知行合一

  三島由紀夫が自決したのは1970年11月25日だった。

 戦後日本最高の文学者だった三島の自決はあまりにも政治的だった。彼の『自決』をめぐって様々な評論がメディアに踊った。松本清張が『文学的行き詰まりのごまかし』と批判し大江健三郎は『自決』を自身に対する暴力だとして日本軍が中国で行った暴力と重ね合わせて批判したが、これは政治的立場の違いからくる批判で三島の自決を貶めようとする意図が見え隠れする。
 司馬遼太郎は毎日新聞に「異常な三島事件に接して」と題して寄稿しているが、三島を吉田松陰と対比して論じている。二人に共通するのは陽明学の『知行合一』という教えだとしたうえで虚構(思想)を現実化する方法は狂気を発することしかないと言う。当然、この狂気のあげくのはてには死があり、松陰の場合には刑死したが、かれほど思想家としての結晶度の高い人でさえ、自殺によって自分の思想を完結しようとは思っていなかったとして、『三島氏の死は、氏はおそらく不満かもしれないが、文学論のカテゴリーにのみとどめられるべきもので、その点、有島武郎、芥川竜之介、太宰治とおなじ系列の、本質はおなじながらただ異常性がもっとも高いというだけの、そういう位置に確固として位置づけられるべきもので、松陰の死とは別系列にある。』ので『氏の死は政治論的死ではなく、文学論的死であり、であるから高貴であるとか、であるからどうであるという計量の問題はさておき、それ以外の余念をここで考えるべきではないように思える』と結論している。
 芥川はともかく有島や太宰と一緒くたにされては三島が気の毒に思えるが、一大センセーションを巻き起こした事件だったので、世論の動揺を抑えたいという意識が働いたのではないだろうか。石原慎太郎は嚙みついたが、マスコミの論調は司馬の目論見通りに沈静化していったと記憶している。
 三島の『檄』を聴いていると彼が小説の主人公の如く独白しているような気がしてくる。それは『仮面の告白』の「私」や『金閣寺』の「私」が自分自身に語っているかのようで、野次と怒号の中でかれは作中人物になっていたのではないだろうか。
 前年の1969年の国際反戦デーに68年同様の全共闘の暴動があれば、政府は自衛隊の保安出動を命じるだろうと信じた三島は、佐藤内閣が『凶器準備集合罪』を成立させ暴動を未然に防ぐ法整備をしたことで自衛隊の保安出動の可能性がなくなった一事をもって事件を起こしたと言っているので、これほどの事件を起こす動悸としては弱いとしか言えない。とすれば司馬の言うように狂気なのかもしれない。
 私は今は亡き伊東勝彦が『金閣寺』について書いた
天皇は私の側へ、つまり人間へと近づいてきては絶対にならないものであった。なぜなら、天皇は神であることによってのみ、ある全体を象徴することができ、私もまた、その天皇との関わりにおいて全体性に参与することができるからである。もちろん、そのような全体性がもはや再現不可能な幻影にすぎないことを彼も充分承知している。けれども、戦争中では、すべての人が死によって天皇に帰一することを願っていた、あの死の共同体ともいうべきものの中に生きることを願わずにはおれなかった。戦時下において、彼自身はそれに参加することを逸してしまったのであるから、それだけに、よけいに、あの集団的悲劇に参与することの苦痛と恍惚を大いなるものと想像せずにおれなかったのである。
 という心情が三島をあの行動に駆り立てたのではないだろうかと思っている。そして彼の背中を押した陽明学の『知行合一』という言葉の魔力を感ぜずにはいられない。 
 
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 十代だった私には三島が死に急いだ訳が理解出来なかった。ただ審美的で純粋な精神の持ち主だったのだろうと思った。『金閣寺』には、溝口(私)に向かって友人の柏木が 「この世界を変貌させるのは認識だ」と説くが、これに対し私は「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反駁する場面がある。
 小説世界では最終的な行為に向けて主人公をとりまく様々な状況が収斂されていくので、読者は主人公の行為の必然性を容易に受け入れることができるが、現実世界では三島の心の中に分け入ることなど出来ないので彼の残した断片でしか推し量るほかない。
 私にはそれが「世界を変貌させるのは行為なんだ」という言葉だったが、この言葉だけでは三島の行為を説明するには弱すぎると感じていた。のちに陽明学の『知行合一』を知り、陽明学徒の醸し出す『滅びの美学』的な余りにもストイックな世界に人を引き込む形而上的な論理がこの日本でなぜ流行ったのだろうかと不思議に思った。
 
