくらいまでにはなったようですが、「日本のキリスト教国化」を目指したこの計画はほぼ完全に失敗に終わったと言えます。

この失敗の背景には日本人にとってキリスト教は「占領軍の宗教」でしかなかったことが挙げられます。「あれはアメリカ人の信じている神様であって、自分達とは関係ないものだ」と多くに人に認識され、配布された聖書はタバコを巻く紙として使われてしまうこともあったんだとか。

この失敗はしかし、多くのキリスト教国を驚かせました。国を占領・統治した状態で、予算も人材も十分に注ぎ込んだにもかかわらず、ここまでの失敗を見た宣教の例は、他になかったからです。今でも日本は「世界で最もキリスト教宣教の難しい国」と言われています。

しかし、まったく意味がなかったわけではなく、現在の国際基督教大学は当時のマッカーサーさんの尽力によって建てられました。また今でも当時日本にやってきた宣教師たちをルーツとする教会が脈々と息づいています。

<引用ここまで>

 キリスト教は人間中心主義なのだという。日本でキリスト教が広まらないのは、基本的に日本人が人間を自然の一部と認識していることと相容れないからではないかと思う。

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 『人間みな同じ』とか『普遍的価値は世界共通』とかいう言葉が実は空虚なものではないのかという気がしているのだが、日本が近代化以来つねに『情報戦』に負け続けてきた歴史を振り返る時、根本的にこの『欧米人:キリスト教徒』の事を理解していなかったことが原因しているのかも知れないと思ったりしている。

 ここでアンドレ・リュウのコンサートから『ハレルヤ』

 ここに集うキリスト教徒たちが涙する光景を見て、彼らの心の底に流れる根源的な精神を私は理解していないことにハッとさせられる。
 Leonard Cohenの『Hallelujah』について解説した動画があるので参考に

 旧約聖書にある数々の物語は歴史的に実証されたものとは言えないが、彼らはこれらの話を心の糧として生きていることがわかる。
 そんな敬虔なキリスト教徒の一人だったダグラス・マッカーサーは『古事記・日本書紀』を教えることを禁じた。それは、記紀が歴史的事実に基づかない荒唐無稽な話だからという理由からだ。
 戦後の教育を受けた私を含めた日本人の大多数は、歴史を実証された事実によるものでなければならないと教えられてきた。しかし、本来持っていなくてはならない古来から伝承されてきた日本人の『心の糧』を教えることに反対する進歩的文化人たちは、この『ハレルヤ』を聴きながら涙する人々を見て何を感じるのだろう。

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 今日もまた『疑問の森』の中に迷いこんでしまったトッポジージョが訪ねていくのが、セブ島に住む理路庵先生。
 理路庵先生のブログ『CEBU ものがたり』は
 現在は更新が途絶えているが、過去記事の数々を是非ご覧いただきたい。



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