 儒教の何たるかを知らず、父に言われるままに漠然と
子(し)曰(のたまわ)く、
「学びて時に之を習ふ。亦説(よろこ)ばしからずや。
 朋有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。
 人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。」と。
と君子の行いを思い
曾子曰く、吾日に三たび吾身を省りみる。人の爲に謀りて忠ならざりし乎、朋友と交りて信ならざりし乎、習はざるを傳へし乎。
と日々を反省し
子曰く、巧言令色、鮮し仁。 
と実直なることを尊んでいれば
子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こえ)ず。 
と自ずから徳が身につくものと思っていたし、自分はそのような人生を歩みたいと願ってもいた。

 こうした孔子様の教え(道徳律)が儒教だという素朴な理解をして育ったので、孟子についても『孟母三遷の教え』という逸話しか知らず、朱子学もその内容を知らず江戸幕府が封建体制を維持するための教学としたという表面的な理解しかしていなかった。
 
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 偶然にも『太平記』を読み、後醍醐天皇が楠木正成らの悪党と『無礼講』をして鎌倉幕府の倒幕を練っていたという場面で、『無礼講』がいかなるものか気になって調べてみたところ、『無礼講』とは文字通り『礼の無いこと』で礼とは身分を表す装束を着ていないことを意味していた。
『花園天皇宸記』
「元享四年十一月朔日条
凡そ近日或人云う、資朝・俊基等、衆を結んで会合乱遊す。或いは衣冠を着さず、殆ど裸形なり、飲茶の会これあり、これ達士の風を学ぶ歟。□康の蓬頭散帯、達士先賢尚ほその毀教の譴を免がれず、何をか況や未だ高士の風に達せざるをや。偏へに嗜欲の志を縦にし、濫りに方外の名を称す。豈に孔孟の意に協はん乎。この衆、数輩あり。世にこれを無礼講 或いは被礼講と称すの衆と称すと云々。緇素数多に及ぶ。その人数一紙に載せ、去比六波羅に落とす。或いは云う。祐雅法師、自筆を染めてこれを書くと。この内或いは高貴の人ありと云々。件の注文、未だ一見せず。仍てこれを知らず」
 
 儒教は孔子の教え(論語)を如何に読むかという解釈学の総称であり、孟子や朱子、王陽明もその内の一人と言える。
 そこで論語の子路編に
子路曰く、衛(えい)の君、子を待ちて政を為さば、子将(まさ)に奚(なに)をか先にせん。子曰わく、必ずや名を正さんか。・・・君子は其の知らざる所に於(おい)ては、蓋闕如(かつけつじょ)たり。名正しからざれば則(すなわ)ち言(げん)順(したが)わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽(れいがく)興(おこ)らず、礼楽興らざれば則ち刑罰(けいばつ)中(あた)らず、刑罰中らざれば則ち民(たみ)手足を措(お)く所なし。故に君子はこれに名づくれば必ず言うべきなり。これを言えば必ず行うべきなり。君子、其の言に於て、苟(いやしく)もする所なきのみ。
 とあり顔淵編には
齊の景公 政(まつりごと)を孔子に問ふ。孔子對(こたへて)曰く、君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり。公曰く、善(よき)哉(かな)。信(まこと)に如(も)し君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずんば、粟(ぞく)ありと雖(いへど)も、吾得而(て)諸(これ)を食(くら)はむや。
 とある。これが「正名論」の元で、日本大百科全書(ニッポニカ)「正名論」には、『正名論の発端は、政治の急務は名を正すことにありとの孔子の主張であるが(『論語』子路篇)、その具体的内容は、たとえば君臣父子がそれぞれ君臣父子らしくあれというもので(同上顔淵篇)名称にふさわしい実質であればよい統治が行われるという考えである。』と説明されている。
 朱熹(朱子)の『論語集注』では、孔子の「正名」はそのような「名分を正す」を意味するのだと解釈されている。
 以下Wikipediaより抜粋
 「名分」という語句は、「君臣父子の分」「上下の分」などと言い換えられる。「~の分」は「~の別」「~の弁」(辨)とも言い換えられる(いずれも「区別」を意味する)。「君臣父子」に「夫婦」「兄弟」「母」「農士工商」などを加えることもある。そのほか「名分」の関連語句として、「貴賤」「親疎」「長幼」「尊卑」「本分」「定分」などの語句がある。
「名分が正しい」という状態、すなわち「君主が君主であり……子が子である」状態とは、言い換えれば、共同体内の上下関係・役割関係が明確化されている状態であり、身分に応じた規範意識・責任意識が保たれている状態であり、職分・職掌・職務・分業が遵守されている状態である。その反対に、「名分が正しくない」状態、すなわち「君主が君主ではなく……子が子ではない」状態とは、言い換えれば、臣下による君主の傀儡化、僭称、弑逆、下剋上、職分侵犯、職務怠慢、責任放棄、尊属殺、御家騒動などが起きている状態である。
 「名分を正す」という行為は、儒教の主要なトピックである「」「称謂」「春秋」「正統論」と深く関わる。
 儒教における「」とは、平たく言えば「規定」「規範」「マナー」のことで、具体的には、冠婚葬祭・「死」の言い方・服忌・服飾・建築・青銅器(礼器(中国語版))などの細かい規定をさす。それらの規定においては、「君臣」「父子」「貴賤」「親疎」「長幼」などの区別が論点になる。その他にも、郷村の饗宴(郷飲酒礼(中国語版))における「主人と賓客」の区別なども論点になる。儒教では、それらの細かい規定こそが、結果的に社会全体に秩序と調和をもたらすのだと考えられていた。
 そのような「」という営為こそがすなわち「名分を正す」である、とされることもある。<以上Wikipediaより引用>
 
 『大義名分論』は朱子が『資治通鑑綱目』において論じた歴史論で、長幼の別、君臣の別、華夷の別(中華民族と周辺民族を区別し、漢民族を中国の正統とする考え)を明らかにしたもので、その核心にある理念が孝と忠である。本来の孔子の説く孝は家族の親和、忠は君臣の信頼関係を重視するものであったが、朱子学においては為政者にとって秩序維持に必要な理念として説かれるようになり、封建道徳に変質した。朝鮮の朱子学はその面だけが強調され、倭寇が清の海賊であれば捕らえることが出来ず丁重に帰国させるのが彼らの名分論となった。我々日本人には到底理解不能なことだが、彼らの儒教的思考は我々とはまったく別物だ。
 鎌倉末期に宋学として入って来た儒教の名分論は統治のための新しい教養であったことが、『太平記』や『花園天皇宸記』から読み取れる。そしてそれこそが中国や朝鮮の本来の意味での儒教で、私が子供の頃から教えられた儒教とは趣きが違う。

 これを知った時、儒教の日本的受容があったのではないかと考えたのだが、はたしてその通りだった。18世紀に中江藤樹が陽明学を広め、石田梅岩という市井の学者が『石門心学』を唱え、その弟子たちが幕末までに全国に173か所もの講舎を建てて教えを広めた。この『石門心学』は倫理を説くものだったが、基本理念は陽明学の『性理二元論』において諸学の良い処取りをしたものだった。
 陽明学は中国や朝鮮では顧みられなかったが、日本では陽明学を日本的に解釈した実践倫理の教えとして広まったと言える。 
 幕府の昌平黌で塾頭をしていた佐藤一斎が中江藤樹を尊崇し『陽朱陰王』(表では朱子学を教え裏では王陽明を教えた)と呼ばれて幕末に大きな影響を与えたことから、多くの陽明学徒が輩出した。
 佐藤一斎の著書『言志四録』には
少くして学べば、則ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず
とあり、人間は終生学ぶべきという当為を謳っている。
 筑波大学発行の雑誌『倫理学』27号に掲載された張 惟綜氏の論文『佐藤一斎と吉田松陰 : 否定思想の比較』http://hdl.handle.net/2241/113700
を読んで陽明学の何たるかがおぼろげながら理解出来たように思った。
 張氏は『言志四録』に弁証法的論法が見られるという。
 弁証法的運動においては、終点がなく螺旋的に上昇していくという動的状態でなければならない。なぜなら、もしただ一回の「正ー反ー合」と弁証法的運動だけによって静止となったら、自己同一の行き詰まりから脱出することができないからである。
 もし「私は私である」という命題に安んじれば、一見自己の主体性を固持することができるようにみえるが、しかし「現在の私」に甘んずることは逆に「あるべき私」を見失うことをもたらすのである。こうした状態に置かれては、現状に満足している自己は決してあるべき様態に向かって進歩することができない。したがって、「あるべき私」を前提として「現在の私」に臨むとき、当然自己を否定して「あるべき私」を目指して精進するのである。言葉をかえていえば、自己を否定することによってのみ初めて「あるべき私」に近づくことができる。こうした否定思想は佐藤一斎の言志四録に見出せるように思われる。
 ・・・すなわち『真己』が『仮己』に克つという思想には自己否定が見出せるのである。
 
 つまり宋学(朱子学)では、心を性(仁、義、礼、知、信の五常をもつ人間の本性)と情(感情、欲望)とにわけ、性がすなわち理(宇宙の根本)であると考え「性即理」とし、それにそった生き方によって聖人となることを目指したのであるが、王陽明はそのような考えをあまりに主知主義、観念的であると批判し、人間の心は性と理が渾然一体となった物であり、その心こそが宇宙の真理と一体であると主張し、その考えを心即理と言い表した。その上で、善なる性に至る無限の自己否定を実践する『知行合一』を唱えたのだ。

 陽明学徒と言えば、大塩平八郎、吉田松陰、佐久間象山、高杉晋作、西郷隆盛などが有名だが、その後大正11年に東大卒業記念として執筆し、出版された『王陽明研究』が反響を呼んだ安岡正篤が特筆される陽明学徒で『終戦の詔勅』(玉音放送された)を起草するほど政界や皇室からも信頼された学者だった。戦犯として起訴する動きもあったが、中華民国の蒋介石が『ヤスオカほどの人物を戦犯にするのは間違いだ』とGHQを説得し逮捕されなかったという逸話がある。

 その安岡へ三島は自決の年に手紙を書いている。

前略

此度は伊沢甲子麿氏を通じて御高著を頂戴いたし厚く御礼申し上げます
陽明学についての御高著はかねて必読の書と存じていながら、入手困難にて、これまで拝読の機を得ずにをりましたので、望外の賜物と欣喜雀躍いたしてをります。
いずれも現在全く稀コウの御本を、頂戴できました嬉しさはたとえる方なく永く家宝として保存いたします。

 このごろ若干評論家のうちでも、江藤惇の如き、ハーバード大学で突然朱子学の本をよみ、それから狐に憑かれた如く朱子学、朱子学と騒ぎ廻っている醜態を見るにつけ、どうせ朱子学は江藤のやうな書斎派の哲学に適当であらうと見切りをつけ、小生のほうは、先生の御著書を手はじめとして、ゆっくり時をかけて勉強いたし、ずっと先になって、知行合一の陽明学の何たるかを証明したい、などと大それた野心を抱いてをります。

 左翼学者でも、丸山真男の如き、自ら荻生徂徠を気取って、徂徠学ばかり祖述し、近世日本の政治思想の中でも、陽明学は半頁のcommentaryで片附けけてゐるかの如きは、もっとも「非科学的」態度と存じます。却って大衆作家の司馬遼太郎などにまじめな研究態度が見え、心強く思ってをります。
東洋思想に盲目の近代インテリが今なほ横行開示してゐる現下日本で、先生のやうな真の学問に学ぶことのできる倖せを忝(かたじけなく)く存じます。

気候不順の折柄、何卒御身御大切に遊ばしますやう
                                       匆々                       
                                   三島由紀夫 
五月二十六日                                    
安岡正篤先生
 
 後に安岡は「手紙を貰っていたが、早い時期に東洋の学問など、じっくりと語り合いたかった。惜しいことをした」と述懐している。

 『彼は陽明学徒だから』と言い一種揶揄するような響きがついてまわる「陽明学徒」。克己心の強い真面目な人の声を無為に聞き流して良いのかと思う。


 
  

